帝国論理

雷比

真実眩明

ある日、目が覚め窓から外を見るとそこには壁しか無かった。一面に黄色がかった砂が見える風景も、わずかに見える緑も見えず、ただ灰色の無機質な壁が見えるだけだった。退屈で気づいたら街に繰り出していた。


いつもはまばらにしか見えない商品も今日は何故か山の様に積まれている。昨日まであんなに銃声と爆音が響いていたというのに。人々も今までに無いくらい笑っていて、まるで違う国に来たみたいだ。まぁ世界中が紛争中でこのような街は外国にも無いが。恐らく戦況が好転したのだろう。だが何故だろうか。空の色は色あせ、彼らの笑顔は何故か引きつったものに見えた。


手持ち無沙汰でボーっと歩いていると急に肩を叩かれた。

「元気かいアーシャ。一週間ぶりのお目覚めか?」

思わず振り向くと見慣れた友人が満面の笑みを浮かべていた。

「一週間!?寝て起きただけだ。何か間違えているんじゃないか?」

「君の家に送り届け看病までしていたというのに失礼だな。わざわざ医者を呼んで治療してもらったんだぞ?やはり怪我した時の記憶は忘れているか?」

怪我?医者?そんなものは知らない?彼は何を言っているんだ?俺は黙って首を振った。


「あぁ.......やっぱり忘れていたんだね」

「多.....分......」

俺がそう言うと彼は何故か顔を緩めていた。

「君はあんなことを知る必要がない......いや知る必要が無いんだ!君が覚えていてもいいことはない。この私ウルシュクが保証しよう」

彼は雲一つない青空を見上げて言う。もう色々めちゃくちゃだ。

ウルシュクは踵を返しどこかに行こうとする。俺はこれだけは聞いておきたかった。

「なぁウルシュク......あの壁は何でできたんだ?それ位は教えてくれてもいいだろう?」

彼は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「私も詳しいことは知らない。だが良い理由でないのは事実だ。戦線議長によると今までの反省として、自らを律する罰として建設を決めたそうだ」

その言葉を聞き、憤りが抑えられなくなった。

「それは本当か!?このアレッポを支配する大衆戦線は各勢力の融和を目的とし、あちこちを飛び回ってきたはずだ。俺はもう軍人ではないがそんな大衆戦線に誇りを持っていたというのに!それをやめたというのか!?壁の外はどうなっている?ダマスカスは?ホムスは?」

「ここよりは......ましだよ.......」

消え入りそうな声が私の耳に響く。


彼はうつむいていてその顔を見ることができず、どう思っていたかは知らない。だが、自分の中で先の見えぬ濃霧のような感情が沸々と生み出されていた。私は何故か彼を信じれなくなっていた。


幼い頃からずっと一緒にいた彼を。私が一人になってから彼が大衆戦線に入るまで寝食を共にしていた彼をだ。私は彼のことをよく知っている。だからこそ私が予想できない反応を取る彼を信頼できなかった。

彼は私が記憶が無いことを知り何故か安堵の表情を浮かべた。

彼はアレッポの他の共同体がアレッポより豊かであることに辛そうであった。普段の彼ならばどこかが豊かになり誰かが苦しまなくなることを何よりも喜んだはずだ。


駄目だ駄目だ。そう自分に言い聞かせようとしても黒い感情は大きくなるばかりであった。おそらく今日の私はおかしい。状況も根拠も分からず彼を疑うのは恥ずべきことだ。これ以上は彼に無礼だし、一度心を落ち着けるべきだ。


「そうだ!もう昼じゃないか。家に食材がまだ残っているんだ。ウルシュクの言う通り私が一週間寝ていたのなら、腐らない内に食べないといけないんだ。だから帰らせてもらうよ。また都合が合えば連絡するよ。じゃあな」

私は早口でそう言うと未舗装で凸凹した道につまずきつつも足早に市場を去っていた。後ろめたさを誤魔化すかのように。

一度、追いかけていないかと思い振り向くと遠く遠くに歪んだ笑みが見えた気がしたが、おそらく気のせいだろう。今日の私はおかしいのだ。


寝ようとも、娯楽にふけようともその疑いを忘れることはできなかった。食事も喉を通らず、ラマダンでもないのに昼食もとることもなく、気づくと胸骨が見えるようになっていた。


彼は私の全てだった。少年兵として憎しみに支配され戦っていた頃、私が所属する武装組織のキャンプは大衆戦線を襲撃し、私は撃たれた。私が大衆戦線の捕虜病院で目を覚ますと敵対勢力の私に彼は手を伸ばしたのだ。

「これからどうするの?パパは引き受けてもいいって言ってるけど?」


そこから私と彼は一つ屋根の下で暮らし始めた。生憎多くの他人と過ごす学校というものは苦手で、ウルシュクの母は本だけでも読むべきと言うものだから破れかけの本と燃えた跡がある様な本しか無い図書館に毎日行き、歴史や哲学の本を読み司書と語りあったのは昨日の様に覚えている。


ただ、友人と呼べる人間は彼しかおらず、私達が15歳になった頃彼は軍に入り、彼の友人も続々と就職し始めた。ウルシュク家は別に出ていかなくても良いと言ったがいつまでも頼っているのは申し訳なく、この今にも崩壊しそうなボロ家に住みだした。


相も変わらず人と話すのは苦手で、学歴もない私が戦線の事務官等、一人でできる高収入な仕事につける訳がなく、かと言って鎮痛用のモルヒネに溺れた旧政府軍の退役軍人が集う場末の料理屋で働くのも嫌で仕方がなかった。家を出た当時は一時的に平和で、死んだ父母の出身国である東トルコ・イスラム共和国から遺族年金が出ていたが、まもなく米国の分裂が始まりそれをきっかけに世界全体が戦争に塗れ銀行なんてシステムは崩壊し、東トルコも滅び年金なんて出なくなった。

だから私は今、金が無くなれば日雇いで戦闘で被害を受けた家屋の再建や、比較的平和なこのアレッポに移り住んでくる人用の臨時プレハブを作ったりと肉体労働をして生活している。


私は空っぽだ。少年兵として戦っていた頃も特に優れていたわけでも無く、弾薬の運搬や掃除等をやっていたし、友人もおらず、学歴もない、父母もいない。夢ぐらい私にはある。だが、その夢は私には大きすぎるし言うのさえ憚れる。何もない、何も成し遂げていない私にとって、名士である彼と繋がっていることが唯一の心の支えだった。


だからこそ、彼を疑ってしまってから何とかしてその疑念を外に追い出そうとした。だがその疑念はその時のことを思い出す度に大きくなるのだ。彼があの時安堵していたのは確かだし、あの気味悪い笑みが彼のものであることも明らかなのだ。私はそのことについて考えるのをやめた。彼を疑う度に自らが抉られていくからだ。それからの日々を私は罪を償うかの様に無為に無意味に過ごしていった。


父が自慢げに見せていたソ連製の端が欠けたVfd管時計が1月1日を指していた。どうやら2025年になったらしい。いつからだろうか新年を祝わなくなったのは。もし6年前あの出来事が無かったら違っていたのだろうか。私が住んでいるこのボロ屋はもう少し立派で一人で使うには大きい円卓は手狭なものになっていたのだろうか。今更そのような事を考えても仕方がない。だが一つ確かなことがある。それはこんな未来は誰も望んでいなかったということだ。


真しやかに囁かれていた。あの出来事も、その後に起きた各国の内政問題噴出による世界的な混乱も大国が誘導してきたのではないかと。それは真実であったかもしれない。だがその後の結末は誰も誘導できず潰走の成れの果てだったと言える。なぜなら全ての大国は崩壊もしくは深刻な衰退に直面したからだ。誰も望まない世界がそこにあっても私達人類は闘争を続けた。そのような世界を作り上げた世界も人間も信用できず万人の万人に対する闘争が繰り広げられた。極東の海洋帝国の崩壊危機の時世界が適切な態度を取っていれば変わったのだろうか。無秩序な世界に調和を取り返すため、明けることのない調停の連鎖を繰り返してきた大衆戦線の、アレッポの自己犠牲的で悲哀な勇姿は壁に閉ざされ見えなくなったのだ。

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