実録・幼馴染み

家の近所に住む幼馴染み、といえばラブコメ、あるいはギャルゲーには欠かせないもの、ということになっている。


かつては漫画「タッチ」に代表されるようにメインヒロインの役割を担うことが多かった幼馴染みも、最近では「俺修羅」「俺好き」などのように負けヒロイン、かませ犬という扱いが多くなって来た。


とはいえ、いまだに幼馴染みとの恋に憧れる人が多いのは、当サイトのラブコメランキング上位にも、必ず何がしらの「幼馴染み」ものが入っていることでよく分かると思う。


そう、ラブコメ好きな人々にとって、幼馴染みはたぶん「永遠の憧れ」「スタンダード」なのである。



しかし、よーく現実を検証してみよう。


あなた、あるいはあなたの周囲の人で、幼少期(幼稚園〜小学校)に一定期間友達関係であった異性と、高校生になってからもご近所付き合いがあるという人ってどれだけいるだろうか?


たぶん、10人に1人もいないだろう。


それも地方都市あたりならともかく、東京大阪のような人口の流入・出の激しい大都市だと、数パーセント程度なのではないだろうか?


さらには同じ高校に入って、さらに言えば同じクラスに幼馴染みがいるなんてケース、ほとんど天文学的に低い確率、コンマゼロゼロレベルなのではないだろうか。


そう考えていくと、長年にわたる幼馴染みなどというものは、現実にはほとんど存在しないからこそ憧れの対象となりうる「天然記念物」、イリオモテヤマネコのようなものかもしれない。



さて、そんなごくごくレアなケースといえるであろう「幼馴染み」だが、実は私にはひとりだけいたのである。


年も同じだったその子はなんと、私の家族の住む家の隣り(ともに一戸建て)に住んでいた。


元はといえば、その子の父親と私の父が同じ会社勤務であったところから、始まっている。


幼稚園にようやく上がるころまで、つまりはまだ赤ん坊みたいなころ、同じ社員寮に住んでいた。


というか、住んでいた「らしい」。


本人的には記憶がろくに残っていないのだから。


その後、それぞれの父親は異動やら転勤やらで別々の道をたどり、住まいも離れることになるのだが、私やその子が中学に入ったあたりで社宅を出て、持ち家を買うようになる。


会社の紹介で比較的安い物件があり、それを両方の父親が購入したところ、偶然お隣りさんになったというのだ。


実に10年ぶりのことだった(らしい)。


「今度のお隣り、あんたと幼馴染みの◯◯ちゃんよ」


と母親に聞かされて、


「ふーん。昔のことなんか覚えてねーよ」


と内心思ったものの、昔のアルバムを見ると確かに小さい頃のその子と一瞬に写った写真があったりするので、


「幼馴染みって、こんなものかねー」


って感じだった。


要するに、私とその子は幼少時代の記憶がほとんど無いままに、周囲の大人からの「定義」により幼馴染みにされてしまっただけ、そうとも言えた。


つまり思春期ただ中のふたりが、ほとんど初対面で出会ったのと変わらなかった。


にもかかわらず、親同士は会社も同じで(一応)仲がいい。


どうやら「もし当人同士さえ構わないようなら、結婚させてもいいんじゃないの」という思惑、空気さえ伝わってくる。


思春期の男子は、意外とそういう空気に敏感なのだ。


だから、なんとなくバツが悪かった。


その子と、自然に遊んだりすることが出来なかった。


うかつに仲良くなったりすると、周囲がよってたかって「さぁ、祝言しゅうげんじゃ祝言じゃ」と言い出しかねない予感がしたのだ。


それに当時の私は、ちょっとつっぱったところがあって(別に不良の道に入ったわけではないのだが)、ごくごく一般的な人々が選択する「平凡であることの幸せ」というものに完全に背を向けていた。


「人生は、一瞬の煌めき」がモットーで、恋愛についても完全に理想主義。


「自分が理想とする相手との恋が実らなければ、一生独身でいるしかない」なんて、マジで考えていた。


世の中には、自分の相手になりうる異性がゴマンといるのだ。


理想はあくまでも高く。


妥協は無用。


手近なところ(つまり幼馴染み)で済ませるとか、とんでもない。


そう、マジで思ってた。


いま思えば相当イタいな、こりゃ(苦笑)。


周囲の思惑に素直にしたがって、ほどほどの幸せを得ようなどとはまるで思わなかった。


だから、私は隣りの幼馴染みに対して、徹底的に「ツン」で通していた。


常に親に対して私は「あの子は、好みのタイプじゃないし」と言っていたが、もしその子が私に積極的に好意を示してきたら(いわゆる「デレてきたら」)、たぶんコロッと態度を変えていたと思う。


たぶん、思春期のリビドーに負けていたと思う。


が、敵さんもわりと慎重派で、露骨に好意を示して来ることはなかった。


間違っても、朝起こしにやって来たりなんかしなかった(笑)。


だから、ふたりの関係は何年経っても、ほぼ平行状態のままだった。


お隣りさんだったのは、中学の途中から、大学を卒業、就職してすぐの頃までなので、約10年。


けっこうな年数である。


だが、結局、何も起こらなかった。


ていうか、何も起こさないようにしていた。


たまにグループで遊びに行くこともあったが、一定以上の距離を取るようにしていたのだ。


その後、その子は大学を出て4、5年で相手を見つけて結婚した。


あまり経済力のなさそうな、線の細いヤサ男タイプだった。


「ふーん、オトコに縁が無さそうに見えて、意外とやるもんだな」


そう思った。


そして正直なところ、ホッとした。


肩の荷が下りた。


もしその子がずっと私のことを想っていて結婚しなかった、なんてことだったらイヤだったのだ。


これを「そりゃ自意識過剰だよ」などと笑わないで欲しい。


思春期とは過剰に肥大した、自意識そのものの謂いなのだから。


幼馴染みの仲というものは、本人たちもそうなのだろうが、周囲の大人(親)たちにとっても、その行末が大いに気になるものなのである。


一応「恋愛は本人たちの自由ですから」とか言っているものの、心のどこかで「もし、ほかにいい相手が見つからなかったら、長年の付き合いでもあるし、そのまま結婚したらいいんじゃないの」と思っているのが、不思議と本人側にも見えてしまうのである。


親4人、ひとりひとりの思い入れ具合はそれぞれであるにせよ、だ。


その無言のプレッシャーをはねつけて、ひたすら我が道を行くというのも、実はけっこうしんどいことなのだよ。



結論。


「幼馴染みとの恋」とは、それを結局持つことの出来なかった大半の人々にとっての、甘美なファンタジーなのでありましょう。


現実にはそれは、かなりビターなものです。


苦く、酸っぱい(甘さ抜き)ものです。


それを踏まえたうえで、「幼馴染みもの」を読めば、ひと味違った深い味わいがあるのではないでしょうか。


そう愚考する次第です。(この項・了)

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