第4話 妖精

 波に死があるとすれば何が終わるのだろう。止まるのだろう。海か、川だろうか、水たまりだろうか。ようやく乾いてゆく小さな水たまりに映る葉叢はむらも消えてゆく。雨上がりに雲を急がせる風に水も揺れていたが、漸漸ぜんぜんと止む。私を叩いた雨も風もやさしい愛撫あいぶに変わり、止み、幻と溶けてゆく。

 代わって言の葉草はぐさや茂るらんと義太夫ぎだゆう台詞せりふでも映れば無粋ぶすいは免れたのだろうが、そうもいかないらしい。時の展開は人形劇のライブを録画もしないで、縁が途切れたか、時計が止まったかは知らないが、今じゃ見えはしない。陽を待つ花の芽の繁るうつくしさをいまだ隠してはらんで、悦びに微笑んでいるようだ。



 見える。やっと見えた。 飛び込め、飛び込め。干上がる前に跳ねなければ今度は言葉が止まってしまう。水たまりに探せ、言葉の原液を。そこに原液のままで待つ池がある。一つ二つと水たまりを踏んで歩くが、尽きせぬ、あはれ尽きぬ道、などと遊んでみると、池から次々と跳ね上がるように、お猿、蛙、ハムスター、蝶の妖精だろうか、美しい、輝く色の鏡を背負って出てきては、四方八方飛び出して得手勝手えてかってに歩き出す。鏡にはすべて様々な色の紫陽花あじさいが映っていて、花びらの水滴に光が映っていて、反射して、たわむれに太陽に反撃を加え始める。太陽も負けじと光を増しあらがい笑う。


 妖精の鏡が放つ紫陽花の光は、散り散りに放たれ道までも照らし始める。この道は母と歩いたことがある道だ。ただ一度歩いた道だ。母と歩いた唯一の東京がここに在る。思い出の絵入本えいりぼんはさんだしおりを妖精たちが取り去ってゆく。枯れた紫陽花の花弁の栞を盗んで遊び始める。


 私もここで負けることはない。早く飛び込んで蹴散らし、取り返そうと言葉の原液の池に向ってはみるが、呂律ろれつが回らないのだ。口から吐き出す音が舞うだけ。呂律の不細工な舞をみせるだけ。お猿の妖精は手を叩いて笑い転げ、蛙ははやし立てるように一斉に合唱し歌い出す。鏡を背負う獼猴さるなどに笑われて堪るかと、鯉のように口をぱくぱくあえいでみると、開けた口に紫陽花の光を放り込んでは、今度は涙を流し始める。かつて母猴もこうとなり、またいよいよなまって獼猴みこうとすと博物誌でみたことがあるが、それに従えばお猿は母で、泣いている。

 逃げずに通った一本道の行き着くあの結界のおりの中で、母はお猿になったのか。まだ半分ぐらいは母なのか。母は私を泣いている。紫陽花が放つ光を当てている。のみならず道を照らしてもいるではないか。一緒に歩いた唯一の東京が延びて、光ってさえいたのかも知れない。




(続く)



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