鋼の鷗
格納庫はエンゲリス・シェルターの地下1階層と近年建造されている地上露出部にまたがっている。格納庫はエンゲリスの重要な地区であり、それでいて外部と近い。そのため扉は三重にロックされ、外と比べるとかなりの陽圧になっている。皆、今日の飛行のためにシーガルの準備をしてくれている。ここには多くの航空機やロケットの残骸がある。祖父の代はこれらの航空機が飛び回って、この近辺の生き残りを集めていったらしい。最も、エンゲリス基地の対空システムの防衛圏外では無人兵器の類に落とされていった。だから、ここに残っているのは、壊れた高速機か、遅すぎて飛ぶことが自殺と同義な機体である。戦争直後、航空機にとって一番の脅威は、自律型の地対空兵器だった。それは自動発射式対空ミサイルだったり、レールガンやレーザーガンの類だったりして、ロシアの大地を走り回っていた。だが、それらの自律兵器は精密すぎた。人間のメンテナンスが無ければ灰や宇宙線(オゾン層はとっくに破壊されている)ですぐ壊れてしまうし、大容量バッテリーが発射に必要なレールガンやレーザーガンは尚更寿命が短かった。父が産まれた頃にはこれらの地上型自律兵器は灰にまみれて眠っていた。今でも脅威となっているドローンは飛行機型で、単純なコンベンショナル・ガンを搭載した低速ドローンだ。と言っても、音速に迫る位の速度は出る。かつては重要度の低い機体を飛ばし、ドローンをおびき寄せてエンゲリスの防空大型タレットで落とすという試みがされていた。だが、いくら落としても奴らは飛来するし、損傷を受けるとすぐに自爆してしまうので、技術も素材も回収できない。誰もが、戦争後に作られている事を確信しているがどうしようもできない。飛来する方角から、工場があるらしい地域は何となく分かっている。どうやら東の方、ヒマラヤ山脈の方面から飛んできているらしい。だが、ヒマラヤには稼働中の防空レーザー網があって、航空機によるアプローチは不可能だった。キリマンジャロを見るに、おそらく高山地帯は灰と気温上昇の影響を受けにくいらしい。まだ確認はされていないが、もしかしたら人類が生き残っているのかもしれない。ただ、それは今の所悪いニュースである。エンゲリスに戦争をする余力はない。だから本格的な侵攻が来ない事を祈るしかない。
シーガル隊の中にも人工冬眠者はいる。彼らは皆偉大な技術者で、シーガルの最終点検のために目覚め、俺が飛び立って、帰ってくるまではそれぞれの手段で半覚醒、半冬眠状態になる。誰かが、彼らの事を「シーガルのためのメモリパーツ」と呼んだことがあった。そいつはそれなりの出世コースを走っていたが、今はデイリー・トーパーにされている。デイリー・トーパー、日本語にすると”日周性鈍麻”だ。これは長期の入眠とは違い、代謝レベルを平常時の90%程度落としながらも、毎日目が覚めて少しの食料を取るサイクルである。餌が殆どない今でも地上で活動している、ネズミ達の習性を参考にして医師のアンドリュー氏が考案した。鈍麻に入った人々は、虚ろな目をしていて、たまに思い出したように呼吸をする。彼らは必ずしも健康の問題を抱えているわけでは無い。水や食料、娯楽。各種資源の節約のために、彼らは仕事をしない時間を、次の仕事のための休息に使う。自らの職の技能に成熟し、新たな学習の必要が少ない者たちは手術を受け、日周性鈍麻を始めるという事になっている。ただ、今の所は見せしめに近い。睡眠室で父たちがするような長期の人工冬眠と違い、日周性鈍麻は人間にはあまり向かないらしい。副作用として、起きている時でも意図せず意識が遠のく事がある。だからパイロットの俺とは無関係な話だ。これは地上遠征者のリーザがこっそり教えてくれた話だが、地上遠征者の中には生まれながらにデイリー・トーパーになれる人もいる。彼らは普段は夜に活動している。灼熱の昼間は活動できず、建物の影や砂に穴を掘って昼を過ごす。限られた食料や水の代わりに、デザイナードラッグの注射だけで過ごせるのは大きな利点だ。だからシェルター内での扱いとは対照的に、地上で仕事をする人たちの中では、デイリー・トーパーをする者達は重宝されている。近年の光不足を解消するべく、最近生まれた子供たちは、暗視が効くように、地下7階層のタレット教の警備員達と同じく改良された桿体細胞を導入された子もいて、そのついでに、冬眠遺伝子の導入も試みられている。と言っても、遺伝子の導入は100%成功するわけでは無いので、二つの遺伝子を持って生まれてくる人は少数だ。そんなスーパー・エリート候補生達が、将来町を支えていくのだろう。AAVを使えば、後天的に遺伝子を導入する事もできる。もちろん一部の細胞にしか効かないので、生まれながらにその遺伝子を持っている人達とは活性化に薬の量も格段に多い。本音を言えば、リーザには鈍麻をして欲しくは無い。真に能力のあるものは睡眠室で静かに冬眠するが、鈍麻をする人達は自室でだらしない姿になる。これでは、どうしても訪問者にその姿を晒す事がある。リーザのあの理知的な目が、虚ろになる所を見たら、自分の中で何かが壊れてしまう気がするのだ。こういった悩みは多くの人が抱えていて、誰が日周性鈍麻をするのかを言うのは何となくタブーになっている。統治者達もそれは問題視していて、鈍麻を別の呼び方にして、差別を軽減しようと考えていると聞いた。
シーガルはロケットに翼が付いたような機体だ。全長は20m、幅は22mで空虚重量は80t、7tの貨物を運ぶことができる。胴体は先の丸まった鉛筆のように、太い円柱の先端に円錐がついていて、窓が縦に2つ並んでいる。胴体の中央側面から大きな後退翼の主翼がついていて、その先端には胴体と同じ太さの巨大な円筒型のエンジンがついている。2つのエンジン前にはショックコーン・インテークがついていて空気をエンジンに送る。エンジンの開口部は翼が太くなっていて、父お手製の推力偏向機能がついている。こいつのお陰でシーガルはその巨体にも関わらず、それなりの旋回が出来るし、宇宙空間でもある程度の方向転換が出来る。と言っても、流石に限界があるので、元々付いていたリアクションホイールは今でも大切に使われている。
胴体の尾部には同じエンジンがついていて、その周りに垂直尾翼と水平尾翼がついている。胴体の下側には巨大なインテークがついていて、尾部エンジンに空気を送る。エンジンは”CR-10 ランス”。ロケットエンジンと吸気式エンジンの両方の性質を持つイカした奴で、この機体の心臓だ。ランスは大気がある内はインテークから送られた空気中の酸素を燃焼させるジェットエンジンだが、酸素が薄くなったらモードを切り替えて酸化剤を使ったロケットエンジンとなる。これで大気中でも宇宙空間でも効率よく飛べるというわけだ。他には、リアクションホイールを回すための簡易的な展開型太陽光発電装置、バッテリーが積んである。これらは宇宙空間で使用するためのものだ。大気飛行中にソーラーパネルを展開したらすぐに吹き飛んでいくだろう。かつては着陸のために巨大な展開式エアブレーキが二つとラジアル型パラシュートがついていたが、エンジンの性能が年々衰えていったので、必要のないパーツとして外されてしまった。これらが残っていた時は着陸時の減速が楽だっただろう。
雑にまとめると、シーガルは中型旅客機の両主翼の端に、胴体の半分の太さの円柱がついているような、宇宙までいける機体だ。技術がない国が無理やり作った機体にしてはそれなりの性能だろう。昔は月面の基地まで飛んで地球と物資のやり取りをしていたらしい。ただ、その頃は地球上に何本かスカイフックがあった。これはぐるぐる回る巨大な長い棒のようなもので、端的に言うと宇宙を行き来するためのエネルギーが物凄く節約できる。ただ、そういった施設は全て最終戦争によって失われてしまった。だから今では、地球の低軌道に乗ることがやっとだ。それも、一度軌道に乗ってしまえば、後は着陸するだけのエネルギーしか残されない。だが、弾道飛行なら話は別だ。ギリギリ往還が可能なので、宇宙に飛び出せない飛行機よりは格段に少ない燃料で長距離まで飛ぶことができるという訳だ。
シーガルはどこかの小国(俺は遠い故郷、日本だと勝手に思っている)、と言っても宇宙開発が出来る程度は力を持った国だが、から難民を乗せて飛び回り、運よく人類の滅亡時代を生き残った。あちこち飛び回ったのでエンゲリスには色々な文化の人たちがいる。祖父母の出身国である日本は、今ではほとんど沈んでしまった。当時、着陸できる基地はあまり残っていなかったし、それを調べる手段も失われて久しい中で、よく十分な距離の滑走路が残っているこの場所を見つけられたと思う。今となっては空気が漏れでる格納庫に人を載せて飛ぶことは殺人行為に匹敵するが、当時は気密性も高かったようだ。
シーガルの役目は終わらない。地球の大気循環系が壊れ、多くの土地が灰で汚染されてしまった今、安全な飲み水と食料はどこかから輸送するしかない。エンゲリス空軍基地にはいくらかの航空機が残っていて、水も食料も当初は十分あるように思われたが、何世代も人間の集団を養えるほどではなかった。根本的な解決策が見当たらないまま資源は消費され続け、基地に残ったのは数百人の住人と大量の燃料、そしてこのシーガルだけである。おそらく他の多くの航空機と同様にシーガルもその命を終える日が来るのだろう。豊富にあった燃料も酸化剤も劣化を続けていて、今ある技術で何とか維持をしようとしているが、どうしてこいつがまだ飛べているのか不思議なくらいらしい。そして、最後の航空機が飛べなくなることは、このシェルターの終わりを意味している。
シーガル隊は52人いる。町の規模を考えると、少々オーバー気味だが、シーガルのような巨大で複雑な機体を運用するには足りない位だ。この町に最初からシーガルしか無かったら、市長は地上探索班を増やしていただろうと言われている。メカニックが減るより先にエンゲリスの飛行機の方が消耗されていったのだ。彼らが優秀で何とか回しているお陰で、父は安らかに眠り続けることが出来るともいえる。立場上パイロットの方が”貢献度”は高いが、彼ら技術者達には頭が上がらない。一通りの基地内での点検が終わると、水輸送タンクが機内に運び込まれる。他にも、実験装置が入っているらしい箱が、数人がかりでコックピットに運び込まれる。話によると、無重力状態でタンパク質の結晶を自動で作ってくれるマシンらしい。よく分からないが、触らない方がよさそうだ。
準備が終わったらしいので、防護服に着替えて、滑走路に出る。防護服と言っても使い捨ての薄い合成繊維だ。ただ、開口部をいちいち閉じる必要があるので面倒くさい。着るのにはそれなりに時間がかかるが、パイロットもシーガルのパーツと考えると、当然大事にしなければならない。それに、どうせシーガルが外に出るためには気圧を変えながら大きな三重の扉をくぐるので、移動しながら着替えれば十分間に合う。外に出ると、旗がたなびいているので風が出ているのが分かる。大気中に有害物質が漂っている訳ではないとはいえ、風に巻き上げられた灰を吸えば面倒なことになる。汚染を避けるに越したことは無い。空は相変わらず馬鹿みたいに晴れ上がっている。今日は摂氏42度らしい。エンゲリスはもともと涼しい地方だったらしいが、年々気温は上がっている。雲は、別の土地に行かなければ見つからない。大きな川があり、交通の要所だったこの土地も、気候変動ですっかり砂漠になってしまった。だが新しい土地に行って町を作るだけの体力はこの町には残されていない。歩くだけで命がけなのに、この動きづらい防護服を着て開拓するなんて不可能だ。ヘルメットで拭けない汗を煩わしく思いながら、シーガル隊を見る。皆防護服を着て作業している。大抵の作業は格納庫内でやるが、エンジンの作動確認だけは外の空気の中でやるという決まりだ。
シーガルの準備が出来るのを待っている間、見送りに来た人々にも喝を入れてもらった。先輩パイロットに飛行の心得を口酸っぱく叩き込まれる。彼は先週中ずっと飛行していたので、流石にやつれている。これから休暇を楽しむと言っていたのに見に来てくれたのは素直にありがたい。何だか感極まって涙が出そうになった、それとも詰められているからか?どうしてよりにもよって外で心得を叩き込まれているのか俺には分からん。正直、この先輩は性格が歪んでいて嫌いだ。以前皆でお酒を飲んだ時に、何故、特にパイロットが優遇されるかという議論になった。この先輩は、「パイロットだけは、ここから逃げることが出来るからさ」と言ったので皆が嫌な気持ちになった。無事なまま撃墜されたドローンを発見したという功績が無ければ、今頃パイロットを辞めさせられていただろう。
タレット教徒の一団が一人、シェルターからぞろぞろと歩いてきた。彼らの防護服は、落ち着いた青だ。この時代は見慣れぬ服装だが、古い書籍で読んだことがある。彼らが着ているのはブリティッシュスタイルのスーツだ。ネクタイは赤色で皆、先のとがったガスマスクを着けている。妙な服装だが、砂漠では有効だという。どうやら9人ほどいるらしい。皆小型のレーザーガンを背負っている。一人だけシルクハットをかぶった神官が厳かな表情で、
「町を背負い、宙へ旅立つ勇気ある若者よ、汝の幸を願ってお祈りをしてもよろしいかな」と言った。
光関係の技術を多く保有する彼らを、無下にする事は出来ない。俺は特に信徒という訳ではないが「お願いします」と答えた。神官は黙ってうなずくと、取り巻きの中の4人がスプレー缶のようなものを取り出して、ノズルを付けた。それぞれがジャケットのポケットから黒いふにゃふにゃしたものを取り出し、それにスプレーの中身を注入すると、ふにゃふにゃは急速に膨れ上がり、黒い風船となった。4人は一斉に黒い風船を宙に放り出し、残りの4人がレーザーガンを風船に向かって照準した。司祭は、文様が塗られた懐中電灯を取り出し、スイッチを押した。そうすると強めの青い光が出るのだが、今は日差しが強いので光源が光ってることしか分からない。司祭はシーガル隊の面々に祭具を向け、その次に俺に祭具を向けた。毎度のことながら、眩しい。最後にシーガルに祭具を向け、機体の全体を行ったり来たりさせた。シーガルは巨大で、すぐ近くにあったので、隅々まで光を当てるために、彼は大きく腕を振り回す必要があった。この光景を始めてみたときは思わず笑いそうになったが、彼らを怒らせれば何をされるかわかったもんじゃない。幾度の訓練を乗り越えた今となっては、虚無の時間となっている。「これは陽光に耐えて忍耐力を付ける試練なんですか?」と聞いてみたくなるくらい暑い。神官は一通り腕を振り回した後、満足したらしく、教徒達の方に振り返って頷いた。
「空に救う魔よ、青き光線の加護を恐れたまえ」神官はそういうと、遮光眼鏡を取り出してかけた。信者たちもかけた。そして、神官は俺たちに向かってこう言った。
「迷える子供たちよ、決して上を向いてはいけませんよ」
風船に照準し続けていた4人が一斉に引き金を引く。パァンという4つの音が殆ど同時に上から響いた。彼らが立ち去った後に、風船のかけらがボトボトと落ちてきた。
タレット教はこの町を空襲から守り続けた旧ロシア軍のレーザーシステムを信仰対象としている。レーザータレットの正確な位置は最重要機密の一つで、統治者と、タレット教の司祭、運用関係者しかその場所は知らない。上空から見ても分からないので、きっと瓦礫のどこかに巧妙に隠されているのだろう。ただ、航空機が発進する前や地上遠征隊の”霧払い”としてこのタレットが稼働し、地上の熱源を感知して襲来したドローンが遠くの空で輝きながら落ちていく光景は多くの人間が見ている。タレット教は一人のレーザー技術者の冗談で始まったらしいが、今では、元々無神論者だった者たちを中心に、この町で一番勢力のある宗教団体になっている。元々力を持っていた組織がバックについているというのもあるが、売り方がこの町にフィットしている。分かりづらくて数値化できない”貢献度”を彼らは”メリット”と呼んでいる。この場合、英語で功徳、とか善行という意味だ。貢献度を上げるのは分かりづらいが、数値化されたメリットを稼ぐのは分かりやすい。最も、メリットで直接利益を得たりするという事はまだ出来ない。この町では信仰の自由があることになっているが、何かの宗教が、町と利害を対立したという話は聞かない。統治者達と対立が起きた場合に何が起こるのかは明白だし、単に、消えていった信仰は記録されていないだけなのかもしれない。
町にとって大事な任務だからか、市長もやってきた。エドワード・ルメイは戦争前に生まれたアメリカ人で、人工冬眠を繰り返しながら町を支えてくれている。昔は軍人をしていたらしい。鷲のような鋭い目つきの男で、地上遠征班よりもガタイが良い。地下でたまにすれ違うと身がすくむ思いがする。町一つを統治するというのはこういう事なのだろう。彼は防護服にマスクという軽装備でやってくると、俺に握手を求めてきた。俺も出世したものだ。
「やあ、手袋付きですまないね。市長のルメイだ。大変な任務だと思うが、是非とも頑張ってほしい。」
流石に気分が高揚する。高度な教育を受けているものとして、手放しに彼を崇拝する気にはなれないが、今回の任務は完璧にこなさなくてはならないと思った。
「はい!いつか素手で握手できるように完璧に任務をこなしてみせます。」
失礼だっただろうか、思わず大きな口をたたいてしまったことに気づいた。先輩が思わず噴出していた。市長は少し驚いたようだが、すぐに大きな声で快活に笑いだした。
「アキラ君、だったかな。本当なら手袋なしで握手したいんだが、パイロットとは滑走路で話すことにしてるんだ。なんてたって君たちの一番の晴れ舞台だからね。君にも、お父さんのように立派な人間になる事を大いに期待している」
鷲の眼をした大男は俺の両肩に手を乗せて言葉を続けた。
「エンゲリスの未来はこの双肩にかかっている、そう思ってくれ」
彼はシーガル隊の方へ向き直り、「シーガル隊の諸君もご苦労だった。夕方の配給は期待しておいてくれ。本当は飛ぶところまで見送りたいが、私は仕事が溜まっているので失礼するよ」と労った。俺はうれしさと緊張で半ば放心状態だった。彼が町に帰っていった後も、周囲は緊張感に包まれていた。いつもくたびれた雰囲気のあるシーガル隊の皆も、心なしか今日は胸を張っていた。
ルメイ氏は町全体を把握している数少ない人間で、人事から出生管理、冬眠状態の管理まで全て彼がこなしている。一週間に一度起きてきて、今後一週間の予定を決め、再び眠りにつく。あまりにも人間離れした働きぶりなので、彼の脳には人工知能がついているなんて噂もある。不測の事態が起こった場合は彼の取り巻きがとりあえず対応することになっている。俺の初の単独任務がルメイ氏の起きる日になったのは、任務の方で市長に合わせたからだろう。俺はぼんやりしていたので、先輩に言われて初めてその法則に気が付いた。
余談だが、このシェルターが”町”であるにも関わらず彼が”市長”なのは、最初、このシェルターが新サラトフ市という名前だった時があって、その名残らしい。ただ、色々な言語由来の言葉が飛び交うこの町では、言葉の細かいニュアンスや意味は誰も把握しきれていない。機械や、医療などの専門的な分野では正しい言葉が統一して使われているが、”市長”なんかは一番偉いことが分かれば十分なのだろう。ほかの例としては、地表にいて探索隊が捕まえてくる砂漠性の小動物である”ネズミ”と、培養肉に使われる実験動物の”マウス”は元々同じ動物を指す言葉だったらしい。タレット教の使うメリットは、昔利点という意味だったし、まだ使うものも多い。仲の良い友達との間でさえ、出身階層や人種が違うと意思疎通が出来ているか心配になる事がある。まあそんな訳で、言葉を正しく使おうという考えはこと日常会話では失われてしまった。きっとこの町が何世代も続いて、安定してきたら必要になってくるのだろう。戦争前の常識が、今どれくらい通じるだろうか。祖父は過去の事をよく知りながら、町では重宝されなかった。俺の孫が生まれる頃は、俺の体験談もただの興味深い話になってしまうのかもしれない。まあ、この町の存亡がシーガルにかかっていて、俺がパイロットである限りはそんなことは無いだろうか。
お偉方が帰った後は現場の人間の番だ。
「初の単独飛行だな!楽しんで来いよ!」
整備主任のアンドリューが俺の緊張をほぐしてくれた。
「リーザは連れてかなくていいのかい?」
そういってニヤニヤしているのは“学び舎”で同じ学級だったアシモフだ。余計なお世話だ、「お前こそ出来たばかりの彼女を大切にしろよ!」と言ったら、彼は照れていた。
数人の整備員によってシーガルが格納庫から滑走路に引っ張られていった。銀色の翼が日光に照らされて輝いていて美しい。少しでも重量を減らすために機体の塗装はない。だがこの翼も、この基地に水を持って帰ってくる頃には大気中の汚染物質で黒ずんでいるだろう。梯子を上って、一つ目のハッチを開ける。入ったら、後ろを向いてハッチを閉める。流石に、真空を飛ぶだけあって人間が乗る部分の気密性は担保されている。途中で防護服とマスクを脱いでプラスチックの箱に入れ、しっかりと閉めておく。無重力で灰が飛び回るのは簡便だ。最初の扉と同じようにしてハッチを開閉し、コックピットに入ると相変わらず広い。座席の後ろには与圧服と宇宙服が2組かけられている。宇宙空間で何かあった時は船外に出る必要もある。整備員が補助エンジンをかけて空調を作動させてくれたので、もう涼しくなっている。
メインエンジンを始動させると鈍い起動音がした。ゆっくりと出力を上げていくとエンジンの音は高くなっていく。計器を順番に点検して、発進シーケンスを進める。機体が前に進み始める。シーガルは後ろにエンジンが出っ張っているため、離着陸が難しい機体だった。当時のシーガルの写真が今でも整備室に飾ってあるが、後ろに傾けると簡単にエンジンが破損してしまうだろう。実際、着陸時の破損が多く、父の設計で離着陸性能を上げるためにエンジンを1m前にずらすまでは、あまり使われていなかった。VTOLは分からないが、シーガルの構造なら分かるので、この改造の困難さは俺にも想像できる。既に完成したSSTOのエンジンをエンゲリスの設備で1m前にずらすというのは、恐ろしく大変な行為だ。光ファイバーの技術は人工冬眠に必要なため、エンゲリスに今でも残っている技術で、フライ・バイ・ライトの機体とは相性が良かった。しかし情報伝達網は構築できても、シーガルの翼制御装置はあまりにも複雑だったために、壊れてしまう前に全て油圧式に取り換えられた。シーガルの時代の航空機は、数百人の設計チームによって作られていた。今はない、強力な計算機も使われていた。とてもじゃないが、一人の技術者の勘で何とか出来る相手ではない。シーガルが月まで行っていた時代は殆ど電子機械が飛行を制御していたらしく、人間が操作するのは非常時だけだった。エンゲリスにとっては幸いなことに、エンゲリスで稼働する最後の機体が壊れ、資源が尽きそうになった直後に、父の主導するシーガルの改造計画が終わったらしい。ここ何十年と、何もかも足りない中でシーガルは孤独な空を飛んでいる。多少の破損はあったが、それでもエンゲリスの存続をかけてシーガルは飛び続けている。今ではこの機体がこのシェルターの全員の命を支えているという現実が、シーガル隊に重くのしかかっている。俺も、操縦桿を握るとその重みから逃がれたくなる。これは7tの水を運ぶ機体ではない。この町の命と歴史を運んでいるのだ。
ランスエンジンはただでさえ強力なエンジンだが、それが3発もついたシーガルは物凄い加速度を誇っている。どうして小さな機体に3つもエンジンを積んだのか、今では知る由もないが、おかげで沢山の物資を積むことができる。十分に加速すると、ふわりと機体が浮き上がる。高度5000mまで上がってから出力を全力にする。数秒で音の壁を超える。窓の外で断熱圧縮された空気が赤くなっているのが見える。地上から見ると、赤く輝いた空気が機体の後ろにたなびいていて火の鳥のように見える。物凄い音と熱を発するが、その分エネルギーが失われているのであまり良い状態ではない。ただ、大気圏にずっととどまっているのもそれはそれで効率が悪い。シーガルは宇宙に達するまでずっと火を纏っている。機体を傾けると故郷がちらりと見える。黒焦げた荒野にかつて川が流れていた溝が走り、その横にコンクリート製のエンゲリスの地上部分や滑走路が見える。使われていない土地は風化してしまって久しい。かつて栄華を誇った港湾都市は時と共に崩れていき、地上探索者がめぼしい資源をシェルターに運び込んでしまったので見る影もない。地上にはぽつぽつ建物が出来始めていて、ソーラーパネルや風車が健気に働いている。シーガル隊の人たちが、もう塵のようにしか見えない。エンゲリスの地上カメラの解像度ではもうシーガルは見えないだろうが、人生で一番注目されている瞬間だと感じる。機体を一回ロールさせて、周囲にドローンがいないかを確認する。最も、ドローンも年々賢くなっている。シーガルが地上の旧市街の残骸のどこかに隠されているレーザータレットの防空圏を出る頃には、もはや手に負えない速度になっていることを知っているのかもしれない。以前は飛行機が飛ぶたびにどこかからドローンが飛来したものだが、シーガルの一機体制に入ってからはドローンが飛来することは無かったらしい。空は相変わらず平和だ。暗い町がもう名残惜しくなってくる。
ただ、燃料が限られている以上、余韻に浸る余裕はない。備え付けの方位磁針を見て、大体の方向を決めた。青い空が視界いっぱいに広がっていて、上の方には星空の世界が見えている。星空を見つめて、機体に取り付けられた照合装置と照らし合わせて慎重に機体の方向を調整する。それが済んだら、後はまっすぐ弾道飛行するだけだ。機体がマッハ3をこえそうだった。誰も試したことは無いというが、高度50,000m以下でマッハ3を超えると危ないらしい。機体が物凄い振動をしていて本能的な死の危険を感じる、これ以上を出してみたいという気もするが、あまり出す気にはなれない。上空に行けば行くほど空気抵抗は減るので、その時は嫌でもさらに加速することになる。大気圧が落ちる分ジェットエンジンを動かすための酸素も減る。酸化剤を節約するためにはなるべく今のうちに加速しておきたい。それでも、空中分解するのは嫌だったので、減速するためにエンジン出力を最大にしたまま斜め上に機体を傾け、マッハ2.8位を保った。仮に機首を下に傾ければ、この機体は容易に加速し、空中で燃え尽きてしまうだろう。まあ、実際にはそもそも最適な飛行経路というものが行き帰りで決まっている。推力重量比(TWR)の高い行きはまず上昇、そして加速がセオリーで、水を沢山搭載した帰りは、低空で加速してから上昇するのが良いらしい。そして、予想される燃料の最適な減少量に近づくほど、優秀なパイロットとされる。ただ、これはそこまで大変な仕事ではないと思っている。恐らく、歳をとって空を楽しむ余地が減っていくと、燃料消費の最適化という娯楽を見つけるんじゃないだろうか。
空の青が次第に鮮やかさを失っていき、空は真っ暗になる。その中で太陽だけが輝いている。太陽の逆方向から次第に、星の世界が広がっていく。ジェットエンジンの出力が弱くなってきたのが燃焼音の変化でわかる。インテークから取り込める酸素が減ってきたのだ。加速度計の値も段々下がっていっている。このスピードでは目的地までちょっと足りない。モードを切り替えてエンジンに酸化剤を送り始めた。高く、冴えわたるような響きをしていた3基のランスエンジンは、いまやロケットエンジンとして働き始め、野太い轟音を響かせはじめた。酸化剤が急速に失われているのが分かる。まだだ、空気抵抗があるので、もう少し上がってから加速しよう。そう考えて俺はエンジンをいったん止め、シーガルの高度が上がるのを待った。エンジンが消えると静寂が辺りを包んだ。機体は高速で動いているので、風の当たる音だけが聞こえる。遠心力と重力が打ち消し合って、体感の重量が減っているのが分かる。この空気の薄さでは最早翼はあまり役に立たない。リアクション・ホイールを回すと、少しずつ、少しずつ、機体は傾き始めた。アナログ式軌道計算装置に星の情報を入力すると、今の軌道の遠点を概算してくれる。もう少し待ってから順行方向にエンジンを加速させよう。それで目的地に到達できる軌道になるはずだ。ガチャンという異音が後ろでした。心臓が凍りつく思いがした。この異音は聞いたことが無いし、想像もつかない。まず死の危険を感じた。異音は続いている。思わず懐から注射を取り出し、明晰薬を静脈注射した。視界が広がって、明るくなる感じがする。酸素メータをもう一度見る。正常だ。シートベルトを外し、恐る恐る席を立って振り返ると、後ろで誰かが立っている。見覚えのある金髪。暗闇の中で、何度も見た顔だ。どうしてリーザがここにいるんだ?
地表は毒性の灰に覆われました Suzunu @Suzunu
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