おせっかい

言葉というものは不思議なもので、あまり使われなくなったからといって、その事物・事象自体が減った、無くなったというわけではなく、むしろあまりに「日常茶飯事化した」がゆえに言葉自体は使われなくなってくるという、皮肉な例が少なくない。


「おせっかい」という言葉は、まさにその代表例ではないだろうか。


私の記憶だと、この言葉が文芸や音楽などの分野で表立って使われたのは、英国のロック・バンド、ピンク・フロイドのアルバム「Meddle」の邦題、そして同じくポール・マッカートニー&ウイングスのシングル曲「Listen to What the Man Said」の邦題「あの娘におせっかい」あたりが最後だったような気がする。ともに70年代前半である。(たぶん他にもあるんだろうが、メジャーどころではそんなところだと思う)


ここ数十年来「おせっかい」という言葉を、公の場で聞いたためしがない。


「おせっかい」の意味をいまさら説明するのも野暮だろう。「余計なお世話」とほぼ同義と言っていいこの言葉は、頭に「らぬ」という形容詞がつくものと決まっている。


「要るおせっかい」なんて聞いたこともない、ということだ。


この「要らぬおせっかい」がわが国で常態化、日常茶飯事化したのが、たぶん「芸能リポーターブーム」あたりからではないかと、私は考えている。


いまの若いひとたちはあまり知らないだろうが、かつて70年代の後半からテレビのワイドショー番組に梨元勝氏、東海林のり子氏といった、元々芸能週刊誌の記者などをやっていた人々がリポーターとして登場、芸能人のゴシップやスキャンダルを毎日のように報じて大いに視聴率を稼いだのである。


「芸能人は、マスメディアに報道されてナンボ」、それはいまも昔も変わらない真理である。


そこにつけ込んで、と言うと語弊があるかもしれないが、実際名誉毀損スレスレのところで各局、さらに後には写真週刊誌なども加わって報道合戦を繰り広げ、良識ある層からは大顰蹙をかっていたのは事実である。


その辺の狂躁ぶりは山下達郎の曲「HEY REPORTER!」などを聴くとよくわかるだろう。山下自身、竹内まりやと結婚した頃はリポーター、カメラマンらから追われていた経験があるのだ。


要するに芸能人にはプライバシーはないと言う考えかたがこの国のマスメディアには年々蔓延はびこっていき、彼らの行動をすべて伝えようとするのみならず、彼らの生き方にもことごとく干渉するようになっていく。


いちいち事例を挙げるとキリがないのでここでは記さないが、芸能人の不倫や離婚などが発覚すると、ワイドショーなどでは何人ものコメンテーターを動員してその者をフルボッコにする。


本来ならば個人の家庭の事情に過ぎないものを、まるで鬼の首でも取ったのかのように詳細に報道し、おのれが正義の代表かであるように当事者を責め立てる。


これって、どう考えても要らぬおせっかいだろう。


「要る」のはたぶん、それによって視聴率を稼ぐメディアのほうだけである。


その内に視聴者も(一部の心ある人々を除き)感覚が麻痺して来て、記者会見を開かず謝罪をしようとしない芸能人を「何様のつもり」とか非難するようになってくる。


この「芸能人吊し上げ文化」が40年以上にわたって常態化した結果、日本人は自分のやっていることが「いらぬおせっかい」「余計なお世話」であると正しく認識出来なくなってしまったのだと、私は思う。


そうして一般の人々も、「いらぬおせっかい」を日常的に行うようになってくる。なんの躊躇ためらいも無しに。


私自身、そういう傾向をはっきり感じた最初は、今を去ること30年ほど前、ジャズ・ミュージシャン、ベニー・ゴルソンのコンサートにおいてであった。


演奏時間中、若い観客のひとりが、ゴルソンに向かって「オヤジー!!」と大きな声で叫んだのである。


それに対して周りの真面目な観客たちは、一斉に「なんだこいつ」みたいな反応だった。


どう見てもその若い男は、老いたゴルソンに対し親愛表現としてのオヤジ呼ばわりでなく、からかい、バカにして声をかけたとしか思えなかったからだ。


似たようなことはその5年後ぐらいに、今度は私自身が経験する羽目となる。


カラオケのある店(それもボックスではなく相乗りの店だ)に友人と共に行き、歌っていたら、一面識もない別グループの若い客(サラリーマン)に「オヤジー!!」と言われたのである。


この時もどう考えても、年長者をバカにするニュアンス(こんな場所にオヤジが来るなよ、みたいな)でしかなかった。


大人気ないので、私はその若い人々にもお店にもクレームをつけなかったが、血の気の多いひとならば、ただじゃ済ませなかっただろう。


結局、芸能人という自分が全然知らない(一面識もない)人間にいろいろツッコミを入れていいのだという文化が定着してしまった結果、見ず知らずの一般人に干渉しても構わないのだと勘違いする若者(何十年も続いた結果、すでに若者といえない年齢の者まで含んでいる)が増殖してしまった。


まさに、一億総おせっかい文化なのだ。


そんな文化に毒されたのだろうか、ことあるごとに周囲の人々に意見して嫌われまくっているひとを、私は知っている。


そのひとは自分より年長であれ、仕事での先輩であれ、なにかと意見するのである。


それも、単に仕事のやり方みたいな枝葉の部分だけでなく、相手の人生観そのものに関する、根本的な部分で「あなたの考えかたはおかしい。間違っている」みたいな意見を述べるのだ。


こりゃ、嫌われない訳がない。疎まれない訳がない。


その意見に対して、ある者はおとなしく受け入れるが、そういう寛大な人間ばかりではない。


当然、極めてロジカルに反論してそのひとを論破するような猛者もいる。


そういう人たちとガチンコの口論をして、相手と気まずい関係になることが度重なった結果、そのひとは会社に行くのがイヤになってしまった。


相手と顔を合わせたくないからである。


精神も病んでしまった。


いつも何かに怯えている。


だが、元はといえば、自分が蒔いた種なのだ。


要らぬおせっかいをしたばかりに、災いを招いたのだ。



もちろん、他人に意見すること、それが必要な時もある。


しかし、それは相手の人間性をよく知り、きちんと信頼関係を築いた上、表現に十分気をつけてしなくてはならない。


軽々に意見すること、それはおのれにも確実に災いをもたらしかねない。


要らぬおせっかいは、特大のブーメランとなって、自分に返って来るのだ。


相手に嫌われたうえに、自分の立場や心の健康まで損ねたのではバカバカしい。


読者諸兄も、ご自身の他人へのおせっかいが日常茶飯事化していないかどうか、これを機に一度見直されてはいかがだろうか。


それこそ、要らぬおせっかいかもしれないが。(この項・了)

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