五月二十八日 火曜日 午後四時十分〜


 それからはもう、散々だったとしか言い様がなかった。


 結局僕は生物教室で固まったまま、自分が今学校にいることを思い出したのは次の授業の始まるチャイムを聴いてからだった。


 僕は走った。この前の五十メートルの計測なんかと比べ物にならないくらい足を動かせた。

 そしてあろうことか教室の前方の扉を開けた__自分の席が前のほうにあり、いつもこっちの扉を使っていたから。


 英語教師は英語を混じえながらで僕を軽くたしなめ、席につくことを促した。クラスメイトからの痛い視線を感じ、僕はようやく冷静になることができた。


 そうだ、別にこんな思いをしてまでこの授業に出る必要はなかったのだ。きっと出席確認のときだって僕の不在に気づいていないか、保健室に行ったとでも思われたのだろう。

 それなら仮病でも使って退屈な英語の授業なんてサボってしまえば良かった。教科書の何ページを開けば良いのか分からない僕は、白紙のノートに日付を書きながらそんなことを考えていた。


 結局今日の授業の内容は分からずじまい、隣の人とのペアワークがなくて良かった。バス停への道を独りで歩いていると、手持ち無沙汰だからかさまざまなことを考えてしまう。

 それはもっぱら学校生活の後悔や反省、といっても改善はされておらず毎日同じようなことを考えてはため息をついている。前を向くのもおっくうで、だから僕は目の前にいる少女にぶつかるまで気がつかなった。


 誰かにぶつかってしまったことを知った僕はいつものように相手に聞こえてるかわからない謝罪を言おうとした。

 しかし彼女のうめき声に、威張る太陽の光を涼やかに受ける髪の毛に、その言葉は喉の奥へ引っ込んでしまった。


 篠崎さんだ、篠崎さんが僕の目の前にいた。彼女が僕のほうを振り向く。背筋のピンと伸びた篠崎さんは僕と大して身長差がなかった。


「あ、はじめくんだ」


 僕はその時頭が真っ白になっていた。そしてトゥードゥーが僕の頭を侵食した。トゥードゥーは、不定詞で、するべきことで。今、僕はぶつかってしまったことと、生物教室での無礼をわびることをするべきで。


 強く思っても言葉は喉の奥に引きこもって出てこない。このままでは篠崎さんは僕の印象をもっと悪くしてどこかへ行ってしまう。しかし僕の焦りとは無縁のように彼女は立ち去ろうとはしなかった。


「もう、なんで!」


 目の前が再び真っ白になった。ああ、ええと、違う、これは比喩じゃなくて本当に視界が白で染まったんだ。


 それらが羽毛だと理解できたのは十秒後だった。

 冬布団とは比べられないくらい、一枚一枚が奇麗で立派だった、なんてどうでもいいことを考えてしまった。それくらいパニックで、その羽が天使である篠崎さんのものであることに気づくにはもう三十秒必要だった。


「災悪!散れ!」


 篠崎さんは黒いモヤモヤとした霧に対して両の手のひらを突き出し、叫んだ。

 瞬間、彼女の身体が光に包まれ、放たれたまばゆい光が霧へと飛んでいってた。黒いモヤモヤはその光を受けひるんだように霧散したが、それも一瞬、再び雲のような元の形に戻っていく。

 それを見て僕以上に動揺したのは篠崎さんだった。後ろ姿からでも分かるほど彼女は苛立ち、聞き取れないくらい小さな声で何回か言葉を吐き出した。

 そして先ほどと同じモーションで光を放つが、その攻撃も決定打にはなっていない。


 首筋に汗を垂らし、肩で息をする篠崎さんを見て僕は以前調べた天使についてのまとめサイトの文章を思い出す。『天使の力は侵食度が上がるにつれてだんだん弱まっていくらしく、羽が生えそろうころには搾りかすのような力しか残っていないようです』。

 彼女の背中には立派な翼が生えており、そして災悪であろう黒い霧に対して苛立つほどの苦戦。


 まとめサイトなんか、と信頼していなかったが、この記述が正しいことは明らかだった。そんなことを下を向いて考え込んでいたから、僕は現在の戦況、危ない状況のことを忘れてしまっていた。

 次に自分が災悪という存在と向き合っていることを思い出したのは篠崎さんの悲鳴に近い叫び声だった。


「逃げてっ!」


 えっと、何から逃げれば、良いんだっけ。

 目の前には黒い、それこそブラックホールを思わせる漆黒のなにかがいた。


 災悪が、目の前にいた。

 災悪の触手のような黒い霧が僕を包もうとする。この触手に捕まったら、感情を失い、廃人と化すとあのサイトには書いてあった。


 視界が黒に染まる中、僕はそのサイトの簡素すぎる解説と、篠崎さんの前でこのような失態をさらすことの恥ずかしさを思った。


 特別な彼女にとって僕みたいなどうでもいい石ころは一眠りもすれば忘れてしまうだろうが、それでも、悔しかった。できることなら、彼女を守り、誇れる自分でありたかった。RPGの勇者に、いや、勇者なんて贅沢な役じゃなくても、世界を救うパーティーの一員にでもなってみたかった。

 それがこのザマだ、チュートリアルで敵の力を示すために作られた、感情移入もクソもないモブ以下の存在だ。


 それでももし、変われるチャンスがあるなら、ねぇ神サマ、今なんじゃない?どこにでもいる平凡な僕を、特別な何かにするときだよ。ほら、早く__


「痛いっ」


 結局覚えているのはその時の鋭い脳への痛みと例えようのない疲労感、倦怠感。そして篠崎さんがその大きな瞳を何倍にも開けて僕を凝視していることだった。

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