鏡に入った瞬間、エリネージュは思わず目を閉じていた。

 そして、目を開いた時には見知らぬ路地に立っていた。

 薄暗く、ゴミや汚水にまみれている。

 こんな場所、エリネージュは知らない。


(ここは、どこ? お母様とお父様は?)


 鏡が見せる幻覚だろうか。

 たしかに、鏡の中に二人の姿を見た。

 早く救い出さなければ。

 外には、レクシオンがいるのだ。

 ユーディアナはエリネージュが使った眠りの魔法によって、しばらく意識が戻らないはずだ。

 しかし、城には他にも魔女や魔法使いがいる。

 急がなければ、レクシオンに危害が加えられるかもしれない。


「お前、こんなところにいたのか!?」


 突然、男の怒鳴り声がした。

 酒を飲んでいるのか、顔は赤らみ、足元はふらついている。

 男の視線は、汚い路地の隅っこで膝を抱えていた少女に向けられていた。

 歳は、十歳前後に見える。

 少女は男の声に怯えて、かすかな声で「ごめんなさい」と繰り返す。

 ここがどこだか分からないが、エリネージュは少女が危険だと判断し、助けに入ろうとした。

 しかし、身体がその場に縫い付けられたように動けない。


(どうして……?)


 声を出すこともできなかった。


「魔女の子が、普通に生きられる訳ないだろっ!」


 エリネージュの目の前で、少女は男に殴られた。


「お前はとびきりの美人になるだろうから、殺さないだけだ! お前は俺の店で金儲けするために生きてるんだ! もう二度と、逃げようなどと思うなっ!」


 美人になると言いながら、男は容赦なく少女の顔をもう一度殴る。

 小さな体が地面に倒れて、汚水に浸かる。

 見ていられない。

 エリネージュは助けたいのに、ただ見ていることしかできない。

 暗がりの中で少女をいたぶる男が恐ろしく、エリネージュは声にならない叫びを上げていた。

 殴られ、顔が腫れた少女を路地から引きずるようにして、男は連れて行く。

 日の光の下で、一瞬だけ見えた少女の髪は、赤紫色をしていた。


 エリネージュはつい先程見てしまった光景に、胸が苦しくなる。

 痛かっただろう。怖かっただろう。

 少女は抵抗もろくにできずにいたぶられていた。


(魔女の子だから……?)


 あの様子をみるに、男は人間で、少女は魔女の子。

 魔女である母親はどうしたのだろう。

 あの男は一体。

 様々な疑問と、後味の悪さがざらりと胸に残る。


 直後、見える景色は路地から屋内へと移っていた。

 またもや知らない場所である。


(ここは鏡の中だから、もしかして鏡を通して外を見ているの?)


 そうだとすれば、先ほどの少女もどこかであった現実なのだ。


「ねぇ、助けてくれるんでしょう?」


 若い女の声がした。

 どうやら寝室のようだ。

 天蓋付きのベッドの奥で、二人の影が見える。


「あぁ。だが、まだ駄目だ。もっと、俺に尽くしてくれないと」


 そっけない男の声がした。

 女の影は首を横に振る。


「これ以上は待てない。私は今すぐ、自由になりたいのよ」

 

 女の声は切実だった。泣いているのかもしれない。


「お前、魔女の子なんだろ? 魔女が人間何人殺してるか知ってるか? 魔女はこの世に存在しちゃいけないんだよ。でも、お前は魔女の中でも出来損ないで、美人だから生きていられる。俺たちの庇護下から抜けて、生きられるはずないだろ?」

「でも、あなたは……私のことが好きだから、自由にしてくれるって……。それなのに、そんな風に思っていたの?」


 嘘だと言ってくれ。

 そう言いたげな声だった。


「魔女の血が入った女なんて本気で好きになる訳ないだろう」

「酷い……、信じてたのにっ!」


 ベッドから逃げるようにして下着姿で飛び出した女は、あの少女と同じ赤紫色の髪をしていた。

 そして、ちらりと見えたその女の顔は、エリネージュが良く知る人物の面影があった。


(これはもしかして、ユーディアナの過去?)


 その答えは、次に光景が切り替わった時に確信した。


「鏡さん……私、どうすればいい?」


 目の前に、涙に濡れたユーディアナの顔があった。

 自信に満ち溢れた今の彼女ではなく、不安で途方に暮れている二十代の彼女が。

 その後ろには、横たわる人間の男たち。

 何があったのかは分からないが、彼らはおそらく死んでいる。

 

『グレイシエ王国へ行くのです』


 ユーディアナの問いかけに、鏡が答えた。

 これにはユーディアナも驚いていた。


「あなたは、誰?」


『私は【真実の鏡】。あなたに真実を授けましょう』


 それから、ユーディアナは壁に飾ってあった鏡を砕いて、その欠片を手に部屋を出た。

 グレイシエ王国までの道のりは、鏡の指示に従えば、そう難しくはなかった。

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