五月二十八日 火曜日 午前十時五十三分〜


「課題のノート集めまーす!あと一分したら持っていきまーす!」


 そう言うとクラスの人はいそいそとノートを探し始めた。早すぎるだのなんだの愚痴が聞こえるが気にしない、一番休み時間を犠牲にしているのは僕なんだから。


 脅しが効いたのか目の前にはあっという間にノートの山ができていた。特に重くもないそれらを次の授業に間に合うようにそこそこ遠い生物教室へ持っていく。

 時間が気になって早歩きを頑張ったが、生物教室の時計は教室のそれよりほとんど動いていなかった。


 安堵のため息とともに休憩のため壁に寄りかかる。次の授業の英語は予習しなくても大丈夫だった気がするが、それでも早く行って損はないと思った僕は教室を出ようと扉に手をかけた。

 ちょうどその時、誰かが同じく教室の扉を開けた。目の前で急に予想外のことが起きたので少し飛び上がってしまう。しかし扉を開けた誰かさんへの怒りはすぐに消えてしまった。


「はじめくん、だよね」


 僕は高すぎずも低すぎずもない心地よい声に戸惑いながらもうなずいた。


「生物の課題ノートはあなたに渡せばいいって聞いたんだけど」

「あ、う、うん。僕が回収した、から」

「良かった。あなたどこにも居なくて、もう先生に出しに行っちゃったと思った。...結局生物教室まで来ちゃったんだけどね」


 そ、そうだね、とかよくわからない返事を彼女に聞こえるかどうかの小ささで声に出す。薄暗い教室でも彼女の瞳と髪は何かを反射してきらめいていた。

 信じられないが、僕の目の前に篠崎さんがいた。それだけではなく、僕に話しかけた。特別な、篠崎さんが普通な僕に。夢だと思った。


「あ、やば。名前書き忘れちゃった。どうしよう」


 僕はその言葉に予想以上に反応してしまった。それは彼女が二回も話しかけてきたことに加え、ちょうど僕の胸ポケットにペンが入っているからだ。


「ペン、使う?」

「使わせてもらう!ありがとう」


 篠崎さんが僕の震える手に気づいていたらどうしよう。もちろん彼女にペンを差し出すという行為にも緊張したが、その黄金の瞳に見つめられたとき、その汚れなき宝石に僕のような異物が映ったとき、どうしようもなく手が震えてしまった。


 篠崎さんは僕愛用の0.3の黒ボールペンで彼女の名前を書き始めた。しかしなぜかノートの表紙に彼女の名前は写らない。


「あ!ごめん、そのペン、インクないかも」


 そう謝ると、彼女は「いいよ、これしかないし、名前ないほうがまずいし」とそのまま名前を書くことを続けた。何回か線を行ったり来たりすることでなんとか一画現れた。篠崎という名字の画数は意外と多く、ある程度の時間がかかることが予想された。


 僕はこの手の気まずさに弱い。何回か言葉をかわした顔見知りの人と二人きりになるととても居心地が悪く、逃げ出したくなる。

 だからといって何か話しかけようと思っても、人との会話が不得手な僕の口から出てくるものは、それはもうひどいものだ。

 ほんの数分なら黙っていれば良いものの、やはり僕には何か話さないとやってられなかった。


「えと、し、篠崎さんって、天使、なんだよね?」

「うん、そうだよ」

「へ、へぇー」


 これで会話終了?たまったもんじゃない。間を埋めるならこの数秒の会話を何百回もする必要がある。もっと、もっと長く話さなくては。


「あの、なんかさ、天使ってかっこいいよね」

「ありがと」

「ぼ、僕ね、篠崎さん個人もかっこいいと思っててね、だから天使なのかな」

「かっこいいから天使なら、私はクラスメイトのみんなが天使だと思うな。みんなそれぞれ私にはない特技をもっててさ」


 その一文に篠崎さんが人気の訳が詰まっていた。こんな百二十点満点の回答にどう返せばいいのだろうか、僕は口を閉じた。


 沈黙の気まずさが頂点に達して死にたくなる。今叫んで教室から飛び出したらどれだけ楽になるだろうか。

 しかしそんなことをするような度胸が僕にないことは僕が一番わかっている。篠崎さんは名字を書き終わったらしく、名前を書き始めていた。


「いいなあ、天使。僕もなってみたいな」

「なんで?」


 篠崎さんはこちらを見ずにそう返した。その返事の早さは前のものと比べ物にならないほどだった。嫌な汗が背中をつたう。

 それでも僕は篠崎さんの質問に答えるためにもう一度口を開かなければなるなかった。


「だ、だって、篠崎さん、明るくて、楽しくて、世界を救っていて、人気者で。みんなからも慕われてて、僕なんかと全然違うから」

「ふぅん。なら、なってみる?」


 篠崎さんの黄金の瞳が僕を射抜く。その冷たい輝きに吸い込まれそうになった僕は微動だにできなかった。そんな僕の事情を知らない篠崎さんは「ありがと」と僕の目の前にペンを置き、生物教室から出て行った。


 天使は何万人に一人の、僕なんかじゃ手の届かない特別な存在。小市民がテレビの中で笑う華やかなタレントに憧れることの何が間違っているのだろう。

 そんな言い訳を心の中でしてため息を一つつく。人と関わることが苦手な僕でも、彼女の逆鱗に触れてしまったことは明らかだった。

 いまだに脳裏にこびりついている金色が僕をずっと責めていた。

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