五月二十八日 水曜日 午前九時四十三分〜


「あんな大きい災悪、私だって見たことなかったよ!本当にお疲れさま」

「なんか身体中の力を使った気がする」

「確かにね、たった一戦で見た目がこんなに変わっちゃうなんて」


 僕はその言葉を聞くと、背中に流れた今までの緊張感やなんやらの汗とは異なる汗がこめかみをすうっと流れたような気がした。


 すかさず篠崎さんに鏡を借り、小さな鏡面に写る見慣れた僕であって僕じゃない存在に頭がクラクラした。

 僕は完全にデメリットのことを忘れていた__日本人の代表のような黒い目も黒い髪も、全て天使に染まっていた。


「この様子だともう羽も生えてそうだね。もうすぐ飛べちゃうかも」


 篠崎さんは僕の髪の毛を見て、おそろいだね、なんてことを言いながらそう解説した。

 そんなに力を使ってしまったのかと嘆く僕に篠崎さんは人それぞれ使える天使の力は決まっているから、僕はそれが極端に少なかったのではと慰めのように言った。


 しかし問題はそこではない。僕の一番のショックは僕の普通のお手本みたいな見た目が一瞬のうちに全て特別なものに塗り替えられてしまったことだ。これが日常生活にもたらす支障を考えるだけで泣きたくなる。

 そんな弱音を篠崎さんに鏡を返しながら言うと、なぜか篠崎さんは笑った。


「じゃあさ、一緒にどこかに飛んでっちゃおうよ」


 篠崎さんは金色の瞳で僕の金色の瞳をのぞき込みながらそう言った。


「こんな面倒くさい世界なんていてもしょうがないよ。それにはじめくんはもう天使側の見た目でしょ?これからいろいろな手続きをして天使として働くの大変だと思うんだ。

 それに、言いづらいけどね、もうはじめくんに残された時間は少ないと思うんだ。だから、ね」


 そう言って篠崎さんは僕の手を握った。

 その彼女の白い手の誘惑は、僕の目にそれは魅惑的に映った。それでも、僕はその手を振り切った。


「なんで駄目なの?」

「わからないからだよ」

「わからないのは私だよ。どうして私とじゃだめなの?」

「僕にはどうして篠崎さんがそこまで僕に固執するのかわからない」

「ううん、きみじゃなきゃだめだよ」

「だってきみは私を初めて助けてくれた王子さまだもん。

 前にも言ったよね?私、お姫さまなりたくて。シンデレラのようにいつか魔法使いが助けに来てくれると思って、いじめられても頑張ってきたの。だから天使の適正があると言われたとき、すっごく嬉しかった。これで物語の主人公に、お姫様になれるって。

 でも結局なれなかった。今度はみんなを守れって言われた。私をいじめてきた人たちも、無視してきた人たちも、平等に愛せって言われた。なんでだろうね。あいつらを守ってなんになるんだろうね。


 それでもね、頑張ったよ。いつか、今度こそ王子様に会えるって。それで気づいたら羽が生えそろい始めてて、まあこんな世界飛んでいっちゃえばいいかって思ってたの。

 でも、そんなとききみが助けてくれて。私、ようやく王子さまに出会えたって、ほんとに嬉しくて。


 だから、ねえ。私今までずっと頑張ってきたから。私をハッピーエンドにさせてほしいよ」


 そんな彼女を見て、僕は伝えることがあったことを思い出した。フラフラする体をどうにか両足で支えて、篠崎さんの前に立った。

 そして、頭を下げた。


「最初に会ったとき、篠崎さんに能天気なことを言って不快な思いにされてごめんなさい。天使やってみて分かった、こんなの全然楽しくない。疲れるだけだ。

 それに、たくさん悩んでる篠崎さんに適当なことばっか言ってごめんなさい。

 僕、知ってると思うけど、友達がいなくて、しゃべるのが下手なんだ。これも不快な思いにさせてごめんなさい」


 篠崎さんはそんなこと覚えてない、全然そんなことない、いいよいいよ、と相槌をうってくれた。

 でも僕はまだ頭を上げられない。


「あと、僕、篠崎さんと一緒に行けない」


 彼女の息を呑む音が聴こえた。


「僕は行かない。大変かもしれないけどら人間としてこれからもこの世界で生きていく」


 篠崎さんの悲鳴に近いなにかを無視して、話を続ける。


「たしかにこの世界を生きるのはとてもとても大変で面倒なことだけど、なんだかんだいって、楽しんでたんだ。特別なんてならなくても、それなりに人生は良いものだと、篠崎さんと話してて思えたんだ。そういうことを教えてくれて本当にありがとう」

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