有徳の人

「若者」と呼ばれる年齢からはるかに遠ざかった身となり、もはや問われることもなくなったのだが、「どのような人間になりたいか」とひとから尋ねられたならば、私は躊躇ためらうことなく「徳のあるひと」と答えるであろう。


その「徳」とはいったいどういうものか、もっとも端的に知ることが出来る書物がある。


下村湖人しもむらこじん作「論語ろんご物語」である。


湖人54歳となる年、1938年に出版された「論語物語」は、題名が示すように中国古典の「論語」に登場する思想家孔子こうし、そして彼とその弟子たちとの交わりを描いた小説である。


その弟子たちの中でも徳の高さをもって、師である孔子からの評価がとりわけ高い人物が顔回がんかいである。


顔回、あざな子淵しえん。孔子より30歳ほども年下だったが、年若く40歳ほどで孔子よりも先にこの世を去っている。


彼はその高い学識ゆえに、孔門こうもん十哲と呼ばれる優れた弟子たちの中でも、筆頭格であった。


だが、彼は単なる勉強好きな秀才ではなく、常に師の教え、つまり徳行を生活の中で実践していく、そういうひとでもあった。


ここで「論語物語」から顔回のエピソードを引用するだけで字数が軽くオーバーしてしまうので、それはあえて避けておく。


ぜひ、皆さんのほうで作品を読んでいただきたいのだが、簡単に顔回の人となりを紹介しておくならば、出世栄達、つまりどこかの貴人に官僚として仕えるような道を一切選ぶことなく、陋巷ろうこうに住んで学問に勤しむことをもっぱらとしており、とても貧しく食べ物もろくに得られず、病気がちの生活をしていたという。


しかし顔回はそのような逆境でも決して他人を恨んだりねたんだりそしったりすることなく、黙々と我が道を歩んでいたのである。そこを孔子もよく知っていて、高くかっていたに違いない。


思うに「徳」とは、言うならば何かを「成す」ことによってではなく、何かを「成さない」ことによって示される美点なのだ。学問とは対照的である。


知力のある者は、得てして自分の知識の豊かであることを誇示しがちである。自分より劣ったところのある他者を、その知力によって糾弾しおとしめる、そういう攻撃的な行動に出がちである。たとえば、現代日本のカリスマ、H江T文氏のように。


そう言った自己顕示的な行動を一切せず、ただただ自分が信じた道を粛々と歩む。その顔回の高潔な姿に、当時中学生だった読者の私はいたく感銘を受けたものである。


そして、自分も顔回のように徳のあるひとになりたい、心底そう思った。


しかし、「思うは易く、行うは難し」である。


「ひとの悪口を決して言わない」


このたったひとつの事でさえ、実際にはなかなか実行出来るものではないことに、私はその後の50年近い人生で思い知らされることになる。


私が大学卒業後に就職した先は、(幸か不幸か)世間では「羽振りがいい」と言われる会社であった。つまり、大量のカネが常に流れ込む、そういう場所だった。


カネが湧くところには、よこしまな人間も多数寄って来る。世の常である。


色と欲の権化のような魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする環境。当然、足の引っ張り合い、誹謗中傷が日常茶飯事である。


そんな状況下で私も、他人を一切恨まず、うらやまず、悪く言わないなどという高潔な人柄には、到底なれるものではなかった。


時には不誠実な人間、不品行な人間を口汚なくののしったこともあった。陰口を叩いたことも、1回2回ではない。


まったく、不徳の致すところである。


さすがに現在は、その魔界のごとき場所からも脱出することが出来て、私はひとりでマイペースの人生を送れるようになった。


だからこそこれからは、徳行を日々実践することが十分可能だ。


実にありがたいことだと、日々感謝している私である。



徳行というものは、悪行とは対照的に記録として残すことが容易ではない。「こんなに徳の高い、素晴らしいひとがいるんですよ」と毎年賞状を与えて褒め称えられる性格のものではない。


先ほども述べたように、何かを「成さない」ということでしか、徳は実践出来ないからである。


怒り。謗り。妬み。ひがみ。さげずみ。


こういった諸々の負の感情を、感じたがままに発露するのでなく、自分の中できちんとコントロールして昇華することが必要である。


それはとても、孤独な戦いだ。


それに見事うち勝っても、誰も賞賛などしてくれない。


だが、日々それを心がけて実行しているひとは、確実に存在する。


そう、貴方の隣りにも、確実にいる。


そういうひとの努力を、決して侮ってはいけないと思う。無駄な所行と思ってはいけないと思う。



私は徳のある人が、他の誰よりも尊敬に値すると、ずっと信じている。知識が誰よりもある人、それよりも上位にあると確信している。


だが徳を実践するということは、実は誰にでも実行可能なことでもあるのだ。


知識の積み重ねは、誰にでも出来ることではない。頭の出来はひとそれぞれであるから。


だが、徳行とはとてもシンプルなことである。


「ひとの嫌がる、不快だと感じることを一切やらない」


たったそれだけなのだから。


大賢の者にも、大愚の者にも、これは等しく実践可能なのである。


そして何歳になろうが、始めることが出来る。


誰もが、尊敬に値する人間となりうるのだ、徳を実践することによって。


ぜひそのことを、この一文をお読みになった皆さんにも知っていただきたいのである。(この項・了)

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