第20話 命者(みょうじゃ)

 大通りの街道、街路といえど、小道、裏道と同じように陽は沈み夜は来るもので、次第に街中らしい静けさ、ささやき合う静謐せいひつのざわめきに、かえって見通しがよくなる。人の壁、車の壁が徐々に消えてゆき、まだ働くタクシーの灯り、それに遅れるその音が小さくなり、ずっと小さくなるまで聞こえるように、遠く振り返りながら走り去る。手を振る。振り返ればそこが花道。


 住宅街なら夕餉ゆうげにおいと熱と、それに続く石鹸の香りが漂う頃か。病みに小康しょうこうが訪れ、ともに、夕食を食べたか。


 かつて生と死の間に確乎かっことして、断乎動かずにあった厚く大きな壁も消えてゆく。

 壁が無くなると、隔てるものが消え、区切り間仕切まじきり、順番さえもが無くなると同時に、超越、突破、切断、飛込み、接続、リセット、復活も無くなるゆえ、生にも死にも過不足、出入りが途絶え、みち絶える道をまた歩く。

 伴走しているような、完全に重なっているような。生と死だけではない、それは私とも丸っきり重なっており、私が歩くことは生が歩くことでもあり、死が歩くことでもある。大通りを生死が歩いていく。


 生と死が確然かくぜんと分かれ、その界を峻別しゅんべつし、分界ぶんかいしていた頃には、死を恐れ忌避きひし、かつ生にもひるみ、年がら年中四六時中、その両方からのがれるることが、日々の仕事でもあるかのように暮らしていた。

 その時には地獄もあった。今はない。

 おそらく地獄とは生と死の間で燃えさかる火のようなものだったのだろう。それを分ける火の壁であったのだろう。それが無くなっていることに、いま大通りの角、アパートに近づく道に入る段になって気づいたのだ。これでは冥途めいどの飛脚も走れはしないし、余計で邪魔だ。

 奇道きどうをいま曲がった。


 静まり沈む見慣れた帰り道にまだ、遠く霞んで紫陽花は咲いているか。




(続く)


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