きちょうめん

「きちょうめん」という言葉がある。漢字で書けば「几帳面」となる。


几帳きちょうとは中世の頃、貴族の家屋で室内の仕切りや座所のへだてに用いた用具だが、その几帳の柱のかどを丸く削り、その両側に段を刻んだことから、性格や行動が真面目できちんとしていることを「几帳面」と呼ぶようになったのだそうだ。


そんな言葉の由来はともかく、かつての日本人はその過半数が「きちょうめん」な人々であったと思う。


勤勉に働くことを善しとし、不真面目でルースな人間は我が身を恥ずかしく感じて社会の表には出てこない、そんな国民性があった。


いつの日からだろう、そういう国民性が薄れ、失われていったのは。


おそらく1970年代、オイルショックを機に高度成長神話が崩壊して、真面目にコツコツと働くことが馬鹿らしい、みたいな風潮が生まれてきたあたりが端緒のような気がする。


それまでは男も女も、真面目にやってさえいれば幸福な人生を送れるはず、みたいな「信仰」があったのだが、それが大きく崩れ始めた。


コツコツ働くよりも一攫千金、濡れ手で粟の大儲けをもくろむ輩が、社会で幅をきかせるようになって来る。



……といった社会風潮全般の分析が、この一文の目的とするところかというと、実はそうではない。


ここは閑話の場なのだから。


そこで、わたし自身の話をさせていただこう。


恥ずかしながらわたしは、かつて「きちょうめん」の代名詞のような人間であった。


少なくとも、小学校をえるまでは。


以前「書について」でわたしの書道歴を述べたが、わたしが少時に書を得意としていたことは、他人から「きちょうめん」と呼ばれる一番大きな理由になったという気がする。


この国には「書は人なり」という文化がある。


欧米にも「ペンマンシップ」という書道に類したものはあるが、それはあくまでも「字を書く技術」であり、字の巧拙が人としての出来不出来を示すものではないと考えているところがある。


何しろ、タイプライター文化が150年ほども続いている社会だから、著名な大作家でも肉筆のサインは実に下手くそだったりする。


ところが日本では事情は大きく異なっていて「字の上手い人は賢く、人としての出来が字の下手なひとより上である」みたいな思想が、これだけワープロが一般化した現在でも(シニア層を中心に)根強い。


50年以上前ともなれば、その思想はもう強固なものがあった。名だたる小説家はたいてい達筆で、その肉筆原稿を博物館などで見ることが出来た時代だ。


書道塾での練習の賜物である、わたしの楷書体の筆跡を見た大人どもは、口を揃えて「きちょうめんだね」と評価した。


わたしはそれを何度となく聞くことで、「この国では文字をきちんと書けることが、真面目さの現われと考えられているのだな」と理解した。


そして、これをやってさえいれば、親も含めた大人たちの高評価はもらえるのだろうと考えて、わたしはとにかく丁寧に文字を書き続けた。


しかし、そんなわたしにも大きな転機は訪れる。


中学に進学すると、勉強すべき事柄はそれまでと比べると何倍にも増える。以前のような、のんびりとしたスピードできれいな文字を書いていたのでは、とても追いつかない。より速く書くしかない、ノートでも試験でも。


その頃から、わたしの文字は明らかに雑になっていった。


それを観察していた母(書家のはしくれ)は、「あんたは字が下手になった」と文句を言った。


そうではない。丁寧に書こうと思えば、出来るのだ。


時間さえあれば。


しかし、その時間が圧倒的に足りないから、意図的に「下手くそモード」に引き下げて書かざるを得ないのだ。


わたしは学校の勉強、受験勉強の必要に駆られて、しかたなく「拙速」を選んだ。


でも、それで正解だったのだろう。とりあえず大学にまで行けたのだから。


いまから約40年前、大学を卒えてとある出版社に就職した後も、わたしの筆記における「きちょうめんより拙速」路線は続くことになった。


わたしは入社当初、取材記者を兼ねた編集者として週刊誌の仕事についたのだが、ここでも丁寧さより何よりスピードが求められたからだ。


何しろ週刊誌である。限られた時間の中で出来るだけ多くの文字数を(当時は手書きで)書くことが求められた。そうでないと、雑誌の発売日に間に合わない。


当然のごとく「達筆」と呼ばれていた過去をまったく感じさせないレベルにまで、わたしの字は粗雑になっていった。


だが上には上がいるもので(下には下がかもしれないが)、わたしがデータマンとして取材の仕事を依頼していたWくん(当時大学生)は、悪筆なることわたしの比ではなかった。


伝説的な悪筆作家、I原S太郎氏は各印刷所に専門の文字解読係がいたと聞いているが、Wくんの字はそれに匹敵、いやそれ以上に判読が大変で、彼のデータ原稿をアンカーマンの先生に渡す時は、わたしが事前に入念にチェック、判読困難文字には手ずから正解を書き添えておいたものだ。


Wくんは取材能力は非常に高かったが、さすがにその文字には手こずらされたのを覚えている。


ちなみに彼はその後めでたく医師となり、本業のかたわら数十冊もの本を執筆、出版している。彼の快挙の背景にはその後のワープロの登場が大きく寄与していることは言うまでもない。彼においては、ITサマサマだろう。


話を戻すと、Wくんの例でわかるように、知的水準と字の巧拙には何の関係もないってことだ。


むしろ理科系の優秀な学者にこそ、悪筆なひとが相当数存在することを、わたしはこれまで見聞きして知っている。


丁寧な字、きちょうめんな字を書けるということは、学問の進化になにも寄与しない。


そして文化についても、同様のことが言えそうだ。


この原稿ももちろん、すべてキーボードにより生産されている。字を丁寧に書くことなど、一切求められていない。


そこには「きちょうめんさ」を反映させる余地はない。


もしあるとするならば、いったん書き終えた原稿を丁寧に読み返して、誤字脱字の修正、表現の推敲をいかに重ねられるかにだけあると言える。


このカクヨムを初めとして、いくつもの小説投稿サイトの作品を読んでいて感じるのは、発想力や表現力はとても素晴らしいのだが、細部のチェックと修正という大事なプロセスをおろそかにしている残念な作品がかなりの数で存在することだ。


人間だれしもケアレスミスはするので、誤字脱字をいちいち責めるつもりはないが、そういうレベルとは明らかに異なる、言葉の誤用を散見する。


つまり、根本的に間違えて覚えているとしか思えないケースだ。


書き手のリテラシーの程度がそこでバレてしまうようなポカは、せっかくファンになりかけていた読み手をガッカリさせるだけだ。


まずは辞書を引いて(ウェブ辞書でもいい)確認しよう。いままさに書こうとしている言葉を、表現を。


いい加減に覚えていた言葉の意味、由来を改めて正確に知ることこそ、いま一番求められている「きちょうめんさ」なのだと思う。


わたしも一度は「きちょうめん」を卒業してしまったように見えて、大もとでは変わっていないのだろうな。


つい、こんなことを言ってしまうのだから。


字を丁寧に書く代わりに、文章の完成度にこだわることこそが、いまのわたしの真面目しんめんもくなのである。(この項・了)

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