恋とヒットチャート
きょうはこのシリーズで初めて、恋愛ネタで書いてみる。「実録・幼馴染み」も恋愛がらみと言えなくもなかったが、今回はもっとガチな話だ。
私が最近しばしば思うことなのだが、恋とヒットソング、あるいはベストセラーの生まれかたはとてもよく似ている。
言い換えるならば「モテは偏在する」、そして「モテはモテを呼ぶ」、そういうことである。
恋のほうで言うと、多くのひとはモテるひとを好きになるのであり、楽曲や本のほうで言うと、多くのひとは売り上げチャート上位の作品をこぞって支持して買うものなのである。
ひとというものは大多数、他のひと、あるいは物についての評価基準があいまいである。
自ら確たる「ひと(物)を見る目」を持っているひとは、決して多くない。
そのかわりに彼ら彼女らは「世間の評判」を、一番の判断材料とするのである。
ヒットチャートやベストセラーランキング、それもその全体像というよりは上澄みの部分だけを見て、マルバツ、買う買わないを決めるのだ。
その結果、今言ったような「売れているもの(だけ)を買う」現象が起き、ベストセラーはさらに輪をかけて売れるようになる。まさに雪崩のように。
恋はマーケットの規模としては、CDや本のような大量生産品に比べれば一桁二桁、いや三桁くらい小さいものだが、基本的な構造は同じである。
モテるひとには常に、数十人単位のフォロワーがいるものだ。
そしてそれをうまく商売に繋げたものがキャバクラ、ホストクラブの類いであると言える。
男女を問わず「恋バナ」は昔も今も盛んである。
源氏物語なんぞを紐解いても、ヒマな貴公子どもはよるとさわるとどこにいい女がいるのか情報を交換して、あの女はマルだいやバツだといった品定めをしている。
恋バナで「いい男」「いい女」の情報が共有化されることによって、「恋のヒットチャート」のようなものが作られていく。
ライトノベルによく出てくる用語「学年一の美少女」「学園一のイケメン」なんてのも、その生成プロセスが描かれることは普通ないが、そうやって決まっていくものなのである。
もちろん、「他のひとがみんないいからといって、それにそのまま乗っかるなんて絶対イヤ」と言う、自己主張の強い者も中にはいるだろう。
そういうひとは恋愛でも、他のひとがすでにアプローチしている相手は絶対選ばずに、自分だけが独占出来るような相手を選ぶだろうし、CDや本にしても他の人々があまり聴かない、読まないようなニッチな趣味のものを選ぶはずだ。
だが、そういう個性的なひとびとは全体から見ればあくまでも少数派で、他の大半のひとは「人気があるから」というシンプルな理由で、恋愛相手やCDや本を選ぶものなのだ。
分かりやすい例をもうひとつ追加するならば、この小説投稿サイト上の「ランキング」など、その最たるものだと思う。
ひとつひとつの作品を読んだ上でフォローするかしないかを決めるような「丁寧な読み手」はユーザー全体ではごく少数派で、相当数のひとの読み方はとても大雑把であり、極端な言い方をすればランキングの上位からの10作品、あるいはせいぜい20作品ぐらいしかチェックしなかったりする。
彼ら彼女らの言い分は、こういうことなのだろう。
「全部を読んでどれを選ぶのかを決めるほど、自分はヒマじゃない。
ならば、ランキング上位の作品は他人からも高い評価を得ているだけに『面白い可能性が高い』ので、その中から選んだほうが時間のムダにならなくていい」
「面白い可能性が高い」ということは、「絶対面白い」ということとイコールではないと思うのだがな、私は。
その結果、ランキング上位の作品に評価点が異常に集中するようになり、その書き手が出した次回作品も同じように人気が出たりするのである。
閑話休題、恋愛もまた同様だ。
ある男子、女子が人気がある、モテる理由は単に美人、イケメンというより「タレントの誰それ、アイドルの誰それに似ているから」だったりする。
タレント、アイドルのたぐいは言ってみればカットサロンに置いてあるヘアカタログのようなもので、「いい男/女」「モテる男/女」のサンプルと考えればいい。
「ああいうのがイケているのだよ、可愛いのだよ」という風に、評価基準のあいまいな若者たちは、マスメディアにより刷り込み、教化されているのである。
彼ら彼女らがタレント似の隣人を好きになるのも、自分の好みだからというよりは、他の多くの人々がいいというから、すなわち人気があるからその波に乗る、ということなのだ。
一種のインフレスパイラル、雪だるま化現象とも言っていい。
かくして、富同様、恋もまた「偏在」の一途をたどる。
モテるものはモテるという事実によって(皮肉なことに)より一層モテるようになり、モテないものはモテないという事実によってさらに非モテが固定化し、結局一生かかってもモテない。
ただし、実際にはどんなにモテたとしても、生身の人間が対応可能な人数には限りがある。
同時進行でまともに相手ができるのはせいぜい、2、3人といったところだ
それを超える人数は、当然おちこぼれていかざるを得ないので、他のランク下の相手へと移動していく。
そうして、全体の半数以上は、本意・不本意の差こそあるものの、マッチングが成立ずる。
そういう意味では、上位者1パーセントが全体の半分以上を寡占する「富」の世界に比べれば「恋」はまだまだ健全な状態と言える。
だが、それでも半数近くの者は(男女を問わず)うんと望みのレベルを下げない限りは(余り者同士でしぶしぶペアを組まない限りは)一生恋愛出来ない計算となる。
ここはその是非を論ずるつもりはないが、多くの非モテピープルにとって、今が極めて生きづらい時代であることは間違いあるまい。
この国は戦後数十年、男女の「一意対応」がきちんと機能して、よほど規格外の人間でない限りふつうに結婚が出来るという幸せな時代が続いていたのだが、80年代以降恋愛が急速にヒットチャート化、すなわち資本主義化したことにより、そのバランスは大きく崩れた。
今やモテと非モテの恋愛格差は、広がるばかりである。
恋愛はもはや非モテのひとびとにとっては、テレビのリアリティショーで観るだけの「他人ごと」なのかもしれない。すでにAVが彼ら彼女らの性的行為の代替物となっているように。
最後に、私の連載中の作品「僕はモテモテです。ジミ子限定ですが。」についても少しふれておきたい。
これまで述べてきたような「モテはモテを呼び、加速させる」という考え方をさらに推し進めていくなら、容姿や能力などの面でモテ要素が足りない人間でもやり方さえ工夫すれば、それなりにモテを享受できるのではないか、私はそういう考えに至った。
具体的には「情報操作」「イメージ戦略」をたくみにやって、モテる事実を然るべき対象に対して効果的にアピールすれば、さらなるモテモテ状態を掴み取れるはずだいうことだ。
つまりホームランでなく、イチロー的なヒットを狙う。
そこには魔法もトリックもない。心理の駆け引きがあるのみ。
そういった思考実験の末に、この「僕モテ」は誕生したのである。
これはマスメディアのモテ戦略というよりは、そのカウンター的存在であるインターネットのモテ戦略(YouTuberがその代表例といえる)に通ずるものがあるかもしれない。
モテがモテを加速させた結果、果たして主人公
彼の前例なき冒険譚を、今後も生温かく見守っていただければ作者としては幸甚の至りである。(この項・了)
(来週の更新はお休みさせていただきます。次回は11月15日更新となります。ご了承ください。)
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