五月二十八日 水曜日 午前九時十五分〜
「篠崎さんは朝からお仕事です。しかも隣の東区に出たらしいからみんな気をつけてね」
朝の連絡の初めに先生はそう言うと、昼休みの委員会の呼び出しや五限の教科が明日の三限と入れ替わったことなどを伝えてくる。
でも僕には隣町で篠崎さんが今戦っていることしか頭に入ってこなかった。
僕なんかがこう思うことがおこがましいが、とても彼女が心配だった。
その不安はだんだん大きくなり、二限が終わったときには爆発しそうなほどになっていた。
いつもは一時間もあれば終わるのに、なんでみんな、篠崎さんの友達も先生も、誰も篠崎さんのことを心配しないのだろう。
そこで僕はある大切なことを思い出した。僕は篠崎さんに対するたくさんの無礼を謝っていないのだ。そのことを思うと、いても立ってもいられなかった。
三限の鐘が僕のスタートの合図だった。
生物の先生が教壇に立ったとき、僕はかばんを持ち、教室を飛び出していた。椅子のごたごたとした騒がしさに紛れて僕は廊下を走った。
走っていると、だんだんと冷静になっていく。といってもまた生物の授業でやらかしてしまった、だとかクラスメイトに足が遅いくせによく走るやつだと思われているかもだとかどうでもいいことだった。
でもその時の僕にとって篠崎さんのこと以外のことは全て等しくどうでもいいことだった。
走って東区まで行くことが理想だったが、マラソンの成績なんて下の下な僕には不可能に近く、大人しくバスを待ちながら息を整えた。
東区は学校のある西区よりは狭いが、だからといってすぐに見つかるとは思っていなかった。だからバス停の前でおばさんたちが立ち話をしていたことが本当に幸運だった。
大まかな場所を聞き、そこに向かって走り出す。準備運動のランニングでへとへとになる僕が、なぜか走ることができていた。
篠崎さん!と叫びながらもいつものように肺が痛くなることはなかった。走り、走り、ジャングルジムを視界の端に見つけたとき、僕はようやくおばさんたちから教えてもらった公園を見つけることができた、と息を吐いた。
太陽に反射してきらきら光る人影を見つけた瞬間、身体の緊張が解けて走れなくなってしまった。重い身体をなんとか動かし、劣化して名前が読めない状態になっている看板の近くにあった公園の入り口に入ると、篠崎さんはすぐそこにいた。
篠崎さんは災悪とにらみ合いながら大きく肩を動かしながら荒々しく呼吸をしていた。
「篠崎さん」
僕は彼女の名前を呼びながら近寄ったが、篠崎さんは僕のことを全く気づかなかった。まるで石にされたかのように動きもせずに災悪をにらむ篠崎さんになんだか僕は怖くなってしまい、彼女の腕に飛びついた。
するとようやく篠崎さんは僕の存在に気がついたらしく、うわ、と言って飛びのかれた。
自分の体を許可なく触ったことに怒られると思いきや、篠崎さんはいつかのように大きく瞳を開き、頬を赤らめながら嬉しそうに目を細めた。
僕はそれが彼女の嬉しいのサインだと知っている。
「きみにまた会えるなんて思ってなかった」
「篠崎さん、僕、きみがなかなか帰ってこないから、それなのに誰も篠崎さんのこと心配してないから」
「それはもう私がどこかへ飛んでいったと思ってるからだよ」
それを聞いてああ、と納得とともに落胆した。そんな簡単で大切なことになんで気がつかなかったのだろう。
しかし、実際彼女は飛んでいってはおらず、災悪と対峙していた。僕の行動は間違っていなかった、むしろ誇るべきもののようの思えた。
「ありがとう、きみが来なかったら、私一生災悪とにらみ合ってた」
「なんで天使の力を使わないの」
「だって」
すると篠崎さんは息を吐き、吸って、また吐いて、決心したように口を開いた。
「昨日『また明日』って言ったから。私、なんとなくわかるの。もう一回力を使えば完全に天使になって、はじめくんと二度と会えなくなる。それが本当に嫌で、私、嫌だって思って、だから力を出せなくて、」
「篠崎さん」
「なに?」
なんで篠崎さんみたいな特別な人が僕なんかをそこまで気にかけるのか、と言おうとしてやめた。それよりも目の前にいる災悪のほうが怖かったからだ。
「あの災悪ね、全然動かないの。たぶん私の一撃を待っていると思うんだけど」
「じゃあ、無害ってこと?」
「完全に判断はできないけど、今のところはね」
じゃあひとまず安心だね、と言おうとしたとき、一瞬災悪がノイズのように乱れ、それより二回りは大きい黒霧が現れ、ゆらゆらと揺れ始めた。
篠崎さんと僕は直感でその災悪の強さを感じた。それは油断していた僕たちにとってまさに最悪な状況だった。
「こんなのほっといたら被害が出ちゃう、でも、私」
そう言うと篠崎さんは右手をぐっと握りしめ、僕をかばうように立ち、手を突き出した。
「もう力がないんだよね!無理だよ!」
「じゃあどうしろっていうの!この地区に天使は私だけ!人を呼んでいる間にどうなるか考えるほうが怖い!」
その責任感は足の震えよりもつらいものなのか。これじゃまるで僕がさっき篠崎さんに話しかける前と一緒じゃないか。
それに、僕は彼女を助ける方法を知ってるし、力がある。
「いいよ、篠崎さん。あの災悪は僕が片付ける。だからきみはあの無害そうなやつを見張ってて」
正しいやり方なんて知らなかったから、篠崎さんのまねをして両手を突き出した。もちろんそのままではなにも起きるはずもなく、僕は力の湧き出そうなことを考え始めた。
とにかく篠崎さんを守ることを考えた。僕なんかがまるで騎士のように彼女を守るというのも失礼な気がしてきたが、これは緊急事態だと自分に言い聞かせた。
そうだ、僕みたいな平凡以下の人間が、特別で、手の届かない篠崎さんという存在を守れるんだ。それができるのは僕だけで、なんだか僕もトクベツになれる気がして、ああ、また頭が痛くなってきた。
鋭い痛みに反射的に両眼を細め、それでも今回は予想できていたから、現実を目の前で確認することができた。自分の手のひらから光が出て、災悪へと向かっていった。災悪はむしろその光を自ら浴びにいっているようだった。
しかし軽い僕の力では満足できないらしく、僕はずっと光を放った。あれだけ恐れていた災悪でもずっと対峙してればだんだんと冷静になってくる。
そういえば、僕は、特別に憧れていた。適正試験を受けたときはなんだかんだいって今よりポジティブだったから、今は友達がいなくても、僕にはまだ知られていない才能があるだの考えていた。それは篠崎さんとは反対の立場だったが、でも逆にいうと違ったのはそれだけだということだ。
僕と篠崎さんの共通点を探すために過去を回想する。彼女は昔いじめられていたと言っていた。かく言う僕も昔から今現在まで友達という友達ができたことがなく、いまだにアプリケーションアプリにある連絡先は家族だけだ。
いじめられてはいなかったが、幼い頃から下しか見ない暗い少年だったことは確かだ。いじめられていなかったから、篠崎さんのように飛んでいっちゃいたいほど現状に不満をもっていなかった。
それにもう一つ。災悪と戦ってからなんだか自分が変わった気がする。自信がどこからか湧いてきたのか、今日の通学路なんて無意識に前を向いて歩いていた。それにもともとの自分なら篠崎さんと一対一で話すこともできなかっただろう。篠崎さんを探すために授業をサボるなんてことも考えたことのないくらい大胆なことだ。
じゃあ、もしそれらが天使の力と関わりがあったら?災悪に向かって力を放つたび僕の中のなにかが変わっていくなら?それなら、もしかして、
「はじめくん!」
腕に受けた衝撃に僕は思考の世界から現実へと引き戻された。見ると篠崎さんが高い声を出してはしゃぎながら僕の突き出した腕に飛びついている。
急な彼女のアプローチにとにかく驚いた僕は彼女を引き剥がし、距離をとった。
「やった!やったよ!本当にありがとう!」
その言葉を聞いて、僕はあの有害そうな災悪を倒したことを理解する。そしてそれを認識した瞬間、どっと体に疲労感があふれて、たまらず近くのベンチに座り込んだ。
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