2
「リーネっ!」
嫌な予感が当たった。
銀色に輝く姿見に触れた瞬間、エリネージュの姿は鏡の中に溶けていった。
レクシオンは間に合わなかった。止められなかった。
エリネージュがいる場所ならば、レクシオンは鏡の中だろうと地獄だろうとついていきたい。
しかし、レクシオンが鏡に触れても、ただ冷たく硬質な感触を確かめるだけだ。
「くそ。どうすれば鏡の中に入れるんだ……?」
そう独りごちた時、近くで笑い声が聞こえた。
ユーディアナだ。
倒れていたはずの彼女は、何事もなかったかのうに玉座に座り、レクシオンを蔑むように見つめている。
「ただの人間にできることなど何もないわ。大人しく死になさい」
魔法の前では、レクシオンもただの人間だ。
たとえ、他人の心の声を聞く力を持っていても。
(僕を見ているようで、僕を見ていない)
ユーディアナの心の声を聞こうとしたが、何も聞こえない。
それは、彼女がレクシオンに意識を向けていないからだ。
しかし、たしかに憎悪は感じる。
きっとそれは、レクシオン個人にぶつけるだけの小さなものではない。
だからこそ、レクシオンはエリネージュのことが気がかりだ。
「リーネをどうするつもりだ?」
「あら、この状況でも自分のことより、あの娘を?」
レクシオンの周囲には、いつの間にか黒紫色の煙が漂っている。
少しでも吸い込めば、自分は死ぬのだろう。
「質問に答えろ。あの鏡の中はどうなっている? リーネに何かあれば、お前を許さない」
「ふふ、アルディン王国の王子は礼儀がなっていないようね。わたくしは女王、あなたは王子。それも、忌々しい人間の。まぁいいわ。わたくしがすべてを手にした時には、人間なんて滅ぼしてあげるから」
人間を滅ぼすことが、彼女の目的なのか。
そういえば、宰相シーノも同じようなことを言っていた。
自分を認めないものなど皆死ねばいいと思い、シーノは魔女――ユーディアナの手を取った。
しかし、ユーディアナの中にはシーノを助けようという気は欠片もなかっただろう。
目の前にいるユーディアナは、人間という種族そのものを憎んでいる。
「それならば何故、グレイシエ王国は戦争をはじめなかった?」
これだけ人間を憎んでいながら、休戦を続けていた理由。
エリネージュの母マリエーヌは戦争を終わらせようと考えていたらしい。
その座を奪っておきながら、ユーディアナは人間の国を攻めなかった。
アルディン王国の人間に手を出してはいたが。
しかし、十年だ。
それほどの長い期間、憎悪を抱えながらも戦争には踏み出さなかった。
何かを待っていたのか。
何を? エリネージュ――《白雪姫》を?
レクシオンは注意深くユーディアナの心の声に耳を傾ける。
何か手がかりがつかめるかもしれない。
鏡に入り込んでしまったエリネージュが心配でたまらない。
消える直前にエリネージュから結婚を了承するような言葉をもらったことも、レクシオンの胸を締め付けていた。
今まで頑なに結婚については否定していた彼女が、初めて。
絶対に、この手に取り戻す。
レクシオンの中にはそれしかない。
「そろそろ、息を止めるのも限界でしょう?」
すでにレクシオンは黒紫色の毒煙に触れていた。
しかし、息を止めているため、体内に取り込んではいない。
毒煙の中で耐えているレクシオンを、面白そうにユーディアナが見つめている。
「でもそうね、あなたがその毒煙を吸っても意識が保てていたら、わたくしの計画を離してあげるわ。生きていたら、あの娘を救えるかもしれないわね」
「分かった」
レクシオンには魔法は使えない。
魔女であるエリネージュを救うためには、少しでも多くの情報が必要だ。
覚悟を決めて、レクシオンは毒煙を吸う。
「くっ……うぅ」
肺が焼けるように痛んだ。生理的な涙が浮かぶ。
苦しい。痛い。辛い。
口の中には血の味が広がった。
今すぐに意識を手放せたらどれだけ楽だろうか。
それでも、レクシオンは立っていた。
まっすぐにユーディアナを見つめて。
「本当に吸い込むなんて。愚かね」
「リーネをどうするつもりなのか教えろ」
「いいわ、教えてあげる。わたくしが《白雪姫》になるのよ。大精霊に愛される、あの魂ごとね。そして、わたくしは永遠を手にして、この世で最も強く、美しい魔女になるのよ。だから、あなたはもう二度とあの娘に会うことはないでしょうね……あら、もう死んだの? ちゃんと最後まで聞いたかしら?」
話の途中で崩れ落ち、震える身体は床に倒れている。
視界は暗いが、まだ音だけは拾える。
(リーネの――《白雪姫》の魂ごと奪うなんてことができるのか……?)
しかし、そのための十年だったとしたら。
あの鏡の中で、エリネージュという存在が消されようとしているかもしれない。
絶対に阻止しなければ。
エリネージュと生きることが、レクシオンの幸せだ。
まだ、自分の愛情の十分の一も伝えられていない。
死ぬ訳にはいかない。失う訳にはいかない。
一緒にハッピーエンドを迎えると約束したのだ。
愛する人との約束を守れない男にはなりたくない。
「リーネ……はっ、誰にも、渡さな、い……っ」
レクシオンは血を吐き、ガクガクと死に向かって震える身体を叱咤して、立ち上がった。
もう命の限界を超えていた。
それでも、鏡の中にいる愛しい人を目指して、足を動かす。
「気持ちの悪い男。あぁ、そろそろ頃合いね」
レクシオンを冷たく一瞥し、ユーディアナも鏡に触れる。
その身体はエリネージュの時と同じように消えた。
特別な魔法の鏡なのだろう。
他人の体を魂ごと奪うことができるというのだから。
それでも、やはり。
レクシオンには鏡の向こう側は見えず、触れても変化は起こらない。
「僕は、怒っている……から」
レクシオンの制止もきかずに行ってしまったこと。
エリネージュの気持ちをなかなか伝えてくれなかったこと。
何を犠牲にしてでも守りたいと思うのに、守らせてくれないこと。
何よりも、抱きしめたいのに、愛を伝えたいのに、今側にいないこと。
(無茶ばかりする君に、そろそろ僕は本気で怒ってもいいよね?)
ちゃんと戻ってきて、笑顔をみせてくれなければ許さない。
「リーネ……愛してる」
無機質な冷たい鏡に、レクシオンのあたたかな血がぽたりと落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます