3.そんな事より腹が減った

 自室の戸を開けるとカーテンを閉めたままだった。足の踏み場も無い様な部屋を横切り奥の窓を塞ぐカーテンを開けると、先程の天使は居なかった。幻覚だったのか、と思ったがどうやら天使は隣の部屋の窓の前で待っていたらしく、カーテンの開く音につられた様にこちらへと移動して来た。

 網戸を開けてやると狭い窓を潜って天使が入って来る。俺は数歩下がって万年床に胡坐をかいた。天使は窓枠に腰かけてこちらを見ている。

「ありがとう。私はあなたにしか作用出来ないので、窓も開けられなくて」

「でも、窓をノックしていただろう」

「でも、それはあなたにしか聞こえていないでしょう」

 そう云う事か。ならば、窓枠に座っているのも、そう見せているだけなのだろう。

「じゃあ、お前が墜落した音も、ほんとに俺にしか聞こえていなかったのか」

「墜落とは失礼ですね」

「でなくてどうしてあんな派手な音がする」

 天使は反論出来ない様だった。話を変えようとこほんと咳払いをする。

「あなたはもうすぐ死にます。私はあなたを迎えに来ました」

「つまりお前は、天使に見える死神か」

「人間に分かり易く云うなら、そうです。ですが、我々は天使も死神も、自称した事がありません」

 人間が勝手にそう呼んでいるだけ、か。

「お前が幻覚でない証拠は?」

「証拠はありません。よって証明は不可能です」

 まあ、俺にしか作用出来ないもんな。つまり退屈を極めた俺の脳が作り出した幻覚だと云う説は否定出来ないと云う事だ。

「……まあ、良いや。実際俺が死なないと証明出来ないもんな」

「ご理解頂けましたか」

「その点については、な」

 膝に肘をついて頬杖をつく。天使を見上げると、つくづく美しいと思った。陽が沈みかけ薄暗くなった室内で、彼女は確かに輝いて見えた。

「俺の死因は何だ」

「死因は云えません。回避しようとされると困ります」

「回避出来るのか」

「稀にそう云う者も居ます。そもそも我々は誰にでも姿が見える訳ではないのです。何かの面で特殊な人間にだけ、見えるのです。そうして特殊な人間と云うのは、時々思いもよらない事を実現します」

 それを人は奇跡と呼ぶのだろうか。

「だったら姿を現さず、死後迎えに来れば良いだろう」

「昔はそうでした。ですが医療の発達により、蘇生率が上がりました。その為死後速やかに魂を肉体から抜かなければ、死が回避されてしまいかねないのです」

「だから姿を見られてでも側で死を待つと」

「はい」

「まあ、筋は通っている……か?」

 腕を組んで考え込む。矛盾は無い、と思う。俺の足りない頭では疑問に気付けないだけかもしれないが。

「で、俺はいつ死ぬんだ」

「それも云えません」

「回避を避ける為?」

「はい」

 俺は後頭部をかしかしと掻いて一つ溜息を吐くと、窓辺に佇む天使の瞳をじっと見詰めて云った。

「そんな事より腹が減った」

 天使がずっこける様な仕草をする。

「そんな事より?」

「そんな事より。何せ今日は牛すきだからな。食べて来るから待ってろ。中入って。網戸閉めるから」

「えええええ……」

 呆然とする天使を置いて、俺は居間へ降りて行った。既に割り下の甘じょっぱい香りが家中に漂っていた。

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