第18話「真夜中の男女」

 今夜こそはぐっすり眠れると思っていたリリアナだったが、全く変な時間に目が覚めた。

 まだ真夜中の、星の光さえ届きそうな闇夜の時間だ。

 いつの間に嵐がおさまっていたのだろう、と窓辺に立つ。

 星が見え隠れする空にはまだ流れの速い黒い雲が浮かんでいた。

 ……一時的におさまっただけでまた降りそう。

 そう思うと次はかたわらでぐっすり眠るアリスに目を向けた。やけに”恋人”の話題にこだわっていたように見えた見目麗しい女性。

 どうやら”恋人”は特別な男女の関係の一つのようだがそんなに重要なものなんだろうか……?

 よくわからないリリアナはあれこれ考え込んでしまう前に少し外の空気を吸いにいこうと二階のバルコニーのほうへ向かうことにした。

 廊下を静かに歩いている時だった。どこかの部屋から女性の声が聞こえてきた。

 どこからだろう、と耳を澄ませながら廊下を歩いているとどうもそれはイリヤとラビアンの部屋から聞こえてくるようだった。

 リリアナにはそれは小刻みであったり小さな悲鳴の連続に思えたが、聞く人が聞けばすぐに行為中の淫声いんせいと判断できたであろう。

 閉鎖的で禁欲的空間の中で育ったリリアナがもちろんそんな判断に至れるはずもなく、これは異常事態なのではと自分に出来る事を扉の前で模索していた。

 扉を叩いて彼らに呼び掛けるべきか?いや、もし魔物に襲われているのだとしたら私じゃ勝てないのだから、誰かを呼びに行くべきでは……?

 …………”誰か”。

 この”誰か”で何故か真っ先に頭に浮かんだのはセインだった。

 ここ二日間の活躍も勿論、昼間のアリスとの会話も耳に鮮やかだったからだ。

『必ず俺が守る』

 確かそんな言葉だった。自分も言われてみたいとひそやかに思った一言。

 自分が助けを求めても彼は助けてくれるんだろうか?

 などと思っていた時だった。

「……何をしている?」

「!」

 突如、暗闇から聞こえた声に驚いて振り返るとそこにいたのは、今しがたリリアナの脳裏によぎった男の姿だった。

「あ、あの……イリヤさん達の部屋からラビアンさんの小さな悲鳴のような声が聞こえてきたので……その……どうしたらいいのかと……」

 おろおろしながらセインに訴えかけるリリアナ。確かにラビアンの声が聞こえてくるがもちろん、セインにはその声が何を意味するのかは即座に判断出来た。

 そしてリリアナには何が起きているのか判断できていない事まで察する。

 扉を少し眺めてからふーっと深く長いため息を吐いた。

「……すぐにここを離れよう。そうだな……嵐が止んだことだ、星でも見に行かないか」

 少し無理のあるセインの誘い出しにリリアナは少し違和感を覚えつつも、それも何か意味があるんだと思い、深く問い詰める事無く誘いに応じた。

 そもそもリリアナの目的も元は外の空気を吸いに行くことだ。


 外に出た二人は宿のそばにあった広場に出向いた。

 腰を落ち着けようとしたがプラスチック製のベンチにはさきほどまで空から降り注いだ雨水達が既に居座っていた。

 それをセインが適当に払いのけ、リリアナが残りの水滴をハンカチで拭き取り二人はようやく落ち着いて腰掛けることが出来た。

「……昼間も寒いですけど、夜はもっと冷え込みますね」

 白い息を吐きながら、リリアナは空を見上げる。

「そうだな……」

 つられるようにしてセインも夜空に目をやる。

 北方の地域なので夜もかなり冷える。セインは寒さに身を縮めるリリアナに自分のクロークをかぶせてやり、二人は身を寄せ合うような格好になった。

 お互いの体温が重なり合って暖かかった。

「……あの」

 気まずそうに小さな声を発するリリアナ。セインは何も返事はせずに顔だけチラリと見る。

「ラビアンさん、大丈夫なんですか……?」

 さっきの事だ。セインは少しため息をつき、どう答えるべきか迷っていた。

 ただ、やはりここは正直に話してしまうのがいいだろう。

 十五歳とはいえ身も心も子供よりは大人に近いのだから。

「彼らが部屋の中でしていたのはおそらく性行為だ。恋人同士なら珍しい行為じゃない」

「性行為……」

 ようやく疑問が解けて口に手を当てながら顔を赤らめるリリアナ。

 そうなんだ。

 性行為の時ってあんな声とかするものなんだ。

 恥ずかしくてどう言葉を発していいやら困惑してしまう。

「当然だが、本人達に確認はするな。本来は恋人たちの秘め事だからな」

「え?ええ、もちろんです……」

 至って普段通りに振る舞うセインと色々と想像してしまってパニックになるリリアナ。

 恋人同士ってそういう事する関係なんだ。

 なんだかこうしてセインさんと一緒にいることすら恥ずかしい。

 あたしってばなんでこんな世間知らずなんだろう。

 消えてしまいたくなるほどの恥ずかしさに打ちのめされる。

 何やら俯いているリリアナの心情を察してかセインは話題を少しずらした。

「お前は恋愛とかした事ないのか?」

「れん、あい……?」

「…………」

 まさか恋愛の感情も知らないのかといささか驚くセイン。リリアナは不思議そうな顔で見つめている。

 それもそうか。

 あんな閉鎖的な環境で同じ人間と同じような日々を何年も送っているのだ。

 異性的な感情は抱きにくいものなのかもしれない、とリリアナを見つめながら思った。

「恋心だ。そばにいたいと思ったり、守りたいとか尽くしたいとか、一緒にいると安らぐとか……まぁ、そんなところだ」

 とは言え恋愛らしい恋愛を自分もしたわけではないセイン。少し気恥ずかしい気持ちになりながらもそう言うとリリアナは記憶を巡らすように頭上を見上げて

「うーん……そういうのはなかったと思います……」

 と答えた。

「そうか……まぁ、そうだろうな……」

 セインの、どこか、予想通りとも思える小さな返答。

 その俯く横顔を見て、リリアナはシータス達四人で話していた事を思い出す。

「……あのう……もしかして、セインさんが言ってた『一晩限りの関係』も、そう、なんですか……?」

 遠慮がちに訊ねる彼女のこの言葉にセインは少し顔を上げたが

「……彼女とはそんなに良いものじゃない」

 再び目線を地に落とした。

「…………話しにくいこと、ですか?」

 リリアナの促しにセインは少し唇を舐めてから軽く口を結ぶ。

 何か考え込んでいるようにも、躊躇いのようにも見えた。

 リリアナが彼の様子を見守っていると、やがて意を決したように口を開いた。

「……酒場で会った彼女は、グールにけがされた経験をしたばかりだった」

「…………!」

 セインの言葉にリリアナは息を呑んで青褪あおざめる。彼は続けた。

「……最初は普通の雑談だった。だが、はた目から見ても彼女は自暴自棄な飲み方をしていた。訊けば彼女は、グールに肉体をはずかしめられたその忌まわしい感覚を忘れようと、酒の酔いに甘えていたらしかった。そして深酔いした彼女は『どうか忘れさせて欲しい』と……『あのきたならしく忌々しい記憶を塗り潰して欲しい』と、俺を求めた……だから抱いた。それだけだ」

「そう、だったんですか……」

 語り捨てられる話にリリアナも、その『彼女』の心情を察して地に瞳の光を落としていた。

「まぁ、そんな事より……」

 慣れない話題をあまり続けたくなかったセインは話の流れを変えようとほんの少し声色を変える。

 その変化にリリアナもセインの横顔に視線を移した。

「……眠れなかったのか?」

 リリアナの顔を覗き込みながら静かに訊ねると彼女は俯いてしまった。

「あ……はい……正直、その……経験したことのない事が続いていますから……」

 そう語尾を濁しながら、脳裏を横切る記憶の断片と葛藤しているようだった。

 セインはあまり気にする風でもなく続けた。

「平和が約束された土地で育っただろうからな」

「……はい……」

 そうだ。セインにとっては魔物と戦う日々は珍しい事じゃない。

 自分は平和に慣れ過ぎていたんだろうか。

 セインさんだけじゃなくシータスさん達もそうなんだろうな……。

 グールにはずかしめを受けた女性も……きっと、さっきの人だけじゃないんだわ……。

 リリアナはなんとなく情けない気持ちになった。

「リリアナ、一つ立ち入った質問がしたい」

「は、はい、なんでしょう?」

 セインの唐突なその言葉にきょとんとするリリアナ。

「お前はラジェス教皇に拾われて育てられたと聞いたが」

「あ、はい……」

 何を聞かれるのだろうとリリアナの身体は少し強張る。

「お前の育った聖堂の島、出る事は簡単だが入るのは難しい……その島民達を考慮すれば当然の事だが」

「はい」

「気にしたことはないか?そうなるとそもそものお前の生みの親は島民の者ということになる」

「!」

「心当たりのある者はいないか?」

「い、いいえ……」

 生みの親。

 そう、気にしてこなかったがいるはずなのだ。本来の父親と母親が。

 赤ん坊のリリアナを神木の根本に置き去りにした二人。

 セインの言うとおり、人の出入りが分かりやすい閉鎖的な環境なのだから、島から出ていく事がないのならまだ聖堂にいるはず。

 しかし、産み捨てた実の娘と同じ場所に暮らし続けるものだろうか?

 仮にも聖職者という立場で?

 そもそも、なぜ産み捨てるという選択に至ったのだろうか?

 教皇さまは……?

 そうだ、おとうさんは本当の両親を知らないのだろうか?心当たりもないのだろうか?

 そんな事ってある……?でも、知っているなら何故言わないのだろう?

 リリアナの脳裏に嫌な考えが巡り、だんだんと気分が滅入ってきた。

 彼女が黙りこんでこめかみに手を当てるのを見て、セインはそっと頭を撫でた。

「……すまない」

「あ、いいえ……」

 弱々しく無理に笑顔を繕うがすぐに消えてしまう。

 無理もない、本人にもわからない親の話なのだ。

 デリケートな話題に触れてしまった事に対してセインは少し申し訳ない気持ちになる。

 お互いの間に暫く沈黙が続いたのち、口を開いたのはセインのほうだった。

「……俺の母もアールスト聖堂の聖女だった」

「えっ……そうなんですか?」

「ああ」

 思いがけないセインの母親の話。意外にも元聖職者だという。

「彼女は吸血鬼クローディスに誘拐され、もてあそばれ、そして殺された……」

「…………」

「俺が吸血鬼共を許さないのは母の仇だからだ。俺の母を犯し……彼女の死体をゴミのように無残に捨てた……俺は奴らを全員殺す……この命を捨てる事になってもな」

 押し殺すような低い声でそう言うセインの顔を悲しげな表情でリリアナは見ていた。

 彼の母の凄絶せいぜつな最期。アンデッドハンターという仕事を選んだのもそういう動機なのだろうと思った。

「リリアナ、この旅が終わった後はお前はどうするつもりだ」

 リリアナは少しセインを見つめた後、

「……聖堂に帰ります。この生き方しか、知りませんし」

 と、空を見上げた。町での暮らしに少し憧れもあったが、聖堂に戻りまた元の暮らしをするほうが現実的だとも思った。

「そうか……そうだな、それがいい」

 セインも空を見上げて瞬く星の光を見上げた。

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