何もそこまでしなくてもいいじゃないか

 不可解な人。


 私は一瞬で眠りに入った小沢くんのかんばせを見る。頬を上気しており、汗が伝っている。息が荒く苦悶の表情で、手足はだらりと投げ出すように置かれていた。

 何かできることは、と衝動に駈られる。だが、できることはない。付近には木立があるだけで、水が都合よく流れていることはない。山内ではあるが裾だ。避難所も現在の足の状態ではほとほと遠くなっている。

 症状は緩和できないが、せめてものハンカチで汗を拭う。一身だけで労々と逃げた唯一の持ち合わせである。膝枕は断られたので止めておく。なにより恥ずかしいし、節操がない女とは思われたくない。


 なんで具合が悪いことを言わなかったの?


 最初に感情を爆発させた以外、彼は至って冷静でいた。感情を押し殺し、そう努めていた。

 特筆することのない、平凡な顔立ち。だが、それ以外は非凡だ。


 腕を引っ張られながら奔っていたとき、足が縺れ且つ彼は私の一歩の先を行く。それは男女の差だけでは説明がつかないことに、私は無我夢中でも気付いた。

 一瞬にして場面が切り替わる。今見ていたはずの風景が後ろに流れていて、私はつんのめりそうになっている。


 彼以外にも不可解なことがある。

 兆候もなく起こった突然の津波、サイレンでない町を響かせる声のような音、立ち塞がる気味の悪い二匹の犬。


「こんな世界、おかしいよ」


 夢なのだろうか。頬をつねったり、叩いたりする。ただ痛いだけだった。

 じんわり浸す涙に釣られ、親友や家族を想って溢れてくる。津波は私の大切なもの全て奪った。潮に沈み、運が悪ければ一生涯発見できないかもしれない。


 打ち拉がれ、暗い考えが過る。私も一緒に死んでしまったらこんな辛い思いをしなくて済む、と。だが、直ぐに霧散する。

 誰かの手で、それこそ津波がやってくれるならいいが自ら死ぬ勇気はない。そもそも私は死にたくない。

 小沢くんには私の代わりが律だったらと口走ったが、絶望の最中では光明だったのだ。


 数分前まで話していた親友がもし生きていたら。彼が彼女に手をとった、その可能性に未来を見た。

 だって、そしたら私と律は二人とも生きていたかもしれない。彼の言葉に従い、私は奔って津波に呑まれることはなかったかもしれない。

 もしもの話なんて、現実には無意味なのに。



 挫いた足を庇いながら、私も適当な場所に座る。瞼が下りてくるが我慢だ。小沢くんを守らなければならない。うとうとしてしまっても我慢我慢。あの野犬が移動し、襲いかかってくる可能性がある。


「我慢…………っ! 駄目、とっても眠い……」


 心身の疲労が襲いかかる。小沢くんが今まで頑張ってくれたのだから、今度は私の番なのに。

 昏い視界が眠りに誘ってくる。そういえば時間が来たら起こしてって言われたけどいつなんだろう。もうこんなに昏いけど、いいのかな……。







「痛っ」


 私は飛び起きた。木立が視界に入って驚きながらも、津波から避難したことを想起して溜息を吐く。そして、ちくりと痛んだ腕を手で払い落とす。

 私は虫かと思っていた。だから、つるりと確かな感触があったことに「ひっ」と悲鳴を上げる。


「へ、へへへ蛇!?」


 鎌首をもたげて威嚇をしている。全長は三十センチはあり、よくよく見ると口から何かが垂れている。いつの間にか夜になっており、よく判別はできないが状況から察した。


「噛まれた……」


 血の気が引くのが自分でもよく分かった。蛇は気をよくしたのか知らないが、藪へと消えていく。

 ざわざわとした山籟が不安を増長させた。寒く、震えが止まらない。どこかで犬の遠吠えがして、びくりと体を揺らす。


「小沢くん……、」


 私は彼を起こそうと試みる。噛まれた腕だけは動かさないで、ゆさゆさ揺らすが深い眠りに入っているようで反応はない。


「小沢くん、小沢くん!」


 声もかけるがピクリともしない。私は視界を滲ませながら手を振り上げ、勢いよく頬を引っ叩いた。


 ◓



 僕は伊織さんから泣きながら蛇に噛まれたと聞き、思いつく限りの処置をした。ハンカチで腕を縛ったり、心臓より下に腕を置いたり、夜露を探してなんとか洗い流そうとする。

 ヒリヒリと痛む頬は放置だ。ビンタは強烈で何もそこまでしなくてもいいがと思ったが、僕よりも伊織さんの方が危険度は高い。


「僕が人を呼んでくる」

「私も行くっ」

「伊織さんは安静にしていないと駄目だろ。直ぐに戻ってくるから、だから」

「やだやだっ。また蛇が出てくるかもしれないのに、一人でここにいるなんてできない」

「でも、」

「私、絶対一緒に行くから」


 迫力に押されるが、僕も決して引かない。連れていって毒が体に回るのはよしたい。だが、こうして興奮しているのもよくないだろう。


 嫋々と風が木々を靡かせる。伊織さんはその度に不安げに瞳を揺らした。

 ……仕方ない、か。


「分かった。でも後で後悔しても知らないよ」

「! ありがとう」

「でも僕が背負っていくからね。伊織さんの願いを聞いたから、異論はなしだよ」

「……はい。でも大丈夫なの?」

「 ちょっとはましになったからね」


 背に人の重みを加え、出発する。具合は口の渇きを感じるぐらいには良くなっていた。


「ねえ」

「何?」

「ごめんね。頬、痛むでしょう?」

「まあね。でもいいよ。必死だったんだろ?」

「うん。……私、死なないよね」

「きっと、大丈夫。変色していないし、蛇が毒をもっていないかもしれないんだ」


 しっかりと水で洗い流していないので、感染症は起こり得るかもしれないが言わなかった。不安にさせるだけだ。先を急ぎ、快調に道程を進んでいく。

 すっかり夜だが夜目には慣れてきた。一歩を踏み締めるようにして、転ばないようにだけする。

 そんなときに再びあの声が聴こえた。


 ――ォオオオオオッ!


 心臓が跳ね上がるかのような轟音が鳴り響く。鯨がまた何かをするのか。怒りを含む声色に警戒する。


「またこの声……っ。もしかして私を狙ってる?」

「……速度、上げるよ」


 否定はできなかった。町ごと海に沈ませたのだから、強ち間違いではない。

 速足であまり揺れないように駆ける。

 伊織さんの腕力が強まることでより密着し、当たる柔らかな感触には思考を逸らした。


「小沢くん、」

「分かってる」


 鯨の他に犬や鳥などの様々な鳴き声が嘯いていた。重なりあうことで不調和となり、不気味な様相を醸し出している。が、ちょっと待て。


「どうしたの……?」

「静かに」


 僕は足を止め、聴力に全意識を向ける。

 羽ばたきや草本の擦れる音も混じった動物の喧騒だ。増えたものばかり気にしていたが、確かにない。減った音が、虫の啾々が消えている。


「伊織さん」

「な、何?」


 音に怯えながらも反応している。なぜ、どうしては愚問だった。少なくとも今の僕には懐疑より喜びが勝っている。

 幾度にも渡る経験が時止まりだって示していた。その中で彼女が動いているということは、つまり。


「っ」


 付近で藪が動き、僕は本気で駆け出した。急発進に伊織さんが悲鳴を上げるが、もし鯨並みにヤバイ奴が来たら対処できない。杖は邪魔だからと置いてきたし、試したことはないが僕の拳はへなちょこだ。

 後方で何事か発しているが、聞き取る余裕はなかった。意味ある言語だった気がして一瞥するが、何者もいない。

 そして僕は前を向く。


「なあ、」

「――ッ!?」


 予想だにしなかった方向から声がして、僕は反射的に飛び退いた。伊織さんを落とさないようにしながら対峙し、驚愕する。


「なんで逃げんだよ」


 不満そうにムッとしていた。その小さな体躯に大きな瞳の子どもには見覚えがある。


「君は……」

「うん。助けにきた! 安心していいぞ」


 男勝りな口調ながらも、にっこりと笑う様は少女然である。背負う伊織さんが降りて立つのを支えながら呆然としていると、また新たな人物が現れる。


「たいちょー、やっぱりこの男だ。あたしが電車内で見たって奴」

「へえ、じゃあ見間違いではなかったのか」


 大柄な体躯を持つ、三十代の男だった。目が合うと朗らかに名乗りを上げる。


「俺は日下部くさかべ大輔だいすけだ。坊主、嬢ちゃん、ここまでよく頑張ったな」


 依然時止まりの中、いつの間にか静けさに包まれている。

 僕は身に宿る小さな感情が興り、昏い視界が色めき立つのを感じた。

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