変革招猫

雨が降っていた。雲は浅黒く色づき掃除をしていない絨毯は黒ずみ、壁紙は煤と砂で汚れていた。私は今日も無意味な嘆きを繰り返すだろう。いつも通り、たいして高くもなく、美味でもない茶葉を取り出し、飽きる程時間がかかるポットで湧いた湯を雑多にグラスへと注ぎ窓辺で待つのだ。あちこち線が切れている電柱の上では鴉が粗雑に喚いている。黒き羽が眼前で落ち思わず目を閉じると、

「がたん」と音が背後からし、足につんざくような熱と痛みが走る。振り返るとそこには、グラスは無様に中身を撒き散らしており、


猫がいた。全ての光を飲み込むような黒色をしておきながらどこか目に刺さる眩しさを持った猫が。ターコイズが目にあるような猫がいるのだ。猫は全く悪びれる様子もなく、フワァと口を開き、「ミャァァァァオ」と媚びるような撫で声で私の神経を逆撫でする。それどころか激痛が走る足を引っ掻くのだ。自然に出ていくのをも待っても昼寝をすれば顔を引っ掻き、トイレに行けば勝手に食物を引っ張り出すものだからうざったく、孤児等一時待機所に連れていくことにした。まぁ猫でも預かってくれるだろう。


そんなわけは無かった。第一、動物は伝染病を持っているかもしれないから困ると言われたし、保証人の私が日雇いばかりで身分証も特別在住証明書も持っていないものだからあっさりと断られてしまった。つくづく私という存在の矮小さと、半生の無意味さを思い知らされる。どうしようもないので猫は持ち帰ることにした。


まずは、彼の懐柔から始まるのだ。無い裾を振り、青魚を市場で買った。数年ぶりに指紋認証で物が買えるようになりこの社会の復興を実感させられる。それでも壁は開かない。本当に外も復興しているのだろうか。そんな一抹の疑問が走る。だが、そんな物はすぐ忘れてしまった。

今朝までの無力感が嘘の様に私は様々なことをした。青魚をあげ、ねこじゃらしとやらを準備したりと、名前だって名付けた。

と言うより書いてあったのだ。毛を触っていると、

「Msta-судьба」とキリル文字が刻まれており私は読めないが、これが彼に与えられた名前ならば精一杯活かそうと思った。読める文字の「Msta」のみを切り抜き「ムスタ」と名付けた。疲れて眠った猫を抱きながら久しぶりに、幸福感と笑顔を私は魅せた。だが、寝台に倒れ、目を閉じると思い知らされるのだ。その幸福も笑顔もただの逃避にしか過ぎないことに。ウルシュクと世界への疑い、それによる陰鬱を覆い尽くし、自分が何も成し遂げられていない不甲斐なさを猫を助けてやったという優越感で打ち消そうとしているに過ぎないということを。


その夜は悪夢をみた。大層涼しく、平和で、寝苦しい夜だった。それに何かを忘れている気がするのだ。

幸せで苦しい日々を過ごしていると、ムスタの様子がおかしくなっていった。ムスタは扉の外に出ようとし、ドアを引っ掻く。それを見た私がそっぽを向くと、彼は私の傍に来て最初にあった時と同じな媚びた鳴きをするのだ。一回なら別に分かるのだが、何十回も何百回も繰り返す。最初の日は溶接されたかのように寝台の上にいたがとても対照的だ。彼が何をやりたいか分からず首を傾げていたが、


毛皮に書かれたキリル文字を必死にこっちに向けているのを見て理解した。考えてみれば当たり前のことだ。彼はソ連邦から来たのだろう。はたまた、昨年独立したチェチェン民族共和国からかもしれない。彼は扉の外から来たのだ。私の中で一つの欲求が生まれていた。

壁の外の様子が知りたい、ということだ。未だ嘗て、壁の外について明示化された一つの答えを得たことはないのだ。ウルシュクも他の市民も言ってくれない。とぼけるように的外れなことを言うか、バツが悪そうに誤魔化すかのどちらかだ。恐らく何らなの統制が行われているのだろう。このままでは私は永遠に壁ができた時の記憶もその真実も知らずに無意味な人生を生き平和に、退屈に朽ちていくだけなのだ。


ならば、どうせ無意味であるのなら、最後に抗うぐらいしてもいいのではないか。この時私はそう思った。何故だろうか。この感情には覚えがある。

常に私は怠惰で、卑屈で消極的であった。厄介事を避けてきたし、何も残していないことを後悔しながらも何もしなかった。普段なら捕まったりすると面倒だからとボロ家に籠っているだけだっただろう。


だが、今回は違う。そして以前にも違ったことが確実にあったのだ!心臓に湧き立つ心の底から喜び跳ねる鼓動、脳が過熱しシナプスが歓喜する様、凄まじいスピードで流れ狂想曲を奏でる血管。今感じている五感は全て感じたことがあるのだ。


私はドアを蹴破り外に出た。嘗て、自分ではなかった自分を探すために。


ムスタは首を右に向けて声を上げる。私がムスタに追いつくとまた声を上げる。猫が招く方向に行くと、市街地の喧騒を離れ、武器庫を通った。以前までカラシニコフやRPKの手入れをしながらチャイを飲んでいた兵士の姿もなく廃材で作られたその建物は手入れされることを忘れ段々と朽ちていっていた。生々しい記憶が薄れ、消滅していくこと、これも平和と呼ぶのだろうか。誰かが作り上げたこの壁は思ったより広く足が痛くなる程歩いてようやくそびえ立つ壁は眼前へと来た。


ムスタは見本を見せてやると言わんばかりに壁の裂け目を抜けていく。やつれていなければ通れなかったと思うほど小さな隙間を抜けた刹那、忌々しく懐かしい音がした。火を噴き加速しながら飛んでいき、着弾した瞬間鼓膜には凄まじい圧がかかり、脳では金切り声が反響している。間違うはずが無い、RPGだ。私は少年兵だった頃、これを無辜の民に向けて無遠慮に撃っていたのだ。


この時私は深く実感した。あの壁は戦乱に満ちた世界から私達を切り離すためのものであったと。決して防衛の為ではないことを。砲撃音すら聞こえたことがないなら、意図的に遮断されていたということだ。だが上層部が悪い等言うつもりはない。私以外の人間はあの時何が起こったか知った上で目隠しされることを望んだのだろう。彼ら自身を、誰かを守る為に。


この数ヶ月小さな世界はどこかぎこちない人造的な笑顔で溢れていた。壁の中にいた頃は微かな違和感を感じる程度だったが、今ならそれが張り付けられた形式的なものでしか無いことがよく分かる。人々が享受していると思おうとした平和も物質的豊かさも一時的で表層的であり、与えられたものでもなく得たものではなく、捏造したものに過ぎないということを彼らは最もよく知っているから当然だ。私はあの時何が起こったか知らなくてはならない。たとえそれがどんなに凄惨なものでもだ。それがこの数ヶ月盲目であろうとした私の私への贖いなのだから。


私は進む、進み続ける。砲撃音が止まぬ白骨街道を、猫の先導に身を任せ。全翼爆撃機がすぐ頭上を通過し、爆音と衝撃波が体を包む。次の瞬間それは文字通り八つ裂きになり、初めての撃墜なのだろうか、カナード翼の戦闘機は嬉しそうに急旋回し去っていった。私が衝撃波に揉まれ立ち止まっても、ムスタは一定のペースで歩き続けていた。

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