五月二十八日 水曜日 午前十時〜
「じゃあ、いくね。ばいばい」
篠崎さんはずっと待っていてくれた小さな災悪に対して手を突き出し、絞り出すように体を震わせた。
彼女がひときわ大きく叫んだとき、彼女の体が昨日とは比べものにならないほど光った。そして災悪は溶けて消え去った瞬間、篠崎さんはその場に倒れこんだ。
「篠崎さん!」
僕は彼女の名前を叫びながら走り寄ったがそれは大袈裟だったと後悔する。
篠崎さんはそれは嬉しそうに頬を赤らめ、目を細めて笑っていたからだ。
しかしどんなに呼びかけてても篠崎さんからの返事はなく、顔をのぞき込んでみても、その楽しそうな瞳に僕は映っていなかった。
その上彼女は突然立ち上がり、さらに僕を困惑させた。
なにか間違ってしまったのだろうか、と戸惑う僕に見せつけるように篠崎さんは大きく翼を広げ、何回かバサバサと羽ばたかせた。
僕は篠崎さん、と声をかけるも、彼女の視線はまっすぐ空を捉え、僕の声なんて聴こえていないようだった。
ああ、と僕は一歩下がり、そしてただ空へ羽ばたき始める篠崎さんを見つめた。もはや僕にできることはなかったし、するべきでもないと思ったからだ。
ばさり、と特に大きな音を響かせたとき、篠崎さんは飛んでいた。太陽を受けて光る白髪が彼女に合わせてはらはらと舞い、それはそれは奇麗だった。
僕はそのときどうして不運な彼らを天使と呼ぶのかわかった気がした。こんな美しい姿を見たら、誰しも天使としか形容できないだろう。
篠崎さんが見えなくなるまで見送ったあと、僕は再びベンチにどっかりと座った。なんだかとっても身体が疲れていたからだ。
「これで正解だった」
そう自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
なんだか横になりたくて、上半身をベンチの硬い板の上に置いた。横になって見るといつもと違う場所のように思えて、僕は目を閉じた。
きっと篠崎さんと一緒に飛んでいくのが一番楽なのだろう。この世界は生きるのには面倒ごとが多すぎる。
でも篠崎さんは僕の本名を知らなかったし、僕も実は篠崎さんの下の名前を思い出せない__結局僕が見ていたのは篠崎さんの外側の部分だけで、彼女の内面なんて知ろうともしなかったのだ。
そんな二人が運命の相手な訳がない、ましてや僕が王子さまだなんて。
僕は篠崎さんにああ啖呵を切ったが、僕がこの先どうなるのかを考えるとおなかが痛くなった。それでも選んだ以上、選んだから、選んだ責任を果たさなければならない。
まずはごまかせるウィッグとカラコンを買いに行こう。そういえば本来なら今は授業中だった、先生にどう言い訳をしよう、今度こそ仮病をつかうか。
そんなことを考えながら僕は硬いベンチから起き上がり、勢いをつけて立ち上がった。いきなり立ち上がったからか、少しよろけてしまった。
両腕を動かしなんとかバランスをとると、今度は体の痛みに顔を歪めた。
ベンチに体を預けたから上半身が痛いのは理解できたが、なぜか両膝も痛かった。
膝の痛みといえば成長痛だが、僕はクラスだと小さいほうから数えたほうが早い人間だし、ましてやこの一瞬で背が伸びたとも考えられない。
それでも、なぜだろうか、景色が違って見えた。瞳の色が変わったからだろうか、それとも本当にこの一瞬で僕の背が伸びたのだろうか。
背が伸びて、大人に成長するためには成長痛が伴う。そう思えば心に残るうじうじとした痛みにも愛着が湧いてきた。
大丈夫、僕だって大人になれる。
「きっと、」
僕は初めてできた友達が羽ばたいて行った青い空を見上げた。
「これを青春って呼ぶんだね」
火照った身体が夏の始まりを告げていた。
「いつか思い出す天使のはなし」 さちり @sachiri22
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