怪奇歓談

やを・ばーど

エレベーター・ホール

 引きつるように息を吸い込み、目が覚める。

 舌から胃のあたりまでが氷になった錯覚。恐怖と緊張。カーテンを抜けた朝陽でも溶けない。

 隣のベッドにもう温もりはない。スリッパが忙しなく動き回る軽い音が微かに聞こえる。

 鼓動が落ち着くまでの間、目覚まし時計を見つめるのも、既に日課となっていた。

 七時を指す直前、ボタンに手を置く。アラームが「ピ」と鳴るか鳴らないかのタイミングで即座に止める。早押しクイズの回答者のようだな、と自嘲するのもいつもと同じだった。


「おはよう」

「ケンくん、おはよう」

 晴香が嬉しそうに振り向いた。俺も思わず笑い返す。

 結婚から三年。それでもまだ、恋人であるかのような感覚が抜けないのは、幸福なことなのだろう。

 そう。三年。精神をヤスリがけするかのような恐怖と疲弊が沈殿していく日々が始まって、もう三年も経っている。

 結婚生活に不満はない。

 美しく気の利く妻。やりがいのある仕事は順調。住み心地のいい暮らし。恵まれた人間関係。

 俺が望んだもの。全てが揃っている。

 だが、朝は一日の中で最も憂鬱だった。

 晴香の作る料理はバランスも良ければ味も文句なし。こんな状況でも美味しいと思う。

 それなのに「朝は少な目にした方が調子が出るんだ」と言い訳をして、量を減らしてもらわなければならないのが心苦しい。

 朝は恐怖のピークだ。特に、出かける前のこの時間が。トースト一枚と少量のサラダ、一かけらのオレンジ。これだけでも、食べきるのがやっとだ。いつかこの量さえ喉を通らなくなるかもしれない。


「いってきます」

「ん。いってらっしゃい」

 玄関前でキスをする。

 いつも、これが今生の別れになるのではないかという不安を抱えながら、キスをする。

 扉が閉まる。俺は世界に放り出された絶望に陥る。

 行かなければならない。

 震える歯で人差し指の第二関節を噛む。恐怖を抑え込む癖が、いつの間にか身についていた。

 スーツは土砂降りの水を吸ったように、靴は底に鉛の板を何枚も埋め込んだかのように、身体に圧し掛かる。

 ネクタイがいつか俺の首を吊るのではないか。そんな妄想に駆られるほど、息苦しい。

 それでも歩く。望んだものを手放さないため。

 八階から覗く外の景色は青く澄み、その爽やかさが余りにも精神状態と乖離していることに吐き気を覚える。

 歩く。

 身体を引き摺るように、歩く。

 口の中に血の味が染みる。噛みすぎた指からの出血。いつものことだ。

 痛みはない。感じられるほどの余裕がないのだろう。

 一歩、一歩、歩く。

 エレベーターが、近づいてくる。

 毎朝、階段に羨望の眼差しを向けてしまう自分が、あまりにも滑稽で、哀れで、愚かであると、他人事のように俺を眺める冷静さが、いつからか頭の片隅に居ついていた。


 着いた。

 着いてしまった。

 エレベーターに。

 鞄からミネラルウォーターを取り出し、喉を鳴らして飲む。

 胃の奥に挟まり続けている氷のような恐怖に同調するように、冷たい水が落ちてゆく。

 もしエレベーターに乗るためだけに持っていることを晴香が知ったら、どう思うだろう。

 荒い呼吸。朦朧とする。

 慌てて酸素缶を取り出し、肺へ空気を送り込む。

 心臓が身体という殻を破ろうと暴れている。

 限界が近い。

 目をつぶり、強く唇を噛み締めながら――ボタンを押す。

 低く唸りだした駆動音。

 悪魔のいびきのような音が、次第にこみ上げてくる。

 顔を伏せて何も見ないようにすれば音による恐怖が膨らみ、階数表示を見守れば死刑宣告を待つようで、正しい振る舞いがわからず、いつもパニックに陥り逃げ出しそうになる。

 だが、逃げることは許されない。


 ”5”……”6”……”7”……


 エレベーターがやってくる。私のいる八階へ。

 汗が噴き出す。

 喉が干上がる。もう水はない。あってもペットボトルの蓋を開けられる自信がない。

 来る。

 来る。

 来る――来た!


 ”8”


「ひぃいっ!!」

 金属の箱が狭い空間にはまり込む音。

 ドアが、開く。

 中は…………光沢のある、白く、清潔な――見慣れたエレベーターだった。

「はぁぁぁ~~……」

 俺はその場にへたり込んでしまう。

 良かった。

 今日も……”はずれ”だった。


 四年前。

 何もかもが、駄目だった。

 辛い仕事。理不尽な客。嘲笑と侮蔑と嫉妬で組み立てられた人間関係。

 何もかもが、嫌になっていた。

 風が強い夜だった。

 湿気に舐めまわされるような不快感を受けながら、向かい風を押し返すように帰路についていた。

「幸せになりたくないか?」

 住宅街に吹き荒れる風の音の中、なぜかその声はかき消されずに耳に届いた。

 背の高い男がいた。男、だったと思う。思い出そうとすると、途端に自信がなくなる。

「幸せになりたくないか?」

 男は寸分違わぬ調子で俺に尋ねた。

 関わりたくなかった。頭がおかしい奴に決まっている。そうでなくとも、まともな相手ではない。

(幸せ? なりたいに決まってるだろう)

 心の中で、悪態をつくかのように呟いた。

「そうだろう、そうだろう」

 余りにもタイミングよく同調され、驚いて足が止まった。

 男の目を見た。見た、気がする。いや……目など、本当にあったのだろうか。

 なぜだか男が笑ったことだけは理解できた。

「幸せにしてやろう」

 意味がわからなかった。

「望むものを与えてやろう」

 気味が悪かった。俺は早足で立ち去る。

「ただし」

 ちらちらと後ろを振り返りながら、ほとんど走るように逃げる。

 男は微動だにしない。

 姿が遠ざかっていくのに、声だけは耳の中に張り付いていた。

「運試しをしてもらう」

 もう姿が見えない。おかしい。

「お前にとって理想の女と結婚させてやろう」

 何を言っているんだろう。意味はわかるのに、頭に入ってこない。

「結婚したら、毎朝一度、必ずエレベーターに乗れ」

 声だけが、追いかけてくる。

「逃げれば、全て幸運は消え去る」


 それからの一年間は、直前までの人生が嘘だったかのような幸運に満ちていた。

 たまたまやってきた客に気に入られ、好待遇で別の仕事に就くチャンスが転がり込み。

 直後に元々の会社は倒産。嫌な連中は、横領が発覚し逮捕されたり、事故にあってそのまま亡くなったり、全て悪縁が切れた。

 脱皮して生まれ変わった気分だった。

 仕事の要領は格段に良くなり、周囲の面倒見や親切もあって、すぐに頭角を現すようになり、大きな案件を任せられるようになった。

 関わる人は皆、誰もがネガティブな感情と無縁だった。金をせびられるようなこともなかった。人付き合いが楽しくなった。

 新しい取引先に出向いた時、晴香と出会った。

 線の細い美人で、気遣いができて、ユーモアがあった。話をしてみると、食や映画の好みも合った。すぐに恋人になった。

 半年後。

 デートの途中、宝石店の前で晴香が立ち止まった。

 突然左手を差し出した。それから、俺の左手を掴み、薬指を撫でながら、

「一緒の指輪、着けたいな」

 プロポーズは晴香からだった。

 付き合って半年での結婚は早いかなとも思ったが、なぜだか彼女との結婚は運命のような気がして、大喜びで承諾していた。

 遠くで、いつか見た男を見た気がした。気のせいだと思い込んで、記憶から掻き消した。


 二人の新居は、会社からも程々に近いマンションだった。駅から徒歩一〇分にもかかわらず、破格ともいえる値段で売りに出されていた。

 事故物件かと疑ったが、どうもそんな様子でもないようだった。

「もし幽霊が出ても、あたしは平気だよ」

 下見の時にそう言って笑った晴香を見て、購入を決めた。

 別々に暮らしていた互いの家から家財道具を運び、新しく買うものは買う。転職直後であまり貯金もなかったが、晴香の実家が「新婚祝いに」と援助してくれたので、彼女の勧めもあって甘えることにした。

 荷ほどきをして汗をかいた。一人、なんとなくベランダに出て、景色を眺めていた。前に暮らしていた小汚いアパートの二階からの景色とは似ても似つかない光景が広がっていた。

「毎朝だ。忘れるなよ。逃げれば全てを失うぞ」

 声がした。

 声だけがした。

 見回しても誰もいなかった。声を聞いた瞬間、そんな気がしていた。

 心臓が早鐘を打つ。血が高速で循環するのに合わせて、忘れていた記憶が全身を駆け巡る。

 背の高い男の言葉を、驚くほど鮮明に思い出していた。

「結婚したら、毎朝一度、必ずエレベーターに乗れ」

 くだらない。鼻で笑った。


 新生活が始まった。

 目覚まし時計が鳴っていた。

 甘えるように寝返りを打つ。もう隣に寝ているはずの晴香はいなくなっていた。

 そういえば、一足先に起きて、朝食を作ってくれると言っていた。

 微かにパタパタとスリッパの歩き回る音が聞こえる。家に誰かがいる生活は久しぶりだ。

 アラームを止め、ベッドから下り、カーテンを開ける。

 清々しい朝。そんな陳腐だが気持ちのいい言葉を思い浮かべる日が来るなんて、一年前には想像もしていなかった。


「あ、ケンくんおはよう。寝坊しなかったんだ。えらいえらい」

 エプロン姿の晴香が、ふわりと笑った。たったのそれだけの光景に、幸せを噛み締めていた。

「おはよう晴香」

 既にテーブルには朝食が出来上がっていた。

 トーストが二枚。ソーセージにスクランブルエッグ。彩りと栄養のバランスが取れたサラダ。カットされたオレンジ。

「コーヒーも丁度できたとこ」

 そう言って彼女が注がれたコーヒーを運んできてくれた。こだわりがなくて詳しいことはわからないが、それでも単純に香ばしくていい匂いだと思った。

 一人の時の朝食は、単にトーストを二枚焼いて、バターを塗って、それでおしまいだった。それがこんなに豪勢にアップデートされるとは。

「さ、食べよ。いただきます」

 いそいそと向かいに着席した彼女が両手を合わせ、それからトーストを齧る。

「いただきます。やばい、めちゃ嬉しい」

 俺も彼女に倣うようにトーストに手を伸ばした。


「いってらっしゃい」

 キスをすると、俺より遅い出社の晴香に見送られて家を出た。

 手を振る彼女を見ていると、結婚生活の事実がじんわり喜びを帯びた熱になって、胸いっぱいに広がっていく。

 足取りが軽い。羽が生えたら、こんな感じなのだろうか。廊下を歩いているだけなのに、妙な楽しさがある。幸せというのは全てを変えてしまうのかもしれない。

 エレベーターホールについた。

 ボタンを押そうとして――ふと、止まる。


「運試しをしてもらう」


 強風の夜に出会った背の高い男の言葉が過る。

 昨日、突然思い出した。この一年ほど、すっかり忘れていたのに。

 そういえば、運が好転しだしたのは、ちょうどあの男と出会った頃くらいからだったか。


「結婚したら、毎朝一度、必ずエレベーターに乗れ」


 あのくだらない言葉。

 エレベーターに乗ることで、何の運試しになるというのか。考えてみれば馬鹿馬鹿しい。

 自分の意外な不安症が垣間見えたことに苦笑しながら、エレベーターのボタンを押した。

 モーターか何かの駆動音が唸りだす。

 少し――ほんの少しだけ、扉が開くことへの緊張感があった。

 もしあの男が乗っていたら。


 ”8”


 エレベーターのランプが灯り、到着を知らせる電子音と共に扉が開く。

 そこには誰もいなかった。何もなかった。

 何の変哲もないエレベーターがあるだけだった。

「そりゃ、そうだよな……」

 再び苦笑すると俺は平静を装って乗り込み、一階のボタンを押した。


 新生活も二週間が過ぎた。

 全てが順調で、幸福だった。

「いってらっしゃい」

 晴香に見送られて出社するのにも慣れてきた。

 エレベーターホールに到着し、ボタンを押す。

 一階から順に上がってくるのを待つ。

 扉が開く。乗り込む。

 一階のボタンを押す。

「痛っ!?」

 ボタンを押した指先に鋭い痛みが走った。

 直後、ぞわぞわとした感触が手の甲を襲う。

 大きなムカデだった。

「うわっ」

 思わず手を素早く払う。床にムカデが落ちた。

 こんなところにムカデがいるのか? 前のアパートにいた頃でさえ、ゴキブリは見かけても、ムカデは見かけなかったのに。

 咬まれた場所が赤く腫れている。どんどん痛みが増している気がする。

 改めて床に落ちたムカデを探す。また咬まれてはたまらない。

 だが一瞬目を離した隙に、もう姿が見えなくなっていた。どこか隙間にでも隠れたのだろうか。

「クソッ、なんなんだよ……」

 悪態をついているうちに、エレベーターは一階に到着した。早く傷口を洗いたい。俺は近くの公園の水道に急いだ。


 ムカデに咬まれてから、一か月程過ぎた頃。すっかり痛みも消えて、虫への注意を忘れかけた矢先のことだった。

 エレベーターのボタンを押す。

 扉が開き、乗り込む。

 一階のボタンを押す。

 扉が閉まり、エレベーターが下降を始めた。

 低い駆動音。

 そこに混じって、異音。

「……?」

 頭上からだった。音のする方を見上げる。

 一瞬、固まってしまった。

 天井に穴が開いている。

 あれは、エレベーターの救出口……だったはずだ。確か、外側から鍵がかかっているはず。

 ということは、つまり。

 暗闇からより大きな駆動音が流れ込む。

 そして、荒い呼吸。

「はぁーっ……はぁーっ……はぁーっ……はぁーっ……」

 何かがいる。そこにいる。

 液体が漏れ出るように、髪らしき艶のない長い毛がじわじわと入り込んでくる。一体、あれは何なんだ。

 パネルには”5”と表示されていた。慌てて四階のボタンを押す。だが反応がない。

「嘘だろ!?」

 三階も、二階も、無視を決め込んだように無反応だった。

 目を離している間に、何者かはさらにこちらに近づいてきていた。先ほどまで数本の毛先だけだったものが、今や五〇センチ以上の長さとなっていた。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ」

 呼吸もどんどん音が大きくなっている。得体の知れない生臭い悪臭が鼻をつく。濡れた犬と汗を吸い続けた衣服が湿気を失わずに長年放置されたような、嗅いだことのない臭いだった。

「はぁーっ! はぁーっ!」

 無意識に開ボタンを連打していた。

 何者かはわからない。それでも絶対にこれは、悪意を持った存在だと確信していた。

「殺される!! 助けて!!」

 ドアを叩いていた。何もしないでいると、恐怖に押しつぶされそうだった。

 救出口の暗闇から、木の枝が伸びてきた。枝かと思うそれは、先端に爪のようなものがついていた。異様な長さの指らしかった。

 俺は何を見ているのだろう。夢の中に、悪夢の世界にいるのだろうか。

 あの男の言葉を気にする気持ちがどこかにあって、それがこんな悪夢を見せているのか。

 まだベッドの中、俺はただ眠っているだけで、隣では晴香が大人しく寝息を立てているのだろうか。

 そんな考えを遮るように、到着音が響いた。

 一階に着いたのだ。

 俺は猛ダッシュで飛び出し、エレベーターに振り向く。

 しかし――そこには、何もなかった。

 髪の毛や指はおろか、救出口の扉さえ垂れ下がっていなかった。

 掻き消すように、エレベーターの扉が閉じた。


 これが”運試し”なのだ。

 あの背の高い男が言うように、毎朝一度、エレベーターを使う度、俺はガチャガチャを回すように、運を試されている。

 ムカデもきっと、軽度の不運だったのだろう。

 天井裏の何か。もっと待たされていたならば、命を奪われていたかもしれない。

 こんな恐ろしいことが、幸福の代償だと?

 いや、そもそも、あの背の高い男は何者だ?

 考えてもわからないことばかりが、頭の中でグルグルと回り続ける。答えなど出るはずもない。

 それでも俺は、すっかり信じていた。

 突然の幸運はあの男の仕業なのだと。

 そして、あの男が言った通り、もし階段を選べば――奪われるのか、煙のように消えるのか――幸運は全て失われるのだと。

 エレベーターの”あたり”を引くことは、怖い。

 だが、今の幸福を……晴香を失うことは、何よりも恐ろしい。

 もう惨めで辛い生活に戻るなどまっぴらだ。


 それから三年。

 虫。

 刃物。

 蛇。

 暗闇。

 何か。

 肉塊。

 穴。

 何度かの”あたり”を引く度、心が摩耗していった。

 それでも。

 一日一度の、朝の地獄を乗り越えれば、あとは満ち足りた暮らしが待っていた。

 仕事は充実し、人間関係も良好。

 愛する晴香もいる。


「いってらっしゃい」

「いってきます」

 キスをする。

 最期のキスになるかもしれない不安を押し殺して。

 玄関のドアが閉まる。

 重い足取りでエレベーターへ向かう。

 水を飲み干す。

 酸素缶を吸い込む。

 そして、エレベーターのボタンを押す。


 ”5”


 ”6”


 ”7”



 ”8”


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