五月二十九日 火曜日 午後四時二十五分〜


「まずは、ありがとうございました」

「うん」

「次は、んー、ちょっと待って。まだ質問がまとまらないや」

「ねえ」


 僕は篠崎さんから借りたコンパクトミラーの中に映る自分から目を逸らし、彼女に問いかけた。


「瞳の色ほんとに変わってない?」


 すると彼女はぶんぶんと細い髪の毛が頬に張り付く勢いで頭を横に振った。それがお世辞ではないことはわかってはいたが、一度意識し始めると、鏡の中の僕の瞳の色素が少し落ちた気がしてならない。


「たった一回じゃ全然変わらないよ。さすがに十回を超えるとわかってくるけどね」

「僕、本当に天使の力を使ったの」


 それは篠崎さんに対する疑問なのか自分への確認のための独り言なのかはよくわからなかった。しかし彼女の語るその状況を切り抜けたという状況と事実、そしてこの身にずっしりと残る倦怠感。


「でも、僕、検査では適正がないって言われた。あの検査だって、変な部屋に閉じ込められて、なんか嫌な気持ちにさせられただけだったのに」

「きみ、あの検査の内容覚えているの?」

「覚えているって、そりゃまぁ」

「それ天使の条件だよ。適性がない人はその場のことなんて覚えていられない。でも、天使はそこで力が出現しで、そこで初めて天使と言われるの。きみは、そこで力を使わなかっただけで、天使の素質があったんだよ」


 きみは天使だと、特別だと、憧れていた人気者の少女から見つめられながら言われた。


 なんて返すべきかわからなくて、借りていたコンパクトミラーを彼女に渡した。僕の手が震えていることに気づかれるのが嫌で、僕の口は適当なことを紡ぎ出した。


「天使の適正検査ってなにしたんだろ。力を出現することができるって技術で可能なんだね」

「確か箱の中に生け捕りにした災悪のかけらを置いてあるらしくて。それの拒絶反応っていうのかな?それで出現するらしいよ」

「え、じゃあ僕、災悪と会ってたの?あの時」

「そうなっちゃうね」


 篠崎さんはたくさん災悪と戦ってきたからそう涼しい顔で言うが、災悪のことを抗いようのない災害のように考える僕にとっては結構怖いことのように思えた。

 たぶんそれは他の大勢の人も同じだ。

 そのことを公表したら自分の子を適正検査にうけさせない親がたくさん出てくるようになるだろう。ただでさえ世界平和と我が子の幸せを天秤にかけられなくて逃げる人だっているのに。


 これ言っちゃ駄目だった気がする、とつぶやく篠崎さんにもう誰にも言わないほうが良いよとアドバイスをする。


「それで、きみ、これからどうする?私と一緒に研究室に行く?」

「行かなくちゃ、だろ」

「別にどっちでもいいよ」


 その言葉は僕にとってとても意外だった。天使の力を使える人材が一人確保できたなら、すぐに戦力の一つとして働かされると思っていたからだ。


「だって、天使になったから忙しいし、それに、最後はどこかへ飛んでっちゃうんだよ。そんなこと強制できない。たった一回力を使ったくらいじゃ人間としてこれから生きていけると思うし」

「嫌なの?」


 え、と篠崎さんは僕の質問の意図が理解できなかったようにそう返した。篠崎さんが僕を気遣ってくれていることは分かったが、それよりも篠崎さんの言葉に違和感を覚えた。


「いや、なんか、天使として生きるの嫌なのかなぁって。ネガティブなこと言うから」


 僕はそう言いながらネットニュースで見た先輩天使たちのことを思い出していた。

 山田煌羅璃(きらり)さんは天使の仕事を自分にしかできない、唯一無二の誇らしいものとインタビューに語っていた。

 渡辺洋さんも幼い妹を守ることができるのが嬉しいと語っていた。

 それはメディアのための盛られたものであることは確かであったが、少なくとも二人ともやりがいと誇りを持っていたようだった。


 僕たち一般人にとって天使とは憧れだ。もちろん、篠崎さんも憧れの対象で、彼女の瞳がいつも輝いていたのはその色素の抜けた色だからではないだろう。

 僕はそんな天使である篠崎さんがそんなことを言う意味が理解できなかった。


「私は別に嫌だとは考えていない。でもみんながみんなそうとは限らないでしょ」

「最後にはどこかへ飛んでいってしまうのに?」

「それがいいんじゃない」


 篠崎さんは唇をいびつに歪ませたながらそう言った。まるで吐き捨てるかのような彼女の態度に僕はこれ以上踏み込むべきではないと考えた、気にはなってしまったが。

 そんな僕の視線に気がついたのだろうか、篠崎さんは再び口を開いた。


「私、いじめられていたの。もともと人付き合いも苦手だったし。だから天使の素質があると知ったとき、すごく喜んだんだ。もう学校に来なくてすむ、いつかどこかへ飛んでいけるって」


 ......何を言えばいいのか、コミュニケーションの経験値が少ない僕にはわからなかった。

 僕が困っているのを察してか、篠崎さんは「こんなこと言ってもどうしようもないよね」と謝った。そんなことないと僕が首を振ると、今度は礼を言われた。


 少しの沈黙のあと、篠崎さんはどこか遠くを見つめながら口を開いた。


「私ね、かっこいい、よりもかわいいって言われたいの」


 僕にはその二つの言葉に大きな差があるように思えなかったから、篠崎さんはかわいいよ、と取り敢えず言ってみた。すると彼女は変わらず前を向きながら僕に少し適当にありがと、と返した。


「ごめん、僕にはどちらも褒め言葉のように思えるんだけど」

「王子さまじゃなくて、お姫さまになりたかった」


 篠崎さんは今度は僕のほうを向いて、僕の目を見て、そう言った。


「昔から、それこそ小さな女の子が読むようなおとぎ話が好きでね。そこに出てくるお姫様はね、いろんな困難を乗り越えて必ず王子様と結ばれるの。私、王子様と出会いたかった。守ってくれる、王子様がほしかった」

「最近のお姫様のはやりは自ら運命を切り開くようなやつじゃなかった?王子様なんていらないって」

「じゃあ私、時代遅れだね」


 正直僕の皮肉めいた返しに篠崎さんは怒ると思っていたから、そんなふうに自嘲する彼女に対してかけるべき言葉が分からなかった。


「受け身でいたから、ずっといじめられていたのかもね」


 彼女はそうつぶやくと、それをかき消すかのように大きく伸びをし、その反動でベンチから立ち上がった。

 僕もつられて立ち上がると、篠崎さんから手を差し伸べられた。


「なんかいろいろ話したらスッキリした!ありがと!」

「こちらこそ、面倒見てくれてありがとう」


 僕は数回右手のひらをズボンで拭い、彼女の白い手を軽く握ると、何倍もの力で握り返された。

 僕はその時、背は大して変わらないのに手を大きさは僕の圧勝だなとか、意外と体温高いんだなとか、結構気持ち悪いことを考えていた。

 頭の中の煩悩を追い出すためにできるだけゆっくり優しく手を離し、口を開いた。


「また明日」


 すると篠崎さんは大きく瞳を開き、頬を赤らめながら嬉しそうに目を細めてふふっと笑った。


「また明日なんて久しぶりに言ってもらった!ちょー嬉しい!また明日!」


 そう言って走り去る篠崎さんの揺れる白髪を見て、先程見た小さな背中から生えた立派な翼を思い出した。

 僕が何気なく言った言葉は、呪いの言葉だったのかもしれない。


 結局次の日、篠崎さんにおはようは言えなかった。

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