第7話 寛歩(かんぽ)

 行き止まりはどこにある。大通りはどこにある。駆ける子どもらの行き先はどこにある。

「どこへ行くつもり」

「ここは一本道ですよ」

 それにしては重い。

「ここは一本道ですよ」


 雨上がりの終演を私の心は調子に乗り拍手で迎えたようだが、その分、運ぶ歩みの重さが感じられ、足が鈍重どんじゅうの牛のように愚図ぐずる。一本道はやはりこんなものかと、牛一頭で善光寺参り。


 ただただ思いよりも物の方が重いように、屁理屈の飛躍には目をつぶっても、いまは思想よりも風の方が重い。私に当てて考えれば、不安や惨めさよりこの足の方が重い。理想はいくらでも空を上のぼるが、私は雨に打たれ風に吹かれもする。私が思うより遥かに私は重いはずだ。ここに居る限りは、ここに居る限りは。


 その点で牛は蝸牛かぎゅうであり、緩急かんきゅうもなければ火急かきゅうもない。道筋に足跡、経路を付けて筋道すじみちを通すだけ。生きるに正しき筋を通すだけ。やはりその点で抜け道も逃げ道も、回り道も寄り道も行路となり、そこに花が咲く。真に蝸牛かたつむり筋目すじめ節目ふしめに筋を通して曲がらず進むのもそのためだろう。それが許されるのは足だけで、それで初めてゆるされる。畜生に生を受けた慟哭どうこくも消える。酷暑に荷を背負い歩き切ったのだ。

 雨を受け風をさえぎりり、耐えるのはあの大きな体だが、それを支えるのはやっぱり足だ。嫌でも足だ。その足でしか歩けもしなければ、動けもしない。耕すべき田や運ぶべき荷を眺めていても始まらないから、体に比してあの華奢きゃしゃで可憐な足ですべてを耕し、全部を運ぶのだ。持って行ってしまうのだ。赦されんがために。牛が鬼神であることは認めるが、貴人でもないのに登仙とうせんするのは、そんな尊貴な足があるからだろう。進むということに遅速は関係ない。軽重があるだけ。蝸牛の愛嬌あいきょうを見るだけ。行路に鳴かず跡形あとかたに泣くだけ。


 ではこの道の寛歩かんぽの軽さはどこにある。やはりそいつは心にでも聞け。足にでも聞け。答えがないならそれまでだが、それでも一向構わないし、また歩けば足の邪魔も心の悪魔も消えるのだろう。そしてきながら見事な滅をかすめ取り、すなわち行き止まりをまた歩くのだろう。

 ここに居る限りは、ここに居る限りは。さようなら。






(続く)



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