10.消える

 自転車を漕いで、徒歩だと十分程の公園へ向かう。着いたそこには、平日の午前だからか誰も居らず、俺は適当なベンチに腰掛けて青い空を見上げた。自転車を降りた途端汗が滲んで、何があまり気温が上がらないだ、とやさぐれた気持ちになったりした。

 だが、爽やかな風が吹いていて、暫くして汗が引いてくる。俺はほっと小さく息を吐いてから、隣のナツミを見遣った。

「ナツミは、汗かいてる様子とか無いけど、暑いとか感じないの」

「我々はそもそも生きてはいないので」

 そう云えばそんな様な事を云っていた気がする。

「でも、睡眠が出来て、食事が摂れて、その上感情も見られる。それで生きていないなんてあるのか」

「……我々の事を詳しく知るのは、人間には良くありませんよ」

 云えないのか、云いたくないのか。これまでにもナツミや"我々"について訊いてみようとした事はあったが、いつもそう云われてそれ以上訊けなかった。

 俺は黙ってまた空を見上げた。

 昼のサイレンが鳴る。

「……帰るか」

「……はい」

 立ち上がり、自転車に跨る。出かけたついでに公園向かいのスーパに寄って、アイスを買ってから家路についた。

 歩道を自転車で通る。車道と交わる度に横を見て、車が来ない事を確認しながらしかし漕ぐ事はやめずに進んだ。

 そうして、何本目かの道路を横切ろうとした時。俺は油断していた。平日の昼、通る車は無いと思っていた。横を確認するのを怠った。

 ぐい、と襟首を引っ掴まれた。

「ぐえっ」

 思わずブレーキを握る。振り返って、ナツミに文句を云おうとした。

「お前、急に何――」

 すぐ側を車がそこそこのスピードで抜けて行く。驚いて再び正面を向いた。黒いワゴン車はそのまま太い道路を横切って真っ直ぐ細い道路へ走って行った。

「……は、」

 知らず詰めていた息を吐く。肩の力が抜けて、崩れ落ちそうになりながら改めてナツミを振り返った。

「ありがとう、ナツ――み?」

 ナツミが、さらさらと砂になりつつあった。

「え?」

 天使の輪は既に消え、ナツミの美しい顔の半分ももう消えていた。光の粒子となって、空に吸い込まれる様に消えて行く。ナツミは残った顔の半分に微笑みを浮かべていた。

「何で……」

 消えるんだ、云いかけて思い至る。俺を助けたから――死を回避させたから?

「どうして、」

 視界が滲む。声が震えた。

「死んで欲しくないと、思ってしまったから」

 そう呟いて、ナツミは目を閉じる。それから、にっこりと美しく笑った。

「どうか、生きて」

 ナツミが手を伸ばす。震える手を伸ばして掴もうとした、その指先も砂となって消えて行く。

「あ、」

 情けない声が漏れた。

 最後にナツミは、

「笑って、」

 と云って、完全に消えた。

 俺は呆然と青い空を眺め、近くの家の風徐で寛ぐ猫が不審そうに俺を眺めていた。

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