彼の境界 —鞍下倫の怪—


      刻光と迦琉

      

 大理石の床が続いた長い廊下。

 法服を羽織った男が、女の子から何かを聞かれている。


 法服の男が言った。

「あいつは、何でも分けたがる。」

 女の子が言った。

「区別することは物事を理解することの始まり、って習ったよ?」


「あいつは、分けられるものとそうでないものの区別が付いていない。」


 男の名前は刻光コッコウ。神の世界の裁判官を務める。

 女の子の名前は迦琉カル。神の世界の見習いだ。


「それはもしかして…、妖怪だね。」


 二人はとある人間の国————「東ノ国」を見守る神である。


      あいつは鞍下倫


 それから長い年月が経ってからのこと。


「ミハルよ。いや、忌々しい神よ。お前のパンチで…目が覚めたぜ。」鞍下倫が呟いた。


 その身体は、掃除機や自動車、様々な機械のスクラップから組み立てられていて、ミシミシと重い音を立てている。


「俺のこの身体、美しい。」


 鞍下倫は、一度、ミハルという神の力によって消滅したのだったが、予め別の場所に保管していた記憶を使って、長い時間をかけて身体を取り戻した。

 統括していた世界の管理には、すでに別の悪魔が就き、今は一人、ぽつりと人間界にいた。


      復讐の誓い


 鞍下倫は語気を荒げた。


「ミハルよ。お前は醜い…。

 貴様の、塩っ辛い…腐った醤油のような面。

 思い出すだけでも吐き気。」


 鞍下倫が力を込めて地面を蹴り、仁王立ちをする。


「俺の力を見せてやる。この世界にあるすべての者を、塩顔と醤油顔に分ける。そして、ミハル。どちらにも分けられぬお前は、その身を引き裂かれるのだ!」


 鞍下倫が空を仰ぎ拳を突き上げた。

「人も神も、増えすぎた…。少し綺麗にせんと…。

 特にあのミハルには、この俺が…」


 鞍下倫の前に、スクラップの山からサッカーボールが転がる。


「分からせてやる!」


 ボールは空を裂く悲鳴をあげ、彼方へ消えた。


      人間への影響


 人間界。


 ここは様々なものを製造しているX社である。


「いやあ、昨日ふと思いついたんだけど、塩顔と醤油顔を区別するカメラを作ってみたらどうだろう?」

「なんですかそれ?」

 色々な声が上がった。

「塩を連想させる顔とか、醤油を連想させる顔って…一体どういうことですか?」

「醤油には塩が入っていますよ…。」

「いいから作れ。心で感じろ。無理だというな。」


 そして、それらしい何かが出来上がった。


 その商品を売って、数年後、X社は大きな利益を上げた。

 美容整形の病院には人がなだれ込んだ。


 街に出歩ける人は、塩と醤油と呼ばれる二種類の顔だけになった。


 路上には、すっぽりと頭を覆うマスクをした人たちが昼間から寝転んでいる。そのうちの一人は砂糖をなめて飢えを凌ぎ、ほかの一人は酢、もう一人は味噌をなめている。


 塩と醤油は高級になり、滅多に手に入らなくなっていた。


      神界にて


雪柊ユウシュ、鞍下輪がまた人間界に現れて悪事を働いているようだ。今回はお前が適任のようだが…。」


 雪柊は美を司る女神である。

 雪柊がすっと手鏡を開き、人間界の様子を眺めた。


「行かなければならないようですね。」

「かつてミハルが封じたとき、迦琉が共に奴の相手をしておる。今回も任せてよいと思う。」

「いえ、これは私の勤めになるでしょう。」

「まあそう言うな。人間界にゆく前に、話を聞いておけ。」


 数時間後、迦琉が雪柊の部屋のドアをノックした。

 そこにいた迦琉はある書物を手に持っている。表紙には「東ノ国神話・旒 第四巻」と書かれている。

「はい雪柊。退治に行くんでしょ。あの時のこと書いておいたよ。鞍下輪は汚い奴だから…気をつけてね。」

「迦琉、ありがとう。」


 翌日。


 雪柊が鞍下倫の元に降りた。

 そこには人間のマスクを剥ぎ取り、一人一人の顔を確認している鞍下倫がいる。


 鞍下倫が雪柊に気づき、振り向いた。


「よう。綺麗なおねえさん。

 君は、塩? 醤油? どっちかじゃないと、ダメだぜ?」


「あなたのいう塩と醤油って何かしら?」

「イメージさ。分かるだろ?」


 雪柊の嘆息がこぼれる。


「世の中にあなたの考えているような人はいないわ…。

 つまりもう…、みんなあなたの被害者よ。」


「え、マジ?」

「そんな分け方をして、結婚相手でも探していたのかしら?」

「え!?」


「あなたからのお誘いはお断り。」

「え、俺、そんなこと言った…?」

「そういう意味よ。」

「え…、わかんね。

 え…、俺の身体見て。」

 そういって、鞍下倫は機械でできた身体を見せつけた。


 雪柊が目を閉じ、ゆっくりと首を横に振る。

 そして背を向け、さよならを告げると、あとには金色の長い髪がそよ風にふいた。


 鞍下倫の脳は猛烈な勢いで回転を始めた。

 そしてゆっくりになった。


「俺の心、もう熱くない。」


 鞍下倫の身体はバラバラの鉄の塊になって、道路に転がった。


 雪柊が神界に戻ると迦琉が鳥の世話をしている。

「ねえ迦琉。私って何顔かな?」

「え、何だろう。うーん…、全部入り…いや、科学調味調かな? よく変わるから分かんない。」


 雪柊は静かに微笑んだ。


      そして平穏な日々


 その翌日の朝、役所の電話が鳴った。

 昨年配属されたばかりの新人が慌てて対応する。


「係長。先ほど市民から電話がありまして…。道路に大きな鉄クズが散乱し通れないと。」

「ああそう…。清掃課に回して。」



 鞍下倫の身体を成していた鉄クズは、夕暮れまでに片付いた。


 ——————————————————


「ねえ刻光。結局、その…分けれるものと分けれぬものの区別、って何なの?」

「考えてみたか?」

「いや、あの…少し。」


 刻光が口籠る迦琉を制した。


「例えばだ…、一人の人間は、二つには分けられぬ。

 そういうことだ。」


 刻光は、扉の奥に消えた。


                                     終

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