終わらない'夢'物語。

 気づけば、私はとある場所の前にいた。


 そこは私にとって大切な場所。


 小さな定食屋さんだった。


 目の前まで来たものの、私の足は動かない。そもそも、自分が何をしに来たのかも分かっていない。


 やっぱり帰ろう。家に帰って、今日はずっとベッドがお友達だ。そうして明日になって明後日になって、大丈夫になったらまた来よう。


 みんなにはちゃんと笑顔で会いたいから。


 私は定食屋に背を向ける。


 すると雨の中、足音が一つ聞こえた。


「姉貴……?」


 そこにいたのは、私の通う高校とは違う制服を着たひとりの少年。


 この定食屋の息子さん。一つ年下で、私とっては弟みたいな子だ。


 そして、一度だけ学校で噂になってしまった私と一緒にいたお行儀の悪い子たちのひとり。全然、そんなことないのにね。世間のレッテルは人間の深い部分の話なんて知ったことではないらしい。


「どうしたんすか、そんなところで。はやく中へ――――」


 彼は私に駆け寄って、何も言わずに傘に入れてくれた。


 だけど私と目が合って、彼はハッと顔を歪める。


「いや、その……なんつーか、えっと……め、飯食いに来たんすよね? な、なんでも頼んでください! 今日は俺の奢りです! ほら、ステーキとかどうっすか!? 姉貴のためなら親父がどんなメニューでも……っ。だから早く中行きましょう! そんなんじゃ、風邪ひいちまいますよ……」


 彼はしどろもどろになりながらも、慣れない言葉を紡いでいく。


 彼にはもう、ぜんぶ分かってしまったのだろう。


 そんな彼の優しい気遣いが嬉しくて、でも痛くて痛くて仕方がなかった。


 やっぱり、来るべきじゃなかった。


 弱い私なんて、彼らの前ではあってはならないのだ。


「……ごめんなさい。今日は帰ります」


「そ、そっ……すか。それならこれ、どぞっす」


「…………ありがとう」


 差し出してくれた傘を受け取る。


「濡れちゃうからもう中に入っていいですよ」


「いえ。見送ります」


「でも……」


「見送らせてください」


 頑なな様子の彼を見て、私はそれ以上言わずに背を向けた。


 一歩、二歩と家路を進む。


 彼が雨に濡れてしまわないように。こんな情けない私はさっさと彼の視界から消えよう。


 その時、今度はバシャバシャと足音が聞こえた。


「あ、あの! あねき――――ねーちゃん! いつでも来ていいんだからな! もし、ねーちゃんの居場所がどこになくても。学校も、あいつも、ねーちゃんを受け入れなくても! ここがねーちゃんの居場所だ! 俺も、みんなも、ねーちゃんのことが好きだから! いつでも来てくれよ! また、みんなでバカやって遊ぼう! だから、ねーちゃん……」


 気づいたら、私は踵を返していた。


 今度は私が彼を傘の中に入れてあげる。


 そして、可愛い弟の頭を撫でた。


「もう……こんなに濡れちゃって。バカ」


「だって、ねーちゃん……。ねーちゃん。あんなに頑張ってたのに……ずっとずっと、何年も……」


 彼は子供みたいに涙をこぼす。


 泣かせてしまった。


 だから帰ろうと思ったのに。自然と足が向いてしまったのだから困りもの。


「ありがとう。ありがとうね」


 降りしきる雨。


 ひとりぼっちの帰り道。


 私には何があっても壊れない大切な居場所があるらしい。


 私のために泣いてくれる大切な人がいるらしい。


 少しだけ、心が晴れた気がした。




「ただいまー」


 小さく呟いて、ようやく帰宅する。


 なんだか、ひどく疲れた。もう眠ってしまいたい。


 あの子に傘を貸してもらったとはいえ、制服も身体もまだびしゃびしゃに濡れていた。


 まずはお風呂に入らないと。


 でも、足は浴室の方へ向かわなかった。


 お母さんのいるリビングに顔を出すこともなく、私室のベッドへダイブ。


 あー、ベッドまでびちゃびちゃ。どうしよう。お母さんにバレたら絶対怒られる。


「夢乃~? 帰ったの~?」


 物音に気付いたらしいお母さんがひょっこりと顔を出す。


 怒られると思った私は枕に顔を押し付けたまま無視しようとした。


「夢乃? あなたびしょびしょじゃない。そんな恰好でベッドに入っちゃダメでしょう?」


 予想通りの言葉。


 分かってる。分かってるから。後で自分でどうにかするから。お母さんに手間はかけさせないから。今はそっとしておいてほしい。


 だけど、私はベッドから引きはがされて。


 それで……


「お母、さん……?」


 お母さんは私をギュッと抱きしめた。


 なんで? いつもお母さんならもう少しお小言を言って、それからダメでしょってぺちりとおでこ優しくを叩くくらいはして。さっさとお風呂に入りなさいって。そう言うかなって思ったのに。


「濡れちゃうよ……?」


「いいのよ。愛娘なんだから。たとえあなたが一週間お風呂に入ってなかったとしても抱きしめられるわ」


「それはちゃんと怒った方がいいと思うよ……」


「そうね。でも、その前にきっと抱きしめるわ」


 ああ、ダメだ。これはダメだ。


 お母さんの胸の中はとっても温かくて。ぬくぬくしていて。それでいてとっても柔らかくて。規則的にトクントクンと鳴り響く心臓の音が私にとって世界一の安らぎを与えてくれる。


 もう枯れ果てるほどに流したと思っていた涙が溢れてくる。


 辛くて、ズキズキと痛むような気持ちが抑えきれなくなってくる。


 あの子の前では我慢できたのに。


 お母さんの前では無理みたい。


 嗚咽が漏れるほどに涙が次々と流れた。


「頑張ったわね。本当に、頑張ったわ」


 優しい手のひらが髪を撫でてくれるのが分かる。


 なんでみんな、分かってしまうのだろう。


 きっとお母さんも、あの子も、私が思っているよりもずっとずっと、私のことを見てくれていた。だから私の様子を見れば、何があったかなんてすぐにわかってしまうのだろう。


 そんなお母さんに、私はもう甘えるしかなくて。


 涙を流し続けた。



「ねえ夢乃?」


「なに?」


 私が少し落ち着いてくると、お母さんは抱きとめた私の背中をやさしくさすりながら語りだす。


「ででん。ここで問題です。お母さんはお父さんとお付き合いするまでに果たして何回告白したでしょう~?」


「……そんなの一回じゃないの?」


 一人の相手にできる告白できる回数は一回。そんなの当たり前だ。だから告白って言うたった一言はあんなに難しいんだ。言いたくて。でも言えなくて。勢い任せになってしたら絶対に後悔するもので。その言葉はたとえどう転んだとしても、相手との関係を変えてしまう。心のすべてを込めるべき、世界でたったひとつの言葉だ。


 でも、お母さんは笑顔でそれを否定する。


「ぶっぶ~。正解は数えきれないくらい! でした~!」


「数えきれないくらい……? え、それって何回も告白したってことだよね?」


「そうよ~? お母さんとお父さんは幼馴染でね。お母さんはずっとお父さんのことが好きだった。でもね、お父さんはそうでもなかったみたい。だから告白してもさらっと断られちゃったの」


「……でも、今は結婚してるよ? お母さんとお父さん、いつも仲良しじゃない」


 あまり考えたことはないけれど、私の両親はとても仲が良い夫婦だと思う。私はきっと、そんなお父さんとお母さんの愛を一杯に受けて今まで育ってきた。


「お父さんの気が変わったの?」


「う~ん、そうだけど。そうなんだけど、違うわね」



 お母さんは優しく私の頭を撫でて、それからいつになく自信満々に告げる。



「お母さんが、変えたのよ。お母さんがお父さんの気持ちを変えたの。何度も何度も、何度だって告白したわ。お父さんには他に彼女さんがいたこともあったけど、お母さんはそれでもずっと諦めずに気持ちを伝え続けたの。それで、今があるのよ」


「なんで? なんでお母さんは諦めなかったの? お父さんには彼女もいたのに……なんで諦めないなんてことができるの?」


「そんなの、決まってるわよ」



 お母さんは私の肩を掴んで身体を起こす。


 お母さんの大きな瞳と目が合った。


 その瞳には私とは比べ物にならないような煌めきが眠っているような。そんな気がした。



「――――お父さんのことが好きだったから」


 

「諦められるはずなんてなかったから」



「お父さんを幸せにできるのはお母さんだけだって信じてたから」



「お母さんを幸せにしてくれるのはお父さんだけだって信じてたから」



「そのためなら手段なんて選んでられないわ」



「略奪愛上等。そんなの、奪われた方が悪いんだわ。その人の愛が足りなかった。それだけだもの」



「いい? 夢乃。恋愛は勝負なの。勝ち負けがある戦争なの。容赦なんて絶対にしちゃいけないのよ」



「お淑やかで、お行儀の良い御伽噺のような恋愛なんて投げ捨ててしまいなさい」



「もし、誰かへの遠慮があるのだとしたら。それで今の恋を諦めるんだとしたら。そんな人間はたとえ次に恋をしたって望んだ結果は得られない。また、誰かに大切な人を奪われてしまうだけよ」



「いつまでも、悲しい想いが積み重なっていくだけよ」



「夢乃は、そんな人生が許せる?」



「それでも夢乃は、大好きな人を諦められる?」



 一瞬たりとも私と目を離さずに語り切ったお母さんは最後にそう問いかけた。


 問いの答えなんて知っていた。


 でも頭に思い浮かんだのは、彼女の顔。可愛い、彼女の顔。私はきっと、彼女にだって幸せになってほしいのだ。そんな気持ちが、どこかにあるのだ。


 私はいつの間にこんなに優しくなってしまったのだろう。彼に触れたから? 彼に好かれようと努力するばかりに私は子供の頃に持っていた何かを失ってしまったのかもしれない。


 それでも、今、思う。


「……イヤだよ」


 言葉は簡単に出た。


「諦められるわけ、ないよぉ……。ずっと好きだったんだよ? 初恋だったんだよ? 好きになってもらうために、私ずっとずっと頑張ったんだよ?」


「ええ、そうね――――でも、きっと誰かはもっと頑張ってた。夢乃以上の、最善の一手を持っていたはずよ。だから夢乃はもっともっと、頑張りなさい」


 そうだ。私は頑張った。でも、まだ足りない。


 優しさなんていらなかった。思いやりなんていらなかった。


 そんなもののために自分が一番欲しいものを手放すなんて、諦めるなんて、バカげている。そんな人生、あっていいはずがない。


 ――――それがたとえ、誰かから糾弾されるものであろうと。


「闘いなさい。臨んだ結果を得られるその時まで、闘いなさい」


 だから、ごめんね。


 彼女へ、最後の謝罪を。


「……お母さんは、酷いね。ふつうなら、慰めて。また次があるよ。もっといい恋があるはずだよ。だから元気出しなさいって言ってくれるんじゃないの?」


「そうね。それが正しい大人なのかもしれない」


 本当に、そう思う。


 そうあってくれたなら、私はあの子や、お母さんに後押しされて。彼のいない日常を歩き始めることが出来たかもしれないのに。


 本当に、本当に酷いよ……。


 でも、ずっとずっと優しいと思っていたお母さんはとてもとても強い人だった。


「だけどね、今負けたらダメなのよ。負けは染みつくものだから。今負けを認めたらもう、幸せは逃げていっちゃうってお母さんは思う。自分の幸せは、自分の手でつかみ取るのよ。それにあなたはお母さんに似て、負けず嫌いだから。夢乃は、勝つのが何よりも好きでしょう? 負け知らずの女でしょう?」


 お母さんの言葉に、自然と笑みが零れた。


「うん。負けるのは嫌い。だいっきらい。だって負けたことなんてないもん」


「それでこそ、お母さんの娘だわ。たくさんたくさん迷って苦しんで。それでも戦いなさい。負けを認めず、食らいつきなさい。なんなら食い破ってやりなさい。まだ高校生なんだもの。青春でファイヤーしていればいいのよ?」


「まだ高校生って……もしそのまま大人になっちゃったらそうすればいいの?」


「そんなの知らないわ。だってお母さんはちゃんとお父さんをゲットしたもの。その後のことなんてお母さんしーらない」


 お母さんは子供みたいに茶目っ気たっぷりの笑顔でちろっと舌を出す。


「ええ~? ひどーい。こんなに娘を焚きつけておいて! 最後に逃げるの!?」


「大丈夫よ。だって夢乃は負けないもの。夢乃は、誰よりも強い女の子なんだから」 


 そう言うと、お母さんは私を立ち上がらせてもう一度抱きしめた。


 次に、お風呂に入ってきなさいと私の背中を押す。


 それから「たまにはお母さんも一緒に入ろうかしら」なんておどけて、彼を射止めるための作戦会議をする約束もして。お母さんと別れた。


 たくさんのものを貰ってしまった。


 私は小暮夢乃こぐれゆめの小暮陽菜乃こぐれひなのの一人娘。


 諦めない限り、私の人生に負けはない。


 彼女以上の強さをもってして、幸せをつかみ取って見せる。



 「だから今度こそ、本気で覚悟してくださいね」



 ぼそりと、今頃は物語を終えているであろう彼らへ告げる。


 私は、その物語を認めない。祝福なんて、してあげない。


 だから今度は、私の物語を。


 決して美しくなくて、泥まみれで薄汚くて、どうしようもないほどに独善的な物語を始めるためのゴングを。たったひとり、私は鳴らした。



 ・


 ・


 ・



 夏休み一日目。太陽が燃え盛る夏の日。


 私は彼らが住むマンションのインターホンを押す。


 きっとそこにいる私はこの世界の誰にも負けない、不敵な笑顔を浮かべていたことだろう。


 失うものはもう何もない。支えてくれる大切な人達はずっと、この心に寄り添ってくれている。


 私は、私の心が見つめ続ける一番大切なあなたを手にするためにこの先へ。



「おはようございます、♪」


「ゆ、夢乃!? なんで――――」


「ねえ、瑞菜」


「――――な、なに?」


「あなたの一番大切な人を、攫いに来ました」



 笑顔は崩さない。


 そんな私に、彼女は一瞬だけ顔を歪めて。だけどそれから彼女もまた、覚悟の籠った瞳で私を見つめる。



「……わたし、もう迷わないから。ぜったいに渡さないよ」



 さあ、エピローグにはまだ早い。


 私が勝利を手に入れるその時まで、この終わらない物語は続いてゆく――――。

 





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