モンマルトルの白

ちょっぴい

「モンマルトルの白」

 二年前終結した第二次大戦の戦火を奇跡的に免れたパリ、その郊外の夕暮れ迫る豪奢な邸宅で絵筆をとる初老を迎えた一人の画家。アトリエの窓の向こうには実りを迎えた麦畑の黄金色が遥か遠くの緑の山並みまで続いているが、彼のキャンバスには抜けるような青空のもと白壁の連なる家々。今は誰もいないその街路に赤、群青、緑に黄色、どぎつい色彩で軒先の看板や窓から下がる鉢植えのゼラニウムを描き加え、更に戦後の平和を謳歌するような金銀のスパンコールが煌めくドレスを纏い日除けのパラソルをかざす腰骨の張った夫人たちを、投げやりな、擦り付けるような筆使いで描き入れる。パレットの上に居心地悪そうに控えめに広がる白の絵の具は油で溶かれたまま。

「私の白はほんとうにこの色なのか?」

つぶやきながらイーゼルの傍らのテーブルに乗る赤ワインのボトルに手を延ばしそのまま口元に運ぶ。ボルドーの上物のようだが、彼にはパレットの白と同じで違いが分からない。

 「ねえあなた、今日の作品の出来映えはいかがかしら?」

鉄格子の向こうで妻だというふくよかな女性が、ビロード地に金糸で花模様の描かれたダークグリーンのドレス姿で微笑む。彼女の背景のドア沿いで山高帽を両手に持つ髭面の小男が、身体つき同様の下卑た追従笑いを浮かべている。

「今回はトレド―ルさんの番なの」

画家が無言で顎をしゃくった先の壁に、今イーゼルに載っている絵とさして変わりない街並みとカラフルなご婦人たちが立て掛けられている。妻という女がカチャンと音を立て鍵を外すと、トレド―ルと呼ばれた小男が素早くこちらに身を滑らせて、脇目も振らずお目当てのキャンバスを向う側の世界へと回収していった。

 「お疲れ様。何か必要なものはあるかしら?」

傍らにしゃがみ込んでサテン地の黄色い袋で絵を覆う作業に没頭する画商に一瞥をくれ、妻という女は満面の笑み。

「酒を」

「困ったわね。先生からは一日三本以内と言われているんだけど。しょうがないわね。メイドに持ってこさせるわ。描かない時は飲まずに眠るのもいいかもしれないわよ。モーリス、あなたには長生きして欲しいもの」

女が白粉にまみれ脂肪で膨れ上がった頬に人差し指を充て首をわずかに傾けると、耳朶から下がった大きなエメラルドが夕陽を跳ね返して、曇りがちな画家の視界を幻惑する。

「絵の具を、白の絵の具を」

「下塗り用の白と、あといつもの絵の具をたっぷりお持ちしいたしましたよ。先生」

梱包を終え金づるの詰まった大きな布袋を大事そうに胸に抱え込んだ画商の、さながらサテンの掛かった台に置かれた生首がこちらを向いて喋っている。バ~ン!画家がテーブルを激しく掌で叩く。

「下塗りに使う白ではない!私の白だ。私がモンマルトルを描く白の絵の具を今すぐここへ!」

思わず飛び上がった画商の目をつぶった生首が黄色いサテンの向こうに転がり落ちそうだ。女が小男の背にそっと手をやり目配せをする。

「モーリス、あなた少し疲れているようよ。おいしいお酒を飲んでしばらく眠るといいわ。ちょうどもうすぐ夜になる。良い夢を……」

言い終える前にドレスの裾をふわりと翻し、妻という女は宝物の駄作を離すものかと抱いた男を引き連れて、画家の視界から消えていった。

 ガッシャーン!我が身を狂わす幻影たちに投げつけた酒瓶が鉄格子に阻まれて激しい音を立てる。夕陽にキラキラと輝く砕け散ったガラスの細片の向こう、既に閉じられたマホガニー製のドアは微動だにしない。画家の行動範囲の限界を嘲笑うかのように立ちはだかる扉から目を逸らすと、レンガ色のクロスが貼られた壁に、額装され真紅のリボンに吊り下がる琺瑯製の白い星型バッジ。レジオンドヌール勲章と呼ばれ、いつぞや画家の胸にかけられたものだ。フランスの市井人にとって最高の栄誉の証しを目にしても、檻の中の画家の暗く沈んだ気が晴れることはない。

「あの白とも違う。あんな光沢つやめく白はただの虚飾。私の白はどこに行ったのか?いやどこに忘れてきてしまったのか?」

         *

 世紀末にまた一年近づいた新年を祝う花火が上がり喧騒の残る深更のモンマルトルの白いアパルトマンのドアの向こうに、背景の暗闇との境目が見えづらい群青のドレスに身を包んだ一人の若い女が乳飲み子を抱え、白い息を立ち昇らせ鼻を紅く腫らせて佇んでいた。

「ねえミゲル。この子イエス様に一日なり損ねたけど先週生れたの。あなたの息子よ」

「シュザンヌ、何を藪から棒に」

暖かい室内の灯を背に“善人”という言葉がぴったりくるスペイン人の画家は、両手を頭に載せる。

「オーギュストにもエドガーにも断られたの。お願い!この子をあなたの戸籍に入れてやって。ウィとだけ言ってくれれば、後の面倒はかけないわ」

深緑の瞳を不安気に揺らめかせる群青の女の荒唐無稽かつ彼にとって屈辱的とも言える申し条にも、ナイトガウンにくるまった”善人”はドアを閉めることが出来ない。打ち上げ忘れの花火が、何かの合図のようにボ~ンと間の抜けた破裂音を立てた。

「そうか、坊やなのかい?」

男の部屋に招き入れられ、紅みの戻った女の頬が縦に一つ揺れる。母親と同じ色の瞳をパッチリと開いた赤ん坊の顔を、鳶色の眼をした男が覗き込み一つ溜め息を吐いた。

「僕じゃない誰が父親だろうと坊や、君には天賦の才が授けられているだろうね。シュザンヌ、この子を画家に育てるのかい?」

今度は女の紅い頬が左右に数回振られる。

「育てる?私この子を育てる気なんてないわ。私にはもっと大事なやるべきことがあるの。そう私が画家になるのよ。この子はあなたの戸籍に入れてもらったら、母に預けるつもり。私も母の私生児よ。二人目も巧く育ててくれるでしょ」

呆れ顔の”善人”はそれでもこの赤ん坊に自分の姓を名乗らせることを肯った。

「坊やに名前を付けてあげなきゃね」

「それならもう決まってる。モーリスよ」

女が中空にその綴りを指で走らせる。ボ~ン!また一つ不躾な花火が弾けた。

「モーリス……」

         *

 “善人”の父の姓をもらいモーリス・ユトリロとなった赤ん坊はほどなく彼の祖母に預けられた。やがて幼児期を迎え疳が強く激しくダダをこねる孫に手を焼いた祖母は、キッチンの頭上の棚から一本のガラス瓶を取り出し、自らも愛飲する血の色をした液体を孫の縁の欠けたマグにトクトクと注いだ。

「モーリスやこれを飲んでみなさい。どんなお菓子よりお前を気分よくしてくれるはずさ」

五歳のモーリスは肩を上下させべそをかきながらも、祖母が差し出したマグを両手で抱え込むようにして口元に近づける。見たこともないルビー色の揺らめく液面から立ち昇る気体が彼の眼と鼻をくすぐる。

「いっぺんに飲んじゃだめよ。すこ~しずつ口の中に含んで、舌で掻き混ぜるようにして」

祖母が顔つきで示したのを真似てモーリスが下顎を一周させ顔を顰める。

「おばあちゃん、これ変な味」

「我慢して呑み込んでごらんな」

コクりと呑み下した途端、身体の奥底でポッと灯が燈ったように感じたかと思うと、その場所からじんわりと温かなものが頭の天辺へ、指先へ、つま先へと行き渡り、それでも余ったそれは熱い吐息となって口から漏れ出していった。そしてもう一口、二口。両足が床から離れ身体が浮き上がっていくような高揚感。あと一口飲めば空を飛べるとばかり、モーリスは空になったマグを祖母に差し出した。

「さすがはうちの血筋。父親が誰だろうとシュザンヌもお前もこれとの相性は良さそうじゃな」

祖母の笑顔が歪んで横倒しになっていく。モーリスを終生裏切らない友であり、そして究極の悪魔たる酒との早過ぎる出遭いだったのである。

         *

 丘の上の巨大な白亜のドームと鐘楼がオレンジ色のベールに包まれ始める。サクレクールが身の純潔をかなぐり捨て、一日に一度その本性を剥き出しにして堂に納められた己の心臓を激しく鼓動させる瞬間が訪れる。もうしばらくすれば夜がもたらす闇色がモンマルトルの街並みの白を覆いつくすことだろう。この街で生れ育った呑んだくれの画家もまたキャンバスを降ろしたイーゼルを畳み、画家の看板を降ろしてただの呑んだくれになる。間もなく実際の視界から消える彼の愛する白が、夜も息づくキャンバスの上に己を溶け込ませるために。


 祖母が軽い気持ちで与えたアルコールの魔力は、常識や分別を弁える前の無垢の少年モーリスの身も心も容赦なく蝕み、早くも十代半ばで学校に酒を持ち込むまでとなり措置入院。これにはさすがに慌てた母シュザンヌがアルコールに変わる手慰みとして絵筆をモーリスに与えた。それでも既に画家として頭角を表しつつあった母は自らの画作と当時の恋人との生活を優先し、傷心の息子を退院後も手元に引き取ろうとせず、絵の手ほどきも僅かな金で知人に委ねた。息子の絵の腕前はめきめきと向上し母の考えの正しさを証明したが、母の愛情に渇き切った彼の心を満たすものはやはり酒だけだった。


 「よお~、モーリス。今日はお天道様もご機嫌だったから、いい絵が描けたんじゃねえか?」

丘を下る急な石畳には色づき始めたマロニエがズラリと並んで秋のそよ風に葉を鳴らし、その最後の一本を過ぎた坂の終い近くにこじんまりと建つ白い二階家の酒場ラパンアジル。硝子戸が引かれカウベルがコロンと鳴ると、ホールに吹き込む心地よい風とともに袖の擦り切れたこの季節着たきり雀のグレーツイードのジャケットに揃いのハンチング帽のいつもの呑んだくれの画家が佇んでいた。

「いや、空が白くないと……」

イーゼルと道具箱そして今日のモンマルトルの風景を大事そうに壁に立て掛ける。

「何でえ、何でえ、相変わらず真っ白な絵描いてんのかよ」

「真っ白ってどの白だろう?僕のこの絵のどれなんだろう、ねえマスター!」

もう一度手に取ったキャンバスをテーブルに置いて、右頬に掌を充てて眉根を寄せる。

「わかった、わかった。やっと大っぴらに酒の飲める年頃になったと思や。難しい講釈始めやがって。いいからてめえは黙って呑んでろ!」

 カウンターの奥に設えられた大樽からジタンブルーに白い踊り子が舞うお馴染みの陶製カラフェになみなみと注がれたぶどう酒が、若き画家の前にドンと置かれた。グラスについだ透明イエローの液体を一気に二杯飲み下すと、キャンバスを両手で取り上げ概ね仕上がったモンマルトルの街並みをもう一度しげしげと眺める。家々の白壁と白い石畳、上空は厚い雲。店主の言う真っ白な絵に画家は様々工夫を凝らし、”白”という一言では言い表せない色のずらし込みを施している。全て同じ白の絵の具を使いつつ、時に洗濯糊を溶かし、この間は夜陰に紛れて教会の壁からナイフで削り取った漆喰を混ぜ込み、画家は物体と物体、物体と空間の境い目を表現していく。そして彼の描く白い街並みには誰もいない。白が表すのは心の純潔とも言うが、画家が描く白は見ての通りの空白。愛する人を渇望し、描き出したいと追い求めても追い求めても近づけない、空っぽの間(あはい)がそこにある。母に顧みられず心の貧困に苛まれる若き画家は、母と自分がともに存在しながら、決してともに暮らすことのないモンマルトルの風景を、冷徹でそして空虚な白のグラデーションで表現した。無人の白い石の階段に仕上げのアルコール混じりの溜め息が吹きかけられた。

 「なあモーリス、今月のつけの払いにこの絵をもらってもいいかな?」

画家がまた一杯グラスをあおる後で、シャツの袖をまくった毛深い腕を組んだ店主が片眉を上げてニヤリとする。

「構わないけど、僕の絵はそこにも、あそこにも掛かってるよね。これ以上どこに掛けるんだい?」

モンスニの街角、テアトル広場、そしてここラパンアジル、店の外の白いモンマルトルがあちらの壁こちらの壁で静かに息づいているようだ。

「最近そいつに値が付くようになったんだ。俺にとっちゃ真っ白な味も素っ気もない絵だが、”せきりょうかん”ってのがいいって客が現れてな。あれも、それも明後日で見納めだ」

「”せきりょうかん”?」

満足な教育も受けていない呑んだくれの画家が首を傾げる。店主がベストのポケットから取り出した注文取りの伝票に、一舐めした鉛筆で書き付ける。

「ほら、”寂寥感”って書くらしい。字で書かれても俺にゃあよく解んないけどな」

苦笑を浮かべ再び首を捻った画家が、また一杯喉の奥に忘我の液体を流し込む。

「煙草の脂がついてねえのなら、倍の値段で引き取るって言われてな」

「呑んだくれのろくでもない僕に、それでもぶどう酒を出してくれるのはマスターだけ。それが役に立つのなら……」

 ダダ~ン!驚いた二人が振り向くと、奥のテーブルの色に同化して突っ伏していたこげ茶のジャケット姿の蒼白い顔の酔っぱらいが、テーブルを押し倒して立ち上がりこちらに人差し指を突きつけていた。

「モーリス聞いたぞ!お前の空っぽの絵が売れただと。それはめでたい。いっしょに飲もう!」

「ありがとうアメデオ。そうだね今夜は僕が奢るよ」

「そうこなくっちゃな!おっさん俺にもグラスをくれ、そんでジタンをもう一杯だ!」

そう叫んでからイタリアから来た伊達男がジャケットの襟に両手をやってピンと伸ばし、祝いの歌だと言って耳障りなカンツォーネをがなり立てる。一頻り歌った後で、画家の差し出したぶどう酒のグラスを一気にあおり、椅子を前後逆にして腰を下ろすと背板に手を掛けにじり寄る。

「なあモーリス、お前の母ちゃんを俺のモデルに紹介してくれよ」

発音がぶつ切れで鼻に抜けないイタリア訛りのきついフランス語は、その口から発せられる用件を二倍不快にして耳に届ける。

「母はもう四十近いんだよ」

「そんくらいの女の方が適度に脂が乗ってていいんだよ。俺のポートフォリオは年増が八割。”パレットと絵筆を持つシュザンヌ・ヴァラドン”はきっと俺の代表作になる!」

グラス片手に熱弁を振るうイタリア人アメデオ・モディリアーニは人物画しか描かない。風景しか描かないモーリスとは対極の作風のはずだが、なぜか出来上がった作品から受ける印象は似通っているように思う。”寂寥感”、手の届かないものへの憧憬いや渇望。

「うちの母を君の極端なデフォルメと構図では描いて欲しくないなあ」

「何言ってやがる。どうせお前はその真っ白な絵の中にお袋さんを描き込むことすらできねえくせに……」

バシャ~ン!そう言い終る前にイタリア人の顔面をモーリスの浴びせかけたワインが滴り落ちる。一瞬背けた顔を元に戻したイタリア人は濡れたジャケットの襟を掴んで改めてピンと伸ばす。

「こいつは俺の一張羅だ。ルージュじゃなくてよかったぜ。ったく相変わらずここの酒は不味いとくらあ」

頬を流れ落ちる酒を人差し指で受け、ペロリと一舐めして微笑むと、イタリア人はいきなりモーリスを床に押し倒して圧し掛かった。

「ルノアール、ドガ、今はロートレックか、有名画家といや股開いて媚びうるあばずれ女の息子は、そりゃどいつに似たって絵が巧いだろうよ!」

下から掴んだ相手の襟を左右に振って、体を入れ替えたモーリスが喚く。

「お前の絵はお前の心同様歪んでる。うちのママンを首長な硝子玉の目の女に描かれてたまるか。この流れ者、イタリアへ帰れ!」

「うっせえ、このマザコン野郎!」

そこいらにある椅子やテーブルを次々に巻き込みながら取っ組み合った二人が床を転げ回ると、グラスや食器が砕ける派手な音が酒場の低い天井にこだまする。

「全く、この酔っぱらいどもはどうしようもねえな。こいつは倍じゃなくて三倍で売らなきゃ勘定が合わねえぜ」

店主は描き立ての真っ白なモンマルトルの街並みを頭上に差し上げ悪態を吐くしかない。殴り合いに疲れ酒とどちらが吐き散らかしたのかも判らない酒だったものにまみれ、酒場の床にへたり込む呑んだくれの二人の画家が自らの寂しい心の裡を描く絵は、しばらくすると三倍はおろか数十倍の値段で取引されることになった。

         *

 己が心の奥底に渦巻くどす黒い感情を、”寂寥感”という白で塗り固めた作品から得られた富を手にすると、画家は白い街並みに決して自分を顧みてはくれない母の、せめてその後ろ姿なりとも描き込んでみたくなった。自分を生み落としたどっしりとした腰、豊満な肉体を美しいドレスで包み込み、今も自らの愛のみに生きる母シュザンヌを。

「違う……」

母の姿を通りの真ん中に置こうとすると、自らが丹精込めて生み出した煤けて白いモンマルトルの街並みを、派手好きな母は歩きたくないのではないかとの疑心暗鬼に陥ってしまった。画家のパレットに青や赤や黄色の絵の具が白と混ぜられることなく大きく広げられ、白い街並みの軒先や窓枠やドアが原色で彩られ、街路樹は緑に溢れ、空も曇りから晴れへと塗りなおされた。

「ママン、これなら僕の絵の中にいてくれるよね!え?一人じゃ寂しい。そうかじゃあお友達もいっしょに」

そうつぶやいた画家によって、どぎつい色彩を得た街並みの中心に太筆でネイビーブルーのSの字が力強く描き込まれ、やがてそれは裾の広がったドレスを纏う淑女の後ろ姿へと変貌する。鍔の広い帽子には鮮やかな真紅のリボンがひと刷りされ、同じ絵の具をつけた筆が淑女の肩をショールとして覆う。隣にもう一人、そしてまた一人。

 十年前に画家がこれを描けば、きっと子供のお絵かきと笑われるだけだっただろう作品が、”ユトリロ”の名に金を払うコレクターたちに持て囃され、やがて”色彩の時代”とまで称されて更に高値で取引された。画家が禁断の果実を口にし、その代償として寂寥感という才を喪った瞬間だった。

         *

 「私のモーリスや、この作品の中のどれが私なの?」

「ほらママンはここだよ」

数年前とはガラリと変化したモンマルトルの明るい街並みを行き交う人々の中から、ひと際豊満に腰の張ったロングドレスの女性を指さす。

「そうなのかい。それでこの私の嫁入り先はもう決まっているのかい?アンドレ」

幼馴染のモーリスとその母シュザンヌの作品を半ば独占的に扱うことで一気に頭角を表した画商が、キリっと着こなした三つ揃えの上着の襟をひと撫でして応える。

「マダム、マルセイユのさる船会社のオーナーに売約済です」

「まあ、モーリスの絵にはそんな遠くからも声が掛かるのね!」

「はい、その方は憧れのパリの景色をいつも我が部屋で眺めたいと。今やユトリロの作品にはフランスのみならず、全ヨーロッパ果ては海の向こうのアメリカからもオファーが届くのです」

満足そうに弛んだ顎を上下させシガレットを咥えた母に、そつなくライターの火を差し出した画商の横で、極彩色の絵の具の沁みに塗れた制作用のエプロンを外す売れっ子画家。あの白から色彩に転向してエプロンを掛けるようになり、それから数百人の母を世に送り出した。そうすることで母は自分の近くに戻ってきてくれた。画家は彼の三十数年の人生で初めて、念願の母が傍にいる暮らしを手に入れた束の間の幸福感に浸っていた。

「ママン、今夜は最近サンミシェル河岸に出来た人気のレストランで食事でもどうかな?」

「ありがとうモーリス、でも今夜はアンドレの紹介してくれたあなたの絵のバイヤーさんとの商談があるの」

「そう、なんだ……」

ソファーに腰を降ろし顔を曇らせる画家の傍らで、画商がカチンと音を立て懐から取り出した金時計の蓋を跳ね上げる。

「マダム、そろそろお時間です」

「もうそんな時間なの?名残惜しいわモーリス。そうそうラファイエットで春向きのサファイアのブローチを見つけたの。プレゼントしてくれるかしら?」

その瞬間数多の画家やパトロンたちを虜にした往年の蠱惑的な微笑みを浮かべた母が、画家の頬に右手を寄せる。

「もちろんだよママン」

痩せた画家の身体はその数倍の母の質量に包み込まれる。

「モーリス、私の最愛の息子。また来るわね。そうそうあなたの好きなボルドーをアンドレが用意してくれてるわ。今夜はこれで楽しんでね」

画商が振り向いて壁際の半ダースケースを親指を立てて指さす。

「ありがとうアンドレ。母をよろしく頼む」

向うを指していた親指の腹をこちらに向けて、我が友は片目をつぶった。彼に促された母がドレスの裾を翻す。

「サリュー、モーリス!」

 母はしばらくして画商アンドレとの文字通り親子ほど年の離れた恋に落ち、息子が量産する益体もない絵が次々と稼ぎ出す札束をトランクいっぱいに詰め込んで、再び画家を置き去りにした。彼の手にした幸せはうたかたの泡のような幻想だったのである。

         *

 愛して止まない母を病で喪い、酒場で殴り合った友は自ら命を絶ち、自分自身は酒を巡るトラブルを重ねた挙句、妻という女に押し込められた鉄格子の中。一筆数十フランと周囲に唆され、それでも画家は酒代のため即ち生きるために極彩色のパレットを今日も広げている。

「こんなトリコロールに染まる街並みを腰骨の張ったご婦人達が闊歩するする絵を、三日に一枚描き上げることに何の意味があるのか?」

画家はパレットの今や僅かなスペースしか占めず、何の工夫もない白絵の具に筆を浸して持ち上げ、素のキャンバスにポタポタと零れ落ちるのを呆けたように眺める。

「アメデオ、僕は君の勇気が欲しい……」

 廊下の向こうから微かに聞こえてくる妻という女の嬌声。画家は筆を投げ出し両手で耳を塞ぐ。白が飛び散る。つかの間顔を上げるとさっきの画商が置いていったぶどう酒の瓶が目に入った。引き千切るように封を切りそのまま口元に運ぶと、口から溢れた半透明な液体が画家の純白のシャツを流れ落ちていく。瓶の中味をあらかた空にして瓶と向き合う老いを迎えた画家。

「お前だけは私を裏切らない。私を見捨てない。終生の友なのだな」

夕陽の作り出す鉄格子の黒い影たちが老残の画家の酒にまみれた身体に落ち、やがて絡みついていった。また、全ての色を消し去る闇が訪れる。

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モンマルトルの白 ちょっぴい @kuzuhiko

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