第3話 錯時

 もうどれほど歩いたのだろう。どのくらいの時が経ったのだろう。もうかなり歩いているはずだが自分の位置が分からない。雨上がりの薄い日差しでも汗をかくほどの距離ではある。私の時の経歴と距離の履歴はまるで、時を歩きながら正確に距離をてきた者たちの松葉杖と魔法の杖、恨みと悦びの絶叫、その隙をすり抜ける蠕動ぜんどうにも滑降かっこうにもならないだろうが、道は一途いちずで行き先が一つならこの格好で良い。



 腕時計に目をやった。遅れているか進んでいるかは別として、そこにはそれなりの時刻が示されている。遅延、早着の基準が何かは知らないので、いまこの時刻で、これはこれでいい分けだが殊更ことさら、現在の位置を考えるとまた迷いもする。

 しかし時計は遥か以前に止まっていたようだ。アパートを出る前の時刻を針が示している。一体、何時頃止まったのか、さっぱり気がつかなかった。針がまったく動いていない。これではやはり蠕動ぜんどうにも滑降かっこうにもなっちゃいない。止まった時刻を歩いていたのは、先の禅寺の紫陽花あじさいか、川に流れるペットボトルの仕業かと空想してみるが、空を見上げれば、雲動うんどう雲送うんそうも止まっていないので、世の流通は混乱も停止もしていないようだ。


 だが時が止まる際、その存在も終わるはずだ。その物はその時刻で消えるのだ。もう進みもしないし後戻りもなく、そこで沙汰闇さたやみとなり、それが底止となる。

 そこに何かいきな石でも置いておけば、あいつの時はここで止まり、その在り方もここが限りだったと分かるのだろうが、道のそこかしこに、石ころでもあるまい、石が転がっていたら生きて歩く者の邪魔になって仕方が無いだろう。そのうえ石にその時刻でも刻もうものなら、人どころかにわとりも進み辛いだろう。その代わりが墓というものなのか。あの石コロだ。墓地のあの結界に、時も物も閉じ込められる。そのうえ場自体を囲んで縛り止める絡繰からくり小屋の隠し部屋だ。簡単に入れる分けがないが、皆一本道で辿たどり着く。そんな墓石を腕に巻いて歩いて来たのか、私は。



 墓地というものは様々あろうが、たいてい猫と蛙が住んでいて、ただ簡単に入れるものではない。しかしやはり一本道で猫と蛙には必ず遭う。これが生き物唯一の定めと言い切ろう。母も、あのハムスターも遭遇の仕方は知らないが、それぞれの一本道の上で逃げずに猫に遭っている。

 普通、猫も蛙も鳴きはするが、何を言っているのか分からない。その理解不能こそ未知なる場への入口で、言っていることが分かったら、もうあっちの世界に居ると分かる。泣いても叫んでも、もうニャーかゲロゲロとしか生身なまみの世には響かない。姿は獣に変わり、頭をでられ、まぐろの中落ちを貰うのが関の山だ。

 ときに生きながら理解される事への拒絶が強くなると饒舌じょうぜつにもなるだろう。よく鳴く猫がそうであるように。


 いずれ腕時計が止まったお陰で自分の位置が分からないのだ。石として固まっているのか。進みもせず同じ時刻だけを告げ続ける。大通り、華やかな他人の群れと行列の中で、私も他人になる新たな時間の大通りまでの位置が測れやしない。


 ああ、時計時間こそ錯覚のたまもの。それがまた輝いて見えるから迷路。時の流れは物の展開でしかないし相続でしかない。変化でしかない。そんなことは本能が心得ているのだが、教えてはくれない。ただ過去に経歴する今を、未来に経歴する今を回って描いて、時の舞を見せるだけ、だますだけで教えない。


 芽が出て花が咲くことが花の時であり、雲が立ち雨降ることが雨の時であり、時の荘厳そうごんに光明が輝くが、その時刻、一刻がまた物にも見え、見えるものは変化して止まないのだが、目に入るのは一刹那いちせつなで、それさえ変化、展開を止めてはいない。止まって見える幻視に見える。そこに時間のだまし絵が映る。

 人もねずみも猫であっても、蛙も葉っぱも皆、動き回って仕方が無いのだ。止まることは消えること。石碑でも墓石でも日々、時々刻々と動いていて、それがまさに時で、石碑、墓石そのものであり、の世の定めは全て見えてはいけない破壊だろう。希望などという望みは、望んでいるうちは望みもあるし、望む時間も流れるが、絶望したらその瞬間にきれいさっぱり望みも消え、望む時間もゴミカスに変わり、もうその時間も消えるだろう。時間の崩壊は物そのものの理も壊し、消えるか化け物にでも変わるだろう。

 風は吹いてこそ風だ。吹かない風など風ではないし、引かない風邪も風邪ではない。風の時も風邪の熱も、そうだ。


 どれくらい歩いたのだろう。これからどのくらい歩かなければならないのだろう。一歩、一歩が一歩の時間、その時々刻々が歩の蠕動ぜんどう

 腕の時計は消えていた。


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