書について

きょうはしょについて、書いてみる。


いわゆる書道、くだけた言い方をすれば習字と呼ばれるアレ、である。


私は小学校から中学校にかけて、いくつか習い事をしたことがある。


絵画、そろばん、そして書道といったところだ。


本当はこれにオルガンというのも入るはずだったのだが、オルガンを親に買ってもらってしばらく自分で弾いているうちに、自分にはとても習得はムリだという気がしてきたので、先生について習うまえに「習うの辞める」と自ら宣言してしまったのである。


そろばんはクラスメートに習っている子が多く、その影響で始めたのだが、人よりも上達するのが遅く、結局大して進級しないうちにイヤになって辞めてしまった。一年も続かなかった。


思うに、楽器演奏もそろばんも手を使ってやる一種の「運動」である。


スポーツ、それも体力よりも技術を必要とするタイプのスポーツがおおむね苦手な私には、本来不向きなのである。


私にはそういうアクションとか時間感覚とかに縛られずに感性のほうがもっぱら問われる、いわゆる芸術のほうが向いていたのだ。


絵画はわりと自分と相性がよかったのか、しばらく続いた。3年ぐらいだろうか。コンクールで上位入賞したこともある。


しかし、転校により先生を変えないといけなくなったことと、中学受験の勉強が忙しくなったので辞めることにした。趣味で描いていた漫画も、その頃に辞めざるをえなくなった。


書道はその中では、一番長続きした。


小学1年から始めて、師事する先生を変えながらも中学の終わりごろまで続いた。


子供の級・段とはいえ、準特待生の一歩手前、七段まで行ったから、われながらそこそこの腕前であったと思う。


だがもちろん、将来書家になろうなどとは考えもしなかった。


書家というのは、大学などの高等教育を受けて就く「職業」ではないことに、中学生の私は既に気づいていたからである。


職業ではなく、属性。


何か別に職業を持ちながら副業としてやる程度のもの、女性ならば主婦をやりながらその傍らやるもの、そう思っていたので、いかに自分に適性があろうが職業の選択肢としては「無し」だった。


中学で辞めたその後、一時期会社内のサークルで先生について習った時期はあったものの、私の中では書道歴は「過去のもの」となったのだった。


それでは、子供のころの10年近い習い事がまったくの無駄、まるきり無意味だったかというと、そんなことはなかった。


得になることはあっても、損したことは一度もないと言ってよい。


ここ3、40年OA化の波が進んで、日常の「文字を書く」という作業が、かなりの部分手書きから機械書きに移行したとはいえ、要所要所で手書きを必要とする機会はやって来る。


たとえば、慶弔関係。


祝儀・不祝儀袋は毛筆で書かねばサマにならないし、芳名簿の記帳も手書きでせざるをえない。


そういう時に、書の心得のある人間はやはり得である。


少なくとも他人に字を見られた時に、恥ずかしい思いをしないで済む。


それから、もうひとつの代表例は就職、というか履歴書関係だ。


大半のひとが就職活動の時に何枚となく書くことになるであろう履歴書も、最近ではワープロで印刷して提出するひとが増えて来たとはいえ、手書きのものの方が望ましいのは言うまでもない。


ワープロ書きで出したのでは、「字が下手だからだろう」と邪推されないからだ。それこそ、足切りの理由にすらなりかねない。


しかし、たとえ手書きであっても字が拙いとなれば、また別の意味で不合格の理由となりうるだろう。


字が拙いために損をすることは、他にもうひとつある。


入学試験だ。こればかりは、いまだに手書きから免れない。


採点担当者も同じく字が下手で同情してもらえるケースを除けば、あまりに下手で解読に時間のかかるような文字は、採点する意欲さえ失わせかねない。


下手でもそこそこ読める字ならばまだいいが、どう読んでいいか分からないという古代文字レベルだと、さすがにアウトだろう。


以上の様な理由で、書の心得があったことは、自分の人生に積極的なプラスにならないまでもマイナスを生じさせなかった。


これは本当によかったと思っている。


実は、私が小1で書道を習うことになったのは、かつて書家の道を歩もうとしていた私の母の考えによるものであった。


母は20代の頃、当時「女流かなの第一人者」とよばれていたある書家に師事していた。


その先生につくというのは、相当なコネか、さもなくばよほど実力がないと無理と言われていたが、はたちそこそこの母はどういう訳か、一番若い弟子としてその門下にいたのだ。


その後母は20代半ばで普通に結婚し、結婚相手の転勤に伴い地方生活を余儀なくされ、書道界の中央からは遠ざかっていたのだが、一応自分なりに練習、習作はしていたようだった。


そして、学齢に達した私を近くの書家の先生のもとに連れて行き、息子への教えを乞うたのであった。


私たち家族は、その4、5年後には東京に戻ることになる。


その時、母はかつての師に「もう一度、私のところで書を再開する気はありませんか」と誘われたのだが、多忙などの理由を述べて、断ってしまった。


だが本当の理由は、こうだと思う。


母は自ら書を追求する中で、単に他人から「字を習う」というレベルを超えて、師のコピーではない、自分ならではのオリジナルな作風を生み出していかねばならないという書家の宿命を知り、とても自分には無理だと判断したに違いない。


手先が器用なだけでは、本物の書家たり得ない。


音楽や絵画などにしても同様のことが言えるのだが、技術以上に作り手ならではのオリジナリティなくしては、芸術としての「書」たり得ないのだ。


たかが書、されど書、なのだ。


私は母よりももっと低いステージで「降りて」しまったわけだが、まかり間違って書家になろうと考えたとしても、母と同様にその「壁」にぶち当たってしまっただろうことは、想像に難くない。


真に書家たりうるために必要なのは、才能というよりは「覚悟」なのかもしれない。


ともあれ、「書」と言うものは文章を生み出すことと同じく、生活に必要な「技術」である一方で、その次元を超えた高度な「芸術」としての一面も持つ。


今日のように大半の小説原稿がワープロソフトからの出力物として生み出されるはるか前、小説家は「原稿用紙に文字を書く人」であった。


ゆえに、出版された書籍以上に、その人の肉筆原稿自体が彼や彼女の「作品」であった。


達筆であれ悪筆であれその筆跡こそが、作家の唯一無二の「存在証明」だったとも言える。


作家を記念した博物館には、その所持品と並べて、生の原稿が展示されている所以である。


しかし現在の小説家の大半は、展示されるべき肉筆原稿を持たない。


かつてすべての原稿を肉筆で書いていた私でさえ、今はもっぱらキーボード経由である。


これはとても残念なことだと、言わざるを得ない。


いつの日か、一作ぐらいは作品ごと肉筆で書いて、残しておかねばと私は思っているのである。


書の道を、一度は歩んだものとしては。(この項・了)

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