第22話 ……は?

「もしかして北見くんも懐かしくなって読みたくなった人ですか?」


「え、あーいや、うん。そうかも」


 うきうきと聞いてくる小暮に、俺は思わず曖昧なまま頷いてしまう。


 でも、星の王子さまか。たしかに昔読んだ覚えがあるかもしれない。内容なんてこれっぽっちも覚えていないが。


「ふふっ。とってもいいと思いますよ? 実は私も最近借りて読んだのですけど、ちょっと泣いちゃいました」


「泣いた?」


「はい。なんでしょうね。昔はよくわからなかったことが今ならわかる気がしました。あくまでわかる気がしただけですけどね。でもなんだか感情移入しちゃって」


「へえ。そんなに言われると、俺も読むのが楽しみだな」


 子どもの頃何気なく読んでいた物語が、大人になってから読むとまた違って見えるなんてのはよくある話で。子供向けアニメなんかで子供に付き合ってみていた親御さんが泣いてしまうなんてことにも近いことなのかもしれない。


 そういった物語は稚拙だから子供にも楽しめるのではなく、そこには子供にも何かを伝えるための技巧が凝らされていて。大人になった時、それはもっと鮮明なものとなって姿を現すのだろう。


「――――いちばんたいせつなことは、目に見えない」


「え?」


「とても優しく、儚く、細やかで、それでいてわかりやすい言葉です。それこそ子供でも、何かを受け取れるような。そして大きくなった私たちはこの言葉の深奥に何を見るのでしょう。って、ごめんなさい。これから読む人にする話ではありませんでしたね」


 語りすぎてしまった自分を恥じるように、小暮ははにかんで笑う。


「いや、べつにいいけど。俺も昔に読んだことあるしな。それにしても、好きなんだな。星の王子さま」


「はい。大好きです。子供のころも好きでしたが、今はもっと好きになりました」


 小暮は星の王子さまを、大事そうに胸に抱いた。


 俺に対するものではないとはいえ、「大好きです」という言葉に少しだけ胸が鳴った。


「はは。それなら小暮が借りるか? また読みたいんじゃないか?」


「い、いえ私のことは大丈夫ですから! はい、手続き終わりましたよ。北見くんがしっかり、読んであげてくださいね」


「そっか。じゃあ遠慮なく」


「はい」


 本を受け取ると、少しだけこそばゆい沈黙が訪れる。


 俺の希望的観測かもしれないが、お互いにこの時間を終わらせたくないみたいな、そんな間。


 でも、これで終わりだ。俺がこの場を後にして、これで、もう……。


「じゃあ、これで――――」


「――――あ、あの!」


 別れを告げて背を向けた俺を、小暮のよく通る透明な声が阻む。


「……どうした?」


 引き留めないでくれよと思いながらも、嬉しく思う俺もいる。


 俺は足を止めて、振り返った。


「今度、感想会しませんか!?」


「感想会?」


「はい、星の王子さまの! い、一緒にどこか喫茶店にでも行って、それで、それで……っ!」


「そ、それって……」


 デート、だよな……?


 デートの、誘いなのか……?


 いやそれとも、ただ星の王子さまについて語りたいだけ? 相手が俺である必要なんて、これっぽっちもない?


 わからない。わからないが、俺の答えはもう出ている。出ているはずなんだ。


「だ、ダメですか……?」


 期待と不安を宿した黒の瞳が俺を見つめる。


 小暮が緊張しているのが分かった。彼女もまた、勇気を振り絞っているのだ。


 その気持ちに応えたい。応えてしまいたい。


 だけど……。


「……っ………………ご、ごめん!」


 俺はそれだけ言って、駆け出した。図書室を後にした。


 頷いてしまいたかった。一週間前の俺なら、喜んで誘いを受けた。当たり前だ。俺は彼女のことが好きなんだから。彼女の方からお誘いを受けるなんて、そんなのはもう夢だ。夢のような話。絶対にありえないと思っていた、御伽噺だ。


 でも、それでも。俺は彼女から背を向けるしかなかった。


 その一瞬間、俺の頭に浮かんだのは彼女ではない。


 俺の頭に浮かんだ女の子は……。


(瑞菜……っ。なんで、……邪魔すんだよ。おまえはさぁ……っ!)


 頭に浮かんだのは、幼馴染の姿。


 昔の、黒髪。今の、ピンクラベンダー。藍色の瞳。


 幼馴染の笑顔。何度も何度も、謝る幼馴染。その、涙。


 そして、


 ――――責任が、……俺にはある。


 俺が紡いだ言葉。


 ――――わたしを、許してください。


 あの夜の、瑞菜の言葉。


 彼女を抱いた、あの感覚。


 すべてが、俺を縛り付ける。


 だからもう、終わりだ。


 最後に夢を見せてもらっただけで、十分だ。


 今日ここに来たのは、俺の心残り。それが俺を、未練たらしくもこの場所へと導いた。


 でも、それももう、終わりなんだ。


 頬を温かい一筋の何かが伝った。


 ああクソ、被害者ぶんなよ。それは、俺にできたことじゃない。被害者になんて、ならないんだ。純愛厨の俺はなれないんだ。


 そう、これは失恋ですらない。そんな言葉を使うことさえ、おこがましい。


 だってこれは、俺が決めたこと。


 ぜんぶ、俺の行動の結果なんだから。


 

 




「……は? ごめん? なんで? なんで謝るの? 意味わかんない」



「でも……ねえ、北見くん」



「……私ね、あの頃よりずっと、女の子らしくなったよね?」



「だから、だからきっと……」



 取り残された少女のイラつきと、すがるような淡い期待とが入り混じるその声は。図書室の静寂へ溶けるように、消えた。

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