人希盲目
暫くするとオアシスが見える。いくら強い意志で真実を探そうとしていても、人間である以上、一目オアシスを見るとどうしようもない渇きを感じる。ムスタがここに近づく程頻繁に鳴くのだから、目的地もここなのだろう。私は歩を速め、禿げかけの看板の文字が読める程近くなった頃には小童の様に駆けていた。足に伝わる感触が何か気持ち悪く、立ち止まり足の裏を見ると赤黒い何かが靴底にこびりついている。何か踏んだのだろうかと思い、オアシスで靴を洗おうとすると横から呻き声が聞こえるのだ。驚き振り向くと、緑色の軍服を着た兵士が血だらけの腕をオアシスに突っ込み、死人のように地面に突っ伏していた。足も何もかも血まみれで私が歩いてきた道は彼の血潮で染まっていた。
爆風で耳がやられたのか何かは知らないが、彼は一向に私に気づかず、
「大丈夫ですか?」
私が彼の腕をオアシスから引き上げつつ、そう声をかけると別人の様に跳ね起き、
「督戦隊ですか!?どうか命だけは御勘弁を......せめて略式裁判ではなく通常の軍法会議でお願いします.....」
「いや......あの.....きちんと見てください、そもそも私は兵士ではありませんよ?」
ゆっくりと彼の目が開かれ翡翠色の目が私の体を見渡す。誤解は解けたようで彼は胸を撫で下ろした。
オアシスにいる武装した行商に高値で買わされた包帯を巻くと彼は随分と落ち着いたようで、親しげに話しかけてきた。
「その感じ、まさか『幸福の国 アレッポ』の方ですか?」
「どうして分かるのですか?」
「そんな小綺麗な服を着ているのは世界唯一の平和国家となったアレッポしか有り得ないでしょう?」
言われてみると彼の軍服はボロボロであちこちが擦り切れていた。それよりも.....
「世界唯一の平和国家とか『幸福の国』とはどういうことですか?そんな風に言われたことはないと思うのですが?」
そう言うと彼は首を傾げる。
「知らないのですか?数ヶ月前、中華社会民国が参戦し、CMDU加盟国も一斉参戦したので貴方の国以外全てが参戦しているのですよ?『幸福の国』は読んで字の如く唯一平和だからそう呼ばれているのですよ、まあ大抵は皮肉の意味合いで言われますが」
「皮肉?どうしてですか?」
羨望や、同盟を勝手に切って壁を作った非難等なら分かるのだが......
「犠牲を厭わないことすらできず、貧しい土地に縛り付けられて命なんか大事にして幸せか?という意味ですよ、あ、これ要りますか?」
そう言って彼はオアシスの水が入ったアルミカップを差し出す。冷えた水を一気飲みし目を醒まそうとするが目に映る景色は変わらない。
これが現実なのだ。こんな感情が普遍的な価値観となってしまったのだ。昔から紛争は続いていた。だけれどもそれは基本的に自分やその周りを守る為の戦争で消極的な物であった。それ故にそこには当たり前の悲しみが存在した。家族が死ぬ悲しみ、子供に防空壕への入り方を教えなくてはならない悲しみもだ。砲撃音がなる度に気分が悪くなるものだった。だけれども戦争のない世界を知らない人間ばかりになるとその様な悲しみを感じることもできなくなるのだろうか。帰ってこない人間に届かぬ思いをはせ続けるよりは幸せかもしれないが、これからの時代、人間は感情のない殺戮マシーンになるだけなのだろうか?それは本能的に嫌なのだ。
「貴方も命を大事にすることなんて愚かだとお思いで?」
これだけは聞いておきたかった。本当に全ての人間がそう思っているなら、私が持っている夢とやらも永久に叶わないだろう。
「いえ、そんな訳ありません。20年前父母を奪われていますからね。それで命がどうでもいいとか言ったら父母に殺されますよ。皆本当は分かっているんです。おかしいのはこっちだと。主義の為に命を投げ捨てるほうがおかしいのだと。命をここまで軽くしてしまった我々が悪いのだと。でもそんな現実は変えられない。そう気づいたのでしょう。だから自分を守る為にそう思っているのだと思います」
「それに......」
彼は心底悲しそうに数多の星が煌く夜空を見上げる。いつまでも彼は瞬きもせず空を見たままで私は問いかけた。
「どうしたのですか?」
「結局......同じなんですよ。昔我々は社会にも政治にも興味が無いと言って逃げ続けいました。あの頃我々は目隠しをしていたんです。その結果当たり前だった社会も娯楽も知らない内に奪われたんですよ。今も変わりません。我々は生への本質的な喜びから目をそらし、命を無駄にしています。今度は命というものを見ないようにしたのです。貴方のアレッポも変わらないかもしれません.....外から目をそらし調停役を存在しないことにしたのですから」
「アレッポで何が起きたか知っていたりするのでしょうか?」
私は一縷の望みを賭けそう聞いた。
「いえ......知りませんが......アレッポも我々も目隠しをするという選択をしたのは間違えないでしょう。世界は盲目となってしまったと言えるかもしれません。ですが.....その選択を責める気にはなれません。正直この世界は直視するには眩しすぎます。私もこの混乱が始まるまでは父母の死からも目を背けて来ましたし.....という甘いことしか考えられない私ではこの世界は変えられないかもしれませんね」
そう言って彼は砂まみれの尻を叩き伸びをした。
彼は嘆いていた。その現実を変えるために軍隊に入ったのだろう、逃げてばかりの私なんかより余程立派だ。
「良ければ貴方の話を聞かせてもらえませんか?参考にしたいのですが?」
彼は気恥ずかしそうに逞しい手で背中を掻きながら話しだす。
「軍服を見れば分かる通り、私はソビエト連邦の軍人でしてね、私なりに懸命に仕事をして、一年前行われようとしていたツァーリ作戦の指揮官にまで登りつめたのですよ。ですが私チェチェンの出身でですね。チェチェン内戦の孤児ということもあり、参謀に信頼されず罷免されました。しかもその直後にチェチェンやチェコが連邦から離脱したんですよ。これは貴方もご存知では?」
「えぇ.....」
思ったより話が重く答えるのがやっとだった。
「そうなるとそもそも私はソ連国民ですら無いわけで、軍隊から除名されしばらくは野営地で嘱託として働いていたのですが、軍服を着ているのが気に食わなかったらしくこの有様です」
そう言って彼は血だらけの腕とボロボロの軍服を見せる。
「ですが後悔はしていません。この世界を誰も犠牲にならないようにするための戦士であるという誇りは守れたのですから。あの時軍服を脱がなかった私は偉大であったと思います」
彼はそう言い目を閉じた。私は彼に憧れを抱いた。自分の理想を誇りに思い、例え何があってもそれを守る彼を。彼の様になれば私の夢も叶えられるかもしれない。
「お名前だけでも教えてもらえないでしょうか?」
私は彼という恩人にそう問いかけた。
「アレクセイ・カディロフといいます」
カディロフ......か......いい響きかもしれない。私はそう思い、難儀そうな顔をして眠るカディロフの横で眠った。
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