3
鏡に入った瞬間、エリネージュは思わず目を閉じていた。
そして、目を開いた時には見知らぬ路地に立っていた。
薄暗く、ゴミや汚水にまみれている。
こんな場所、エリネージュは知らない。
(ここは、どこ? お母様とお父様は?)
鏡が見せる幻覚だろうか。
たしかに、鏡の中に二人の姿を見た。
早く救い出さなければ。
外には、レクシオンがいるのだ。
ユーディアナはエリネージュが使った眠りの魔法によって、しばらく意識が戻らないはずだ。
しかし、城には他にも魔女や魔法使いがいる。
急がなければ、レクシオンに危害が加えられるかもしれない。
「お前、こんなところにいたのか!?」
突然、男の怒鳴り声がした。
酒を飲んでいるのか、顔は赤らみ、足元はふらついている。
男の視線は、汚い路地の隅っこで膝を抱えていた少女に向けられていた。
歳は、十歳前後に見える。
少女は男の声に怯えて、かすかな声で「ごめんなさい」と繰り返す。
ここがどこだか分からないが、エリネージュは少女が危険だと判断し、助けに入ろうとした。
しかし、身体がその場に縫い付けられたように動けない。
(どうして……?)
声を出すこともできなかった。
「魔女の子が、普通に生きられる訳ないだろっ!」
エリネージュの目の前で、少女は男に殴られた。
「お前はとびきりの美人になるだろうから、殺さないだけだ! お前は俺の店で金儲けするために生きてるんだ! もう二度と、逃げようなどと思うなっ!」
美人になると言いながら、男は容赦なく少女の顔をもう一度殴る。
小さな体が地面に倒れて、汚水に浸かる。
見ていられない。
エリネージュは助けたいのに、ただ見ていることしかできない。
暗がりの中で少女をいたぶる男が恐ろしく、エリネージュは声にならない叫びを上げていた。
殴られ、顔が腫れた少女を路地から引きずるようにして、男は連れて行く。
日の光の下で、一瞬だけ見えた少女の髪は、赤紫色をしていた。
エリネージュはつい先程見てしまった光景に、胸が苦しくなる。
痛かっただろう。怖かっただろう。
少女は抵抗もろくにできずにいたぶられていた。
(魔女の子だから……?)
あの様子をみるに、男は人間で、少女は魔女の子。
魔女である母親はどうしたのだろう。
あの男は一体。
様々な疑問と、後味の悪さがざらりと胸に残る。
直後、見える景色は路地から屋内へと移っていた。
またもや知らない場所である。
(ここは鏡の中だから、もしかして鏡を通して外を見ているの?)
そうだとすれば、先ほどの少女もどこかであった現実なのだ。
「ねぇ、助けてくれるんでしょう?」
若い女の声がした。
どうやら寝室のようだ。
天蓋付きのベッドの奥で、二人の影が見える。
「あぁ。だが、まだ駄目だ。もっと、俺に尽くしてくれないと」
そっけない男の声がした。
女の影は首を横に振る。
「これ以上は待てない。私は今すぐ、自由になりたいのよ」
女の声は切実だった。泣いているのかもしれない。
「お前、魔女の子なんだろ? 魔女が人間何人殺してるか知ってるか? 魔女はこの世に存在しちゃいけないんだよ。でも、お前は魔女の中でも出来損ないで、美人だから生きていられる。俺たちの庇護下から抜けて、生きられるはずないだろ?」
「でも、あなたは……私のことが好きだから、自由にしてくれるって……。それなのに、そんな風に思っていたの?」
嘘だと言ってくれ。
そう言いたげな声だった。
「魔女の血が入った女なんて本気で好きになる訳ないだろう」
「酷い……、信じてたのにっ!」
ベッドから逃げるようにして下着姿で飛び出した女は、あの少女と同じ赤紫色の髪をしていた。
そして、ちらりと見えたその女の顔は、エリネージュが良く知る人物の面影があった。
(これはもしかして、ユーディアナの過去?)
その答えは、次に光景が切り替わった時に確信した。
「鏡さん……私、どうすればいい?」
目の前に、涙に濡れたユーディアナの顔があった。
自信に満ち溢れた今の彼女ではなく、不安で途方に暮れている二十代の彼女が。
その後ろには、横たわる人間の男たち。
何があったのかは分からないが、彼らはおそらく死んでいる。
『グレイシエ王国へ行くのです』
ユーディアナの問いかけに、鏡が答えた。
これにはユーディアナも驚いていた。
「あなたは、誰?」
『私は【真実の鏡】。あなたに真実を授けましょう』
それから、ユーディアナは壁に飾ってあった鏡を砕いて、その欠片を手に部屋を出た。
グレイシエ王国までの道のりは、鏡の指示に従えば、そう難しくはなかった。
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