第26話「異変」

 イリヤの死後、後に残されるはイリヤの体と彼が倒したゾンビの死体と遠くから聞こえてくる叫び声や悲鳴であった。

 ラビアンの涙が彼の体を濡らしては名残惜しむように乾いていく。

 未だに信じられない。

 こんなにも綺麗な体なのに……死んでいるなんて。

 しばらく時間を置いたらふっと目を覚ますのではないか。

 そんな期待さえ抱いてしまう。

 彼女にとってそれほど彼は大きな存在だったし、この旅を終えたらまた平和に共に生きるつもりだったのだ。

 ラビアンの脳裏に今まで彼と築き上げてきた思い出たちがフラッシュバックする。

 笑ったり怒ったり悔しがったり嬉しがったり……。

 日常の素朴なやり取り。

 共に戦った日々。

 肌の温みを感じながら愛し合った短くも濃厚なひととき。

 そのどれもに幸福を感じていた。

 実に様々な表情を見せ、ラビアンを退屈させず常にその想いはいつも真っ直ぐ彼女に向けられていたし、ラビアンもそれを感じていたからこそ彼を一生懸命愛した。

 誰にも揺らがない強い想いをお互い持ち合わせていた。

 ずっと続くものだと思っていた。

 なのに、この運命。

「イリヤ……目を開けてよ……ううっ…………」

 心の柱とも言える大きな存在の死という現実を受け入れられないでいるラビアン。

 こんなの嘘でしょ?

 本当にもう起き上がることはないの?

 涙が止まらない。

 彼を諦めきれない。

 お願い、もう一度その瞳で私を見て。

 その口から私の名を呼んで。

 その腕で私を抱き寄せて。

 叶わぬ願いを捨てきれず、彼女は泣きながらイリヤの手を握り締める。

 すると、ピクピクと彼の指が動き始めた。

 自分の体を確かめるように、力を入れたり抜いたりしている。

 ラビアンは何が起きたのかわからず、彼の顔を見つめる。

 もしかして息を吹き返したのかと胸の痛みが少しやわらいだ。

「……イリヤ?」

 その声に反応するかのように彼の目が見開かれる。

 しかし、その目は灰色に濁り焦点が定まっていない。

 ラビアンの握っている彼の手にも体温は戻らず冷たいままだ。

 何かがおかしい。

 息を吹き返したのでは無い……では彼は……まさか……。

 ラビアンが事態を理解したときには遅かった。

「……グルルル…………!」

 先程までイリヤの魂が宿っていたその肉体は生ける屍と化し唸り声を発しながらラビアンに襲い掛かった。

「!!」

 素早く抵抗をするが、体勢を崩してしまい仰向けに倒れこむラビアンにイリヤの姿をしたゾンビが馬乗りになりその牙をむき出しにする。

 とっさにラビアンは両腕でゾンビの体を押し返し、それ以上顔を近付けられないようにした。

 しかしゾンビも彼女の腕を掴み引き離そうと抵抗する。

 その凄まじい力といったら。信じられない力で顔を近付けてくる。

 イリヤの顔を持つゾンビ。

 先程までラビアンに笑顔を向け、その口で『愛している』と言ってくれた。

 あの暖かな愛情を死ぬ直前まで注いでくれた最愛の人。

 今は白濁した目を見開き、その口で自分を捕食しようとしている。

 ラビアンの瞳からまたも熱い涙がこぼれ出した。

「イリヤ!やめてよ、しっかりして!私だよ、ラビアンだよ!わからないの!?」

 泣き叫びながらイリヤの姿をしたゾンビに訴えかけるが、まるで聞こえていないかのようにゾンビは表情も変えずその牙を徐々に近付けて行く。

 冷たい吐息が顔にかかるのを感じる。

「イリヤ!!お願い、やめて!!イリヤ!!」

 ラビアンは諦めずに何度も訴えかけた。

 言葉を変えながら、彼の意識が戻ってくるんじゃないかという希望を持ち何度も何度も。

 しかし形勢は変わらず、ゾンビの身体を押さえる腕にも疲労が溜まり、次第に力が入らなくなってきた。

 お互いの顔が段々と近付いていく。

 元々、彼女に力は無いうえ体力もあるほうではない。

 もう駄目だ。

 でも、イリヤにやられるならそれも本望かもしれない。

 などと、彼女が疲労に耐え切れず諦めて腕の力を緩めようと瞬間だった。

 風を切る音がした後、ザクッという音と共にイリヤの首が目の前から消え、最後に聞こえたのはドスッという何かが落ちる音だった。

 途端に、ラビアンの体にかかっていた全ての力が失せゾンビの体が倒れこむ。

 そのゾンビの背後に見えた姿は刀を持つセインの姿だった。

 頭が真っ白になるラビアン。

 最後に音がした方向を見ると、イリヤの首が転がっている。

 目を閉じ、口は少しだけ開いている。

 しかしその首の切り口から血は流れない。

 何が起きたのか、把握する為に再度セインの姿を見る。

 彼はラビアンの顔を見ながら少し顔をしかめ刀を鞘に収める。

 そしてラビアンの体に圧し掛かっているイリヤだった体の肩を掴み彼女の体からどけてやった。

「……平気か?」

 セインの言葉にラビアンは何も答えなかったが、彼女の体に外傷が無い事を確認し

「この近辺のゾンビはほぼ退治した。きみ一人でも平気だろう……早いところ宿に戻れ」

 と言うと踵を返し去っていってしまった。

 残されたラビアンは体を起こして座り込み、イリヤの首を見つめた。

 目を閉じたその顔は青ざめていて生きている頃の面影などまるで無く、胴体と分断されたその姿は本当に生きている人間のものだったのかどうか疑わしくなってしまう程、現実離れした光景だった。

 ラビアンの涙は枯れ、こみ上げてくる衝動もなかった。

 彼女は立ち上がり飛ばされたイリヤの首を手にすると、そのまま抱き締めた。

 愛しい愛しいイリヤ。

 どうしてこんなことに。

 しばらく彼の首をに抱き締めた彼女はその首を胴体の傍に置いた。

 そしてその代わり胴体が背負っていた矢筒と地面に落ちていたイリヤの弓を手にすると、セインが去っていった方へと足を向けた。

 その瞳は先程とは違う光を宿していた。

「私のイリヤを……許さない……!」


 その一部始終を近くの民家の屋根の上から見ている者達がいた。

 人数にして四、五人ほどだったが全員若い人間の男だ。

「腕の立つ奴がいるみてえだな」

 若者達を率いるリーダー格、赤い頭髪に褐色の肌をもった青年。

 戦いの賑わいへ消えていくセインの後ろ姿を目に追いながら口角を上げる。

「獲物は共有できねえからな。お前ら、加勢にいくぞ」

 青年がそう言って民家の屋根から屋根へ飛び移るその背に続いて、若者達も雄叫びと悲鳴の喧騒へ向かっていった。

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