「いつか思い出す天使のはなし」

さちり

 五月二十八日 火曜日 午前十時三十分〜


 嫌いというわけではない。だからと言ってこの眠気がどこかに行ってしまうわけでもない。普通の授業だから、普通の僕は、この三時間目の生物の授業を退屈に感じてしまうのだ。

 今黒板に書かれているDNAのらせんだって、生き物に興味がある人にとっては必ず覚えなくてはいけないものだ。でも将来のことなんて全く考えていない僕なんかにはそれなただの赤と青の線が絡まったものにしか見えない。


 ああ、そうだね、確かにそうだ。将来何をしたいか見つからない僕は、何事にも興味関心を持って接することが大切だ。それに万が一生き物の構造とかに興味を持ったときのために不必要だって切り捨てることは良くない。

 でもそれは理想的なそれであって、落ちていくまぶたには逆らえない。

 先生が振り向き、黒板ではなく僕たちのほうを見る。なんでわかるかというと、そうやって寝るな、と怒られたことが何回かあるからだ。


 わかってはいても眠いもんは眠い、たまたま席が前のほうにあるだけでこんな仕打ちがあるか?一番後ろの山田なんかいつも寝ているぞ、そんな言い訳を自分にして、


「篠崎、仕事だ」


 初老の先生が行う生物の授業と明らかに違う若いハキハキとした男性の声が響いた。その異物に僕の眠気はふっとんだ。


「はい」


 篠崎、と呼ばれた少女は僕の斜め前の席から立ち上がった。背筋をピンと伸ばす彼女は生物の授業に眠気なんて感じたことがないのだろう。急いでいたからか片付けなかった彼女のノートには先生が言った細かなポイントが色ペンでまとめられていた。


 僕なんかと違ってどれだけ寝てもとれないくまなんてないのだろうと彼女の横顔をのぞき見る。そこで僕は誤ちに気づいた。

 彼女の端正な顔にくまなんてあるはずがないことはもちろん、違うそんな小さなことじゃない。篠崎は男に呼ばれて教室を出る瞬間、ちらりとDNAのらせん図を見た。彼女にはあの絡まった毛糸をどのように見るのだろう。

 きっと普通の僕なんかじゃ思いもよらない見方をしているのだ。だって僕みたいな真っ黒な瞳に映る世界と、特別な彼女の黄金の瞳に映る世界が同じなわけない。


 日本人のお手本みたいな僕の黒髪とは違い、彼女の髪は絹のような光り輝く白髪だ。そのうち翼が生えてくるという。数万人に一人の逸材、それが篠崎で。彼女は世界から愛された天使なのだ。


 残念ながらこの世界には僕たち人間には逆らえないものがいくつかある。自然の力とか、お金の力とか、生まれ持ってきたものとか。そしてその一つが災悪というものだ。奴らはある日人間の負の感情を増幅されるために現れた。その行動にたぶん意味なんてなくて、ただの自然現象と同じなんだと思う。

 人間が負の感情を抱えなくなれば災悪なんていなくなるのだろうが、そんなの薬をキメてハッピーになることしか解決策がない。災悪とは予定調和なのだ。だから人間は奴らをあくまで対処する方法を探した。


 人間の不満を抑えるなんて無理に近いから社会の改革は行われなかった。いや、もっと大きな理由があったからであろう。

 人間は特効薬を見つけたのだ。それが天使。災悪が現れた日から世界各地で発見されていた。

 天使はその力をもって災悪の行動をストップできる。それが先天性なのか後天性なのかはわからなく、十歳の時に行われる全国民検診で天使としての素質が認められる。

 僕はよくわからない部屋に閉じ込められて、嫌な気持ちにさせられて、ただ不適合の紙切れが渡されただけだ。

 そのときはちょっとだけ天使という特別な存在に憧れてもいたけれど、それは眼鏡に憧れる幼い子供と同じようなものだった。


 天使には覆せないデメリットがある。天使になる、のだ。彼らはもちろんもとは身体のなかに天使の力を宿す人間で、災悪に対して力をふるうことでだんだんと人間の部分が侵食されていく。

 初めは瞳。もとの色に関係なく、透き通った黄金になっていく。そして髪の毛が真っ白に染まっていく。白髪ではなく、白い髪の毛なのだ。最後に背中に羽が生えてくる。この世の鳥類とは比べ物にならない純白の大きな翼。そしてある日その翼を使ってどこかへ飛んでいってしまうらしい。


 このように天使に選ばれた、天使と言われた人たちはいつかこの世界から離れて二度と会えなくなってしまう。

 初めは天使たちは首都に集められたが、それでは徴兵と違わないという世界中の天使の家族たちによる抗議で、天使たちはそのままの生活を行うことが可能になっている。

 だから僕みたいな普通の高校生でも天使である篠崎さんを見ることができるのだ。クラスメイトである篠崎さんは、入学したときからその黄金の瞳、天使であることで皆から一目置かれた存在だった。

 さらに彼女は容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、さらにフレンドリーで優しいというハイパー人間で。


 二年に上がるとき、僕は偶然にも彼女と同じクラスになれた。いつの間にか斜め前の席の彼女の髪の毛は全て白髪になっていた。

 天使として力を使えるのはせいぜい高校生まで、たいていは十八になる前に羽が生えきってしまい、飛んでいく。

 ネットで見たそんなことを彼女のきらきらと反射する髪の毛を見るたびに思い出す。腰まで伸ばした細いしなやかな髪の毛は全て白に染まっている。もう羽が生え始めているのかもしれない。もしそうならあと一年だけであろう。僕がこうやって彼女を見つめることができるのは。


「きみ、今日はぐっすりだったねぇ。みんなの課題ノート集めておいてね」

「僕ですか」

「手伝ってくれたら今日の居眠りは帳消しにしてあげる」


 そう脅されたので、僕は大げさにため息をついて、椅子から立ち上がった。課題はきちんとやっているが、授業の平常点を下げられてはたまったもんじゃない。

 それに先生に目をつけられたくもない__もう遅い気もするが。次の授業まであと五分あるし、次は移動教室ではない。先生に良いところを見せるためにも、と僕は黒板の前に立ち自分のノートを大きく振った。

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