僕は僕にできる最善をつくしたんだ

「離して!」


 女は僕の手を振り払う。もう津波が及ばないところまで逃げきれたので、僕は素直に手を離した。だが、女が踵を返すので再び掴み戻す。


「離してってば!」

「どこに行くつもりなの? まだ水位が高くなるかもしれないから、そっちには近付かない方がいい」

「律を助けに行かなきゃ……待ってるかもしれないの。多分そう、そうに決まってる。私は置いてきちゃったから、だから、だから……っ」


 顔色は青白くし狼狽していた。譫言を繰り返しており、完全に混乱している。僕は努めてゆっくりと言を紡ぐ。


「どうか落ち着いて。冷静になるんだ。まずは体を休めよう。疲れているだろ?」

「そんな悠長なことしてられない! 律は今も苦しんでいるのに私だけこんな、」

「律さんのことは諦めるんだ。きっと、もう手遅れだ」

「そんなことない! まだ分からないのに勝手に決めつけないで!」

「だってそうだろう? 君も見たはずだ。彼女が……波に呑まれたのを」


 酷だが現実を突き付ける。そうでもしないと死んだ律さんが報われない。眼前の女をみすみす死なせる訳にはいかない。

 女はポロポロと涙を溢れさせた。しゃくりを上げ慟哭する。寂寥が僕にまで伝播してくる。


 人が亡くなった。大勢の人が津波により潮に沈んだ。一気にその実感が湧き、僕を叩きのめす。

 なんて非力だ。時止まりでも動けるような能力を持っていても、一人しか救えやしない。

 異端な力は人の為になるようなものにできていないかもしれない。それとも僕が時止まり関係なしに、大層な事を成し遂げる力を持っていないからか。


 気のきいたことは何も思いつかず、女の涙を止めることすらできない。まず僕も僕で精一杯なのだ。狼狽する女の様で、一時頭の混乱を脇に避けれただけ。


「私があの子だったらよかったのに」

「……どういうこと?」


 唐突な言は意味が分からなかった。律さんになりたかったって、死にたかったということか? 友達の死につられ、酷く感傷的になっているのだろうか。


「私が死ねば代わりに律は生きれた」


 とんだ自己犠牲だと思った。僕だったらそんなこと思いはしない。特に仲のよい者がいないからかもしれないが、誰かの為に死ぬなど……ああ、僕はヒーローにとんと向いていないな。


 独善に本音が漏れる。


「じゃあ、僕に救われたくなかったってことかよ」


 言ってから後悔した。女は瞠目し、ポツリと何かを呟く。


「……そうだよ」

「ごめん。何て?」

「貴方が、私じゃなくて律を救ってあげれば良かったのに」


 睨み付けるような目だった。あまりの仕打ちに僕は腹が立つ。


「ならどうしろって言うんだよ。僕は自分の命まで危険に曝したのに無意味だったってこと?」

「そんなこと言ってない」

「言ったも同然じゃないか。ほんとは二人とも救えたらいいけど僕はどちらかを選ぶしかなくて、その結果を散々に否定される。ほんと、何が違うんだよ」

「それは……ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの」

「僕は僕にできる最善を尽くしたつもりだ。殆ど意味はなさなかったけど、律さんに何もしてしてあげられなかったことではない。僕は奔れって声をかけたんだ。律さん自身が行動に移せば今が違うことになってただろうね。津波には気付いてたんだろ? さっさと避難しておけば、死ぬような危険にも逃れられたのに」


 滔々と毒を吐き、憂さ晴らしする。女が熱り立つのは当然の帰結だった。


「いきなり現れた男に腕を引っ張られて奔れって、一瞬で何をすべきか分かる訳ないじゃない! そもそも私達だって避難しようと考えてた! でもまだそのときには津波からは遠かったはずだし、どこへ向かうかとか歩くのに不自由なお婆ちゃんのことで話し合ってたの!」


 時止まりのことを留意するのを忘れていた。僕は口を噤み、頭を冷やす。

 そこで体調の悪さがぶり返してきて、頭痛を手で押さえる。何も知らない女から反感を買ったようだが、相手にするのも怠い。


 体が冷えたようで、汗や潮が染み込んだ服の気持ち悪さを実感する。

 親への連絡や情報を得ようとスマホを取り出そうとし、ないことに気付いた。鞄は教科書等があって重く捨てたが、別に持っていたはずだ。だがどこにも見つからない。きっと、落としてしまって水に沈み、使い物にならなくなっている。


「ここ、どこか分かる?」


 女はスマホは鞄の中で、逃走の最中に落としたと無精ながらも答えたので別に尋ねる。僕はこの周辺の道は全く知らなかった。

 首肯するので、避難所まで案内を頼む。険悪な仲であろうとも拒絶はしなかった。先を行く後ろに付いていき、突然女は足を止める。


「足でも挫いてた?」


 だとしても僕は肩を貸せないぞ。力を使い果たし且つ体調の悪さはかなり深刻で、歩くのも辛抱だ。

 訝しむ僕に、女は黙り込む。

 これは無視かと思ったとき、ようやく開口した。


「私は伊織美桜いおりみおう。貴方は?」

「――小沢勇哉こざわゆうや

「小沢くん、ね。……救ってくれて、ありがとう」


 眉を下げて唐突に言うものだから、僕は呆気にとられた。伊織さんは背を向け、一瞬霧散していた鋭い雰囲気をなす。


 悪い人ではない。

 僕は悪い印象を持っていたので、ばつが悪くなった。

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