第18話 今際(いまわ)

 牛が椿つばきの若葉をみんな喰って、すっかり坊主にしていれば、みんなぜんたい坊主だろうに、他力本願にもほどがある。牛の胃もそんなに大きくはない。自分で喰え。


 前に臨むビルの真ん中辺りが見えるビルの屋上、向かいのビルでは白が帰ったあとだろう、清掃のおやじが青い作業着で掃除機を回している。ずっと掃除機を引きり、一つひとつ椅子を引き出しては机の下まで掃除機をかける。掃除機のコードが在らぬところでからまるから、そのたびに掃除機を強く引く。そんなことを繰り返して事務所の掃除機かけが終わると、机の横、或いは机の下などに置かれている小ぶりなゴミ箱を一つひとつ拾い出しては、大きなワゴンにゴミを集める。事務所はすっかり坊主になる。


 あのおやじは、これを毎日やる。おそらく七年以上もやっているだろうと、空想を向かいのビルの窓に映し出すが、自信はなく、空々しくも夜空に目を移すと、馬鹿がごとき星、満点まんてんの空に梅雨、直中ただなかのぬるい風が吹いているのだ。


 星は多くない。

 昼過ぎの夕暮れに見た、満ち欠け繰り返し途中の月が、今は徐々に灯りを増してゆく。星は多くない。こちらも見ていない。しかし満天に点を満たす。

 眼下がんか、街では様々なさよならの道が幾筋も流れ、川のように流れ、ただ黙って流れ、幾筋もの灯火ともしびを流し、薄めては消し、薄めては消す。そのかたわらにを探し求めるアリの行軍、また急いで行き来し、倒れる者在ればいちいち助け起し、また進む。

 音は無い。


 ここは椿に向う崖の稜際そばぎわ、広がり濃くなってゆく影が、大きな街を大きくおおうう。私の影か。

 何か起ころうとする瞬間、今際いまわきわに、いま初めて私は私の影の声を聞く。今生こんじょうずっと光在る所に現われていた影が泣く。影は法師で影法師。坊主ならずか法師が泣きながら言う。ここは街道だと。

「影、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」


 とっくの昔にランプに取って代わった街灯が道にいっぱいに吊された。

 空の星よりも輝いていた。見知らぬ新しい灯が見える。今から動きだすタクシーの灯火も誇らしげに去る。

 街道にそっと、ごんを見つめるが如き六地蔵と紫陽花は妖精。跡をつけて来たのか。

 ひとの流れ絶えざる道に、社員、清掃、学生生徒、坊主に乞食、そして牛、狐までが行き来する。それぞれの影が映る大通りの街道。ひとが通ったあとには、紫陽花は踏まれ、また踏まれるために屹立きつりつする。そこが崖であってもだ。

 影、影、なつかしいひと影。




(続く)



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