五月二十八日 水曜日 午前九時五十二分〜


「なんで」


 ついに篠崎さんは僕の二の腕をつかみ、叫んだ。ぐわわんとする耳鳴りについ顔をしかめてしまう。

 それを見た篠崎さんは僕が嫌がっている顔をしていると勘違いをしたのだろうか、ごめん、と謝りながら両腕を僕から離した。それでも口は閉じなかった。


「この世界が楽しいなんて、違うよ。自分を洗脳してるだけなの。私と僕くんはとっても似ているでしょ。私もそうだったの。嫌なことがたくさんあって、それでも生きていたくて、自分なりに頑張ってみるんだよね。


 けど友達がたくさんいて、いつも笑ってる幸せそうなクラスメイトが死にたいって言うんだよね。幸せを体現したかのような笑顔でもう嫌だって言うんだよね。おまえらが不幸なら私たちはなんなんだろうね。人じゃないのかな。


 ああ、ごめん、そうじゃないの。昔はこんなこと考えてたけど、今はもう違うよ。それでも、なんだろうね、心の中に今でも昔の私がいるの。その子がこんな世界飛んでいけって言うの。ずっと言うの。だから、私はきみもそうかと思って、ねえ、だめかな?」


 そう僕をまっすぐと見つめながら言う篠崎さんに、僕は、目を背けてしまった。


 僕は篠崎さんに憧れを抱いていた。常に話題の中心にいる、僕みたいな平凡なクラスメイトでは到底届かないような、そう、まるでそれは空のような少女だからだった。

 しかし、今はどうだ。勝手にイメージを押し付けたくせに失望しているなんて非常識にも程がある。僕がとんでもないひどいやつというのはわかっていた、わかっているからこそ彼女を受け入れることなんてできやしなかった。それに、僕たちは、そこまで運命共同体になり得る関係ではない。


「篠崎さん、僕の名前知ってる?」

「え、はじめくん、でしょ」

「それはクラスメイトがつけた僕のあだ名だよ。いつも一人でいるから、『一』って」


 篠崎さんは少しポカンとしたあと、慌てて謝り始めた。彼女が言うには、昨日生物のノートをどうすればよいのか聞いたとき、「はじめに渡すんだよ」とクラスメイトに言われたらしい。


 そんな篠崎さんに、別に怒っていない、と首を振った。はじめくん、という呼び方に最初は困惑したが、今は愛着が湧き始めていた。

 初めはしゅんとうなだれていた篠崎さんだが、その瞳はいまだに諦めていなかった。

 そのぎらぎらした瞳の威圧感に負けて、僕は目を逸らしてしまった。地面を見てると、僕はどうしてもさっき思いついたことを言いたくて、どうしようもなくなってきてしまった。


 これは僕の考察なんだけど、と前置きをしてから、口を開いた。

「僕たちはみんな天使になる可能性を持っていて、その中で特に素質が高い者が天使として活躍するんだ。それで、その素質っていうのは、自分の中に抱え込んでる負の感情エネルギー__つまりネガティブな心とか、世の中を憎むようなものなんだと思う。

 災悪ってのは人の負の感情エネルギーを増加させるんだろ?災悪は人間の負の感情が好きなんだよ。


 ......篠崎さん、昔いじめられていたって言ったよね?僕も昔からひとりぼっちで、僕たちはクラスの中心の彼らのように馬鹿みたいに笑ったりはしなかっただろう。たぶん、そういうことなんだよ。

 天使は、もともともつ負の感情エネルギーが大きい人なんだよ。そして災悪に自らの負のエネルギーを送り込んで、災悪を満足させるんだ。なんで羽が生えたりするかは分からないけど、つまり、負のエネルギーがなくなったやつは用無しってことなんだよ。

 歴史か公民の授業で、昔は世の中を憎む者による凶悪犯罪があったってやったよね。それが過去の話になってるのは、そんな負の感情が強い人が天使に選ばれて、どこかへ飛んでいくからなんじゃないかな。


 ......また謝らなくちゃだね。僕もついさっきまでどこかへ飛んでいってもいいなって思ってたんだ。でも、合っているか分からないけど、あの考えを思いついたとき、なんだか馬鹿馬鹿しくなったんだ。僕は、僕はただ生きたいだけだ。

 負の感情を持たない人なんていないのに、比率が他人より多いだけで社会から見放される。それなら生きてやろうと思った。僕、高校生で反抗期だから大人の圧力に反抗したがりなんだ」


 そう篠崎さんに一方的に言い、僕は最後に息を吐いた。こんなにたくさん話したのは現代文の音読テスト以来かもしれない。それに人に向かってなにかを伝えることの苦手な僕にとってそれはテスト以上に疲れるものだった。


 少しの間のあと、篠崎さんは声を震わせながらポツリと言葉を発した。


「じゃあ、私が変わったのは後ろ向きなネガティブな感情を災悪に送り込んだから?自分で変わったりはしてないの?」

「......あくまで、僕の空想と考えて。でも僕はそう考えた」

「そっかあ」


 篠崎さんは「ははっ」と乾いた笑いをしながら、自分を納得させるようにそうつぶやいた。僕が彼女を傷つけてしまったことは明らかだったから、再び頭を下げようとしたが、篠崎さんはそれを止めた。


「もう謝らないでよ、謝りたいのはこっちだから。叫んじゃってごめんね。はじめくんの、うん、こっちの名前が私たちに合ってるよね、話を聞いたら、なんか落ち着いたんだ。私もはじめくんの言ったことが正しいような気がする。勝手に性格が明るくなるなんておかしいもん。やっぱり流行は自分で戦うお姫さまだよね。結局、いつも受け身で、なのに文句を言って。だれかが助けてくれることを願って」

「うん」


 僕は相槌をうった。決して彼女を慰めることはせず、だからといって突き放しはしないように心を込めてうなずいた。

 それが伝わったのかはわからないが、篠崎さんは僕に笑顔を見せた。


「こんなふうに言ってなんだけど、私、やっぱり飛び立つことにする」

「うん」

「はじめくんと話して、未練がなくなったって言うとおかしいかもしれないけど、なんか、ね。この世界にいる理由がなくなったんだ。でもさっきとは違う、良い意味で、理由がなくなったの。......意味わかるかな?わかんなくてもいいや」

「うん」


 すると篠崎さんは僕よりも深く長く頭を下げた。そしてとてもとても長い感謝の言葉を言った、でも彼女はもう謝らなかった。僕もそれで良いと思った。

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