第31話「朝を迎えて」

 リリアナがまず気が付いたのは鼻腔をかすめる香りだった。

 この匂いには覚えがある。セインの匂いだ。

 抱きついたとき、二人きりになったとき、一緒に歩いているとき……いつも彼からはこの匂いがしていた。

 花の芳香にも似た、気持ちが安らぐ優しい穏やかな香り。

 リリアナがゆっくりと瞼を開けると、そこは宿のベッドの上だ。

 ベッドの傍らにはセインが座っていて、頬杖をつきながら何かの本を読んでいるようだ。

 目を覚ましたリリアナには気が付いていない。

 窓へ目をやると白い光が厚いカーテンの色を薄めているのがわかった。もう朝なのか。

「セインさん……」

 静かな空間にリリアナのか細い声。セインはやや驚いた顔をした後、優しく穏やかな表情を向けて

「おはよう、リリアナ」

 と言いながら読んでいた本を閉じた。リリアナも少し弱く微笑んで

「おはようございます……もう朝になってたんですね……」

 窓の方へ目をやる。セインもつられて窓の方を見る。

「ああ、一晩経った。体の方はどうだ?」

「あっ……そうですね……うっ……いたい……」

 リリアナは体を起こそうとするが、全身に小さな刺激痛を感じて思うように起き上がれない。

 セインはリリアナの体を支え、

「無理するな。魔力を使い切ったそうだな。しばらくは動けんとシータスが言っていた。もう少し休んでいろ」

 と添え、彼女の体を再び寝かせた。そして優しく布団をかぶせてやる。

「ごめんなさい……迷惑かけてしまって……あ、それじゃ今日は……」

「この街にもう一泊だ。どのみちラビアンのほうも、精神状態があれでは戦力としては使い物にならないから休ませているしな」

 リリアナはセインのその言葉を聞いてはっとした。

 そうだ、ラビアンさんはイリヤさんの死で攻撃的になって、それで……。

 昨夜のラビアンの様子が脳裏によぎる。

 皆が戦っている傍で彼女は、まるで何もかもどうでも良くなったかのように意気消沈していた。

 火が燃え尽きたように、葉が落ち切った枝のように。

 彼女は今どうしているのだろう?

「あの……他のみなさんは?」

「……まずラビアンはアリスと一緒に自分達の部屋にいる」

「自分達の部屋?えっ、てことはここは?」

 リリアナは驚いて部屋の様子をうかがう。言われてみれば確かにリリアナ達の部屋とは少し違う。

 そもそもベッドも自分が使っていたものじゃない事もいまさらになって気付いた。

 セインは少し言いづらそうにしながら

「ここは男側の部屋だ。すまない、言いにくいんだが、その……気絶したお前を宿に連れて帰ったはいいんだが、女の部屋に男の俺が入るというのは……抵抗があってこっちに連れてきたんだ。このベッドも俺が使っていたものだ」

 と、指でこめかみを少しかきながら事情を説明した。

「そ、そうだったんですか……」

 リリアナは少し驚きつつも、だからセインの匂いを夢見越しに感じていたのだと思った。

 彼女から特に意見が出てこないのを見てセインは続けた。

「シータスは戦闘が終わった後は街の人間たちや盗賊たちと共に後片付けなんかを行っていた。一段落したところで宿に戻ってきて仮眠をとった後、朝になってまた出ていったがな」

 そう言いながら、シータスが使っていたらしいベッドのほうを見やった。

 リリアナもそちらへ視線を移す。

 なるほど、ベッドはきちんと整えられていたが着替えが出しっぱなしになっている。

「あの、盗賊たちと言うのは……?」

「お前がかばったあの赤毛の男と一緒にいた連中だ」

 なんとなくわかってはいたが、やっぱりとリリアナも思った。

 でも盗賊なのに街の人を助けるような行動をとるなんて意外だ。

 案外良い人たちなんだろうか。

 リリアナの方は単純にそんなふうに考えていた。

「リリアナ、お前が攻撃魔法を使った事について訊きたい」

 セインは前かがみになって手を組みながらリリアナの瞳を見つめた。

 リリアナは何か責められるのだろうか、とやや不安げな表情を浮かべる。

「仮にもアンデッドを従えた魔力の高いリッチにお前は強力な魔法を浴びせた。正直、シータスだけでは勝てる見込みのなかった敵だ。お前は魔力を使い切って倒れたとはいえ、街の住人にとっては救世主のような存在だ。お前に会いたがってる連中が何度も訪ねてきたぐらいだぞ」

 セインはやや誇らしげな口振りだ。リリアナの活躍に関しては純粋に喜ばしい事だと感じているらしい。

「だが」

 とセインは続けた。

「あの魔法、いつから使えたんだ?少なくともグール襲来時には使わなかっただろう」

 少しばかり険しい顔つきだ。それもそうだろう。

 グール襲来時、というと野営時にはシータスが、宿泊時にはラビアンとアリスが襲われて重傷を負っているのだ。

 前から使えていたならなぜ使わなかったんだ、と責められるのは目に見えている。

 もちろん、リリアナとて使えたなら使って戦っていた。

 だが。

「……あの……攻撃魔法の勉強は時間のある時に書物を読んでやっていたんです……その、休憩している時とか寝る前とか」

「ああ、それで?」

 顔色を窺うようなリリアナの次の言葉をできるだけ穏やかに促す。

「ただ、実戦で使えるのか自信はありませんでした。魔力も高くありませんし、実際、案の定こうやって倒れていますし……ただ、あの時は……」

 昨晩の光景を思い出す。

 人々とアンデッドが戦い死体の積もった街並み。

 イリヤを失って弓矢を向けた時と、その後はまさに死んだ者のようになったラビアンの姿。

 リッチの闇魔法によって負傷した盗賊たちの肌の温みと苦痛に呻く声。

 そして、赤毛の男に向けられた邪悪な瞳。

 自分の中に湧き上がる、今までにない赤い感情。

「体がかぁっと熱くなって、その、リッチに対して『許せない』っていう……強い憎しみというか、怒りを……抱きました。そしてもうその後はよく覚えていなくて……その……私……ごめんなさい……」

 神職にある彼女は自分の抱いたその強く醜い感情に対して自己嫌悪を感じているらしい。

 言葉は詰まり、目も合わせず、小さくなっていく声でそう答えた。

 セインのほうも彼女の気持ちを察し、目をそらしながら席を立った。

 そしてテーブルに置かれていたグラスを手に取って、またベッドサイドの椅子に腰掛けた。

「水だ。喉、渇いているだろう。起き上がれるか?」

「あ……はい……」

 痛みに耐えるリリアナの体を支えながら起こしてやる。リリアナはセインの手からグラスを受け取った。

 その瞬間にもふわりと、あの匂いが鼻先をくすぐった。

 リリアナは水を一口飲むと、たまらず訊ねた。

「あの……セインさんっていつも良い匂いがしますね」

 セインは予想していなかったリリアナの言葉に少しばかり面食らう。

 そして自分の左肩の辺りを軽く嗅ぎながら

「そうか?」

 とリリアナの顔を見た。彼女はなぜか少し嬉しそうな表情だ。

「なんか、甘い感じっていうか……植物の匂いなのかな?やわらかくて落ち着く匂いがします」

「そういえばレックスも似たような事を言っていた事があったな……」

 リリアナの言葉を聞いて呟くように漏らす。

「レックス?」

「いつも俺の自宅に訪ねてくるオレオール城内の男で……まぁ、知り合いみたいなものだ」

 訝しげなリリアナにレックスの姿を思い浮かべながら簡潔に教える。

 いつもあたふたしている愛嬌のある男。

 セインはリリアナが気付かないぐらいかすかにふっと笑い、そして懐から薄手の布で出来た小さな袋を出した。

「多分、これの匂いだろう」

 そう言いながらリリアナに渡す。

 受け取ると、確かに嗅ぎ慣れたあの匂いが強く漂ってくる。

「なんです?これは」

「白檀という植物の木片が入ってる。その匂いが魔除けになるんで常に携帯してるんだ」

「香りが魔除けになるんですか」

「魔物は嗅覚が鋭いから匂いというのは案外、重要な事なんだぞ」

 匂いが魔除けの御守りになるなんて、とリリアナはしげしげとその小さな袋を見つめた。

 甘さもありながらも頭をすっきりさせる香り。安らぎも与える、とてもいい匂いだ。

 冷静な気持ちにもさせてくれる。だからセインさんはいつも冷静なんだろうか。

 これがあれば、もうあんな醜い感情に支配されたりしないかな?

 リリアナの脳裏に昨夜の自分がよぎる。

 そして

「セインさん、これ……私に少しいただけませんか?」

 リリアナのその申し出はおおかた予想できていたのだろう、セインは躊躇うことなく頷いて

「荷物にまだ香木があるから持っていくと良い」

 穏やかに微笑んだ。

 柔らかなその笑顔は、白檀の香りを嗅いだ時によく似た気持ちをリリアナに抱かせた。

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