地表は毒性の灰に覆われました

Suzunu

眠りの町

「おい、アキラ、起きろ」


 くるまっていた布団を剥がされて目が覚めた。時計を見ると朝の7時だった。もしこの時間に寝ていたら起こしてくれと伝えてあったので、隣の部屋のカズマが起こしに来てくれたのだ。俺が起きたのを確認すると、彼はそのまま自分の部屋に戻っていった。ベッドライトの傍には、読みかけの官能小説が開いたままだ。彼は気付いただろうが、何も言わずに出て行ってくれた。ちょっと恥ずかしくなって片づけた。昨日は不安で中々眠れず、つい夜更かしをしてしまった。まあ、不安になるのも仕方がない。今日は俺の初めての、単独での長距離輸送任務なのだ。離陸予定は12時で、準備を考えても余裕があるが、一応今までお世話になった人達に挨拶をして回ろうと思っている。帰れなくなるかもしれないからだ。もう少し自信を持つべきだろうか。

 俺は単段式宇宙輸送機(SSTO)、”シーガル”のパイロットだ。シーガルはこの町に残された最後の航空機で、切り離し等を行わずに宇宙まで飛ぶことができる。まあ、色んな制約があって結局地上と地上を結ぶ長距離輸送機になってしまっているが。俺の任務はこのシーガルで、アフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロにある拠点から、この、ロシア南西部にあるエンゲリス地下シェルターに飲み水を運ぶことだ。百年前なら、SSTOで飲み水を運ぶなんて考えられなかっただろう。しかし、現実に、俺の肩にはエンゲリスの842名の命がかかっているのだ。

 部屋に明かりを付け、モニターに電源を入れて外の景色を眺める。大地は相変わらず黒ずんでいて、カビみたいな、食べられない植物が地に這いつくばっているだけだ。雲一つない空がどこまでも青い。といっても、俺が生まれた時から外の景色はこうだった。昔と比べると酷い有様だという。確かに夏は死ぬほど暑いし、たまに捕れるトカゲもネズミもあのカビもどきを食べているらしくて酷い匂いがする。何もかも、滅びかけた地球で破れかぶれになった人類が、戦争を始めてしまったせいらしい。この町、エンゲリスはその戦争に参加した二つの陣営の、両方の人たちがいる。だから、戦争前の時代について語る事はしばしば争いを生んだ。思想の違いが原因で滅んだ町は沢山ある。だから、必要以上に過去の事を語る事はタブー視されている。でも、祖父はよく、こっそり俺に戦争前の地球を語ってくれた。その頃は、食べ物や水に困る事は無く、地上は植物と動物に溢れていたらしい。そしてコンクリートの立体構造物が地上に沢山あって、大量の人、人、人。今では考えられないが、この地上は人間で埋め尽くされていたのだ。子供の頃は、もう二度と戻ってこないであろう過去に憧れたものだ。今となっては、祖父の話はちょっと誇張が入っていたと思い返すときもある。しかし、残された本や、周囲の人々の様子を見るに、大筋は正しいのだと思う。


 もう文献は殆ど残っていないが、人類は自らの種を絶やすような戦争を起こしてしまった。運命のいたずらか、誰かがそれを望んだのか、東西の二つの経済共同体が相手の勢力を滅ぼさなければ自らの共同体が存続できないと確信しあってしまったらしい。両者は核兵器を保有していたが、構成国は核の戦争利用を制限する条約に調印していた。この頃は条約というものがあって、国家同士の約束を守らなければ、世界中から袋叩きにされたらしい。だからお互いに、核兵器を直接相手の勢力にぶつけることは無かった。この頃の通常兵器は核兵器ほどではないにせよ、それに匹敵する力を手に入れつつあった。シーガルのように宇宙まで飛べる爆撃機が地上のあらゆる場所から飛び立ち、あらゆる攻撃目標へ、ドローンをばらまいていった。ドローンの類は今でもたまに生き残りがいる。どこかの工場で勝手に生産されて飛んできて火薬式の機関銃、コンベンショナル・ガンで航空機を落とそうとする、あの憎き飛行型自律兵器の事だ。戦争時代はアレより遥かに優秀なドローンの仲間が、数万の群れをなして空を埋め尽くしたらしい。

 西側は兵力では東側を上回っていたが、無人兵器の運用では東側の方が一枚上手だった。東側が西側の盟主国の本土に通常兵器によって上陸したとき、西側は東側よりの北極圏で”大気”に対して50ギガトン級核兵器の”実験”を行った。この実験で北半球の大部分がEMPに晒され、多くの国がインフラに壊滅的な被害を受けた。この種の攻撃方法は元々問題視されていたが、結局条約の制限対象に盛り込まれなかったらしい。両陣営共に被害は甚大だったが、東側の被害は西側の比ではなく、自律機械全般がまともに運用できなくなった。東側は報復として大量の核兵器を太平洋で起動させた。その結果、巨大な津波が太平洋沿岸の海岸都市を浚い、多くの大都市が沈んでいった。

 人類の文明にとどめを刺したのは灰だった。どちらかの共同体が南極大陸に大量の黒い灰をばらまいたのだ。この灰により南極大陸地表のアルベド値(入射光に対する反射光の比)は大幅に下がり、日光によって氷が急速に溶け、海水面は急激に上昇した。これによって、地球上の主要都市の多くは完全に海の底に沈むことになった。この頃になると、人々は最早誰かへの憎悪よりも恐怖しか感じられなくなっていた。誰も望んでいないのに、それを止める手段がなく、戦争は続いていった。最早条約が機能するような段階ではなかったが、東側は核兵器の代わりとして、宇宙に送っていた資源掘削船を使って、地球の高軌道上に保有していた小天体の軌道を変え、内陸の西側諸国に落としていった。西側も同様の作戦を行い、地球上に残った都市は数えるほどしか無くなってしまった。天体の落下により巨大な地震が何度も発生し、それはどこかに貯蔵されていた、南極を覆うために作られていたらしい大量の灰をまき散らした。灰が大気に漂っていた時は日照量が低下し、直接攻撃を受けていなかった地域でも農業が壊滅的な被害を受けた。この灰は生物由来の物質らしいが、その製法は失われている。ただ、この灰は多くの脊椎動物にとって催奇性、発ガン性を持つ事が後に分かった。灰が特に多く降り積もった北半球の人類は、特に汚染に苦しめられた。実際、父はそれで肺ガンになった。まだ若かったが、優秀な技術者だった。町の皆に惜しまれて、今は深い眠りについている。祖父は最近まで生きていたが、今は天国にいる。祖母も、母も、俺が物心つく前に亡くなってしまったが酷い最期だったらしい。死因はきっと灰だろう。祖先が残した大地の汚染は、今でも重大な問題だ。

 灰が地面に降りつもると、南極と同様の事が地球規模で起こり、今度は急激な温暖化がはじまった。地表の大部分は灼熱の世界となり、多くの国々は地球を見捨て宇宙へ逃げていった。俺たち取り残された人類の生き残りは、比較的寒冷な地方の文明の残骸に身を寄せてあって生きている。エンゲリスは、奇跡的に残った航空機の運用能力で、周辺の滅びかけた拠点の人口を吸収しながら何とか存続してきたらしい。この町の生活は他の町よりはマシだったし、ドローンを退ける程の戦力を持っていたのは、大きかった。エンゲリスの”市長”であるルメイ氏は武闘派で、内政にも外交にも長けている。戦争直後程ではないにせよ、外の世界はまだ汚染されていた。地上は大地震によってズタズタに引き裂かれていて、風が吹けば毒の塵が巻き上げられる。とてもじゃないが、装備が無ければ遠くへ移動することはできない。大型輸送機でも無ければ数百人単位の移民は不可能だった。ただし、これはここら周辺の話だ。俺がこれから行く、アフリカの高山地帯にある拠点は、気温の上昇、灰の汚染、戦争による攻撃を耐えぬいた地域が残っていて、こことはまた違った問題をいくつか抱えているが何とか存続している。他にも幾つか残っているのかもしれないが、人工衛星が軒並み破壊された今では現実的な通信手段はあまり考えられない。人工衛星を飛ばすなんてSSTOを飛ばすよりはずっと簡単らしいのだが、根本的に解決できない問題が残っているのだ。飛来したドローンの翼を焼き落とした時、たまたま無事に落下してきたものがあった。それを解析してやっと分かった事だが、”ホワイトリスト”に符合しない電波の発生源は、飛来してくる無人兵器にとって年頃の娘並みに魅力的らしい。ドローンに空爆され、死んでいった多くの人たちは通信を試みたから攻撃されたなんて気づかなかっただろう。それらの兵器は戦争前の技術水準と比べると少々出来が悪いので、少なくとも世界のどこかに、無人兵器を生産し続けていた連中がいたらしい。今は、何もかも戦争前とは違うが、世界が歪なのは変わっていない。


 このエンゲリス・シェルターは元々ロシアの空軍基地だった場所に作られている。エンゲリス空軍基地はサラトフという都市を守っていて、サラトフ市の中心はヴォルガ川を隔てた東側にある。軍用施設の類は最初に攻撃された場所だったのだが、ここは幸運にも迎撃システムが働いたらしく、最終戦争の災禍を生き残ったようだ。と言っても、地上部は結局ドローンの攻撃で壊滅してしまった。それでも地下にはかつての産業の名残が沢山残っていたし、人的資源も豊富だった。この時代にSSTOであるシーガルを飛ばすのは簡単な事ではないが、ロシアにとって宇宙開発の重要拠点だったサラトフ市の遺産のおかげで、何とかなっているという側面もある。エンゲリスの地下には大きな核シェルターが広がっていて、戦争後から3世代に渡って人々が暮らしている。昔は地下の町全体に電気が通っていて、明かりもついていたが、俺が産まれた頃には鏡を使って間接的に日光を取り入れる装置が作られていた。すぐに灰が降り積もるので、地上部の側面に付けられた窓ガラスから日光を入れるしかないのだ。一度、天井をガラス張りにして巨大なファンで灰を吹き飛ばすという試みがなされたらしいが、エネルギーの無駄と判断されたのか、今では残っていない。ただ、最下層の住人にも酸素が届くように、フィルターを通して地上の空気を送るためのファンは今でも休みなく回っている。だから居住区を含めた多くの施設で、夜は闇に包まれる。祖父曰く、大半の人たちが夜に光を灯せず、労働も勉強もできないせいでエンゲリスの民の能力は世代を経るごとに落ちているらしい。昼間は地上付近の階層は暑くなるが、夜は涼しい。エネルギー問題は深刻で、最初は照り付ける日差しを集めて水を蒸発させ、タービンを回すことも考えられたらしいが、結局川が干上がった後は現実的でなくなった。当時作られた加熱装置は、水の蒸留等に使われている。太陽光発電、風力発電所も考えられたが、当時、大規模な地上施設を作る事はドローンの襲撃にあうという問題があった。今より比較的涼しかったとはいえ、地上での作業は困難だった。結局、ドローンがほとんど飛ばなくなる頃には技術が失われてしまっていた。燃料発電も何度も検討されたが、土地柄か、航空産業従事者が多く、航空機の寿命を間接的に縮める行為に対して彼らは熱心に反対運動をした。事実、エンゲリスは航空機によって支えられており、当時の第一の目標は各地から人々を集めて知識を集約する事だった。彼らを蔑ろにするわけにもいかず、結局燃料発電所が作られることは無かった。航空機の維持に限界が見え始め、必要性が再び叫びだされたときにはとっくに燃料発電を行う技術は失われていた。

 ただまあ、パイロットだからか身内贔屓な意見かもしれないが、航空宇宙産業の維持は様々な恩恵をもたらしている。宇宙船一つを稼働状態にしておくだけで、付随する様々な技術が守られているのだ。この巨大産業一つを保護する事は他の小さな産業を傘を広げるように守ることが出来るという意味で”アンブレラ技術”とも呼ばれている。例えば、宇宙船を気密にする技術は町の管理にも役に立つ。この町は外に比べて陽圧になっていて、フィルターを通して地上の空気を吸い込むためのファンが今でも休みなく回っている以外は、開口部からは常に空気が外に向かって出るようになっている。このおかげで灰が町の中に入らないという訳だ。それでも少しずつ、灰は中に入ってくるので、重要な施設になればなるほど気圧が高くなっている。このファンが回っているお陰で地下深くの最下層の住人にも酸素が届くようになっている。他に、地上用の作業服は宇宙服や与圧服と技術的に被る点が多い。巨大なファンを回し続ける技術も、複雑なエンジンを普段から整備していれば大した問題ではない。もちろん、これらの生活に必要な技術を維持することが、逆に巨大な傘を支える骨となっている。持ちつ持たれつなのだ。

 人類は滅びに身を任せてばかりいるわけではない。外での作業は相変わらず命がけだが、ドローンの脅威が減って空が比較的安全になってから、風力発電や初歩的な太陽光発電等、小規模な発電法は復活しかけていて、数少ないエネルギーは一部の重要な施設の維持に回されている。市長をはじめとする各部門の統治者達、各施設の開発者、輸送船のパイロット等の、”町への貢献度”が高いとされる人々が住まう階層には、例外的に電気をある程度消費していい事になっている。俺はパイロットだから、第2階層に住ませてもらっていて、夜にも光を使わせてもらっている。外部からの入居者が絶え、人口が減り続けている今、技術の継承は難しくなっている。こうなっては知識人たちを何とか延命させるしかない。町の医療従事者達は必死に頑張っている。水と食料は配給制で、地下で行われている農業生産に必要な炭素、窒素は地下農園で窒素固定を行える豆の一種を育てる事で、空気中から固定されている他、リンやカリウムはシェルター内で高度に循環されている。死んでいった人たちも、この町では安らかには眠れない。ただ、水だけは、極度に大気が極度に乾燥しているのでどうしても減っていってしまう。

 他には、過去に失われた技術の再発掘も常に考案されている。例えば、最近医師のリョウタローが復活に成功させた血液再賦活化法は、日本語の文献に書かれていたものだ。過去の文献は基本的に争いの種になるので閲覧が制限されていて、地下7階層の図書室に厳重に保管されている。しかし、住人がこっそり持ち込んだ本は今でも各部屋に隠されているし、統治者たちも見逃している。祖父が俺に過去を教えてくれたように、親しい人の中だけでこっそりと歴史は保存されていく。まあ、本当に歴史に興味があるなら旧文明の遺物の探索者になる事だ。職業の専門性が認められれば関連する書籍を自由に閲覧できる権利が与えられる。未知の知識への渇望は職業習得への原動力になる。研究をしている余力など殆ど残されていないこの町において 、過去の文献を読みたいという思いを敢えて構造的に作ることが、人々の活力、知識水準の維持に繋がっているのだ。血液再賦活化法で思い出したが、今日も景気づけにアレをやりに医務室に行こうと思った。静脈血を一旦体外に取り出して、オゾンを与える事で活性化させるというもので、ある程度町に貢献している者にだけ許された贅沢だ。最初はちょっと気持ち悪かったが、目の前で自分の血液が鮮やかな赤に変わっていくのを見るのは、何だか元気になるものだ。シェルターの高い医療水準も、アンブレラ技術と言えるだろう。


 俺は15歳の頃にはパイロットになることが決まっていた。視力が良く、数学の成績もよい。さらにそれなりの運動神経があるとの評価だ。ただ、本当は数学は苦手で、”学び舎”での成績は不正をしなければ下から数えた方が早かったと思う。15歳で学び舎に残っている人間は、周りを見ても数少なかった。皆何かしらの労働を始めていたので、才能を認められた一部の子供だけが勉強を続けることが出来た。学び舎は未来への投資である。だが、エンゲリスにとって遠すぎる未来に潤沢な資源を使う余裕はなかったので、教室は仄暗かった。この町で何が重要なのかは、明かりを見ればよい。正直に言えば、薄明りの中、勉強で分からないところはエリザベータという同年代の女の子に教えてもらっていた。エリザベータはロシア系の娘で、皆リーザと呼んでいた。リーザはシェルターの人口の半分ほどを占める、元々この地域に住んでいた民族の出身だ。彼女は数学が得意だったので長く勉強ができたが、リーザは生れが良くなかった。と言っても文化や民族がどうこうという話ではない。

 彼女の両親は共に”試験管生まれ”なせいか、町への貢献度が低いとされる地上探索者をしていた。食糧不足と灰の毒が猛威を振るい、無事に大人になれる人間は限られていた。体外受精はシェルターの人口減少に歯止めをかけるための苦肉の策だった。雌雄の配偶子を取り出して体外受精させ、それを母親の子宮に戻すのだ。エンゲリスで体外受精した子供は自然に生まれる子供よりも体力がないという意見が根強かった。本来受精の過程で雄性配偶子、つまり精子の選別が起こるが、その選別過程を飛ばす体外受精は選択圧が低いという理屈だ。エンゲリスの試験管生まれとは対照的に、戦争前に遺伝子を編集されて生まれた人々は優秀だと言われていた。俺に噂の真偽は正直分からない。直観的には、この町で病に倒れる要因としては遺伝的な要因よりも汚染の方が多いように感じる。だが、もし噂が悪質なデマなら、統治者たちが何か声明を出すだろうという意見もあった。それが無いという事は、一かけらの真実はあるのかもしれない。人類はこんな砂漠の地下に押し込められても、分断されている。祖父の代はもっと活気があって、人々は民族も文化も、生まれも隔てずに交流していたらしい。だが、地下の暗闇に、その活気は吸収されてしまったように見える。俺も祖父から色々な事を教わらなかったら、リーザを偏見の目で見ていただろう。それとも、自分に偏見が無いというのは俺の思い上がりなのだろうか?下層には時々、通路に倒れている人がいる。顔を見ると、大体虚ろな瞳をしている。"トーパー"のせいだ。俺は彼らの事を、内心気持ちが悪いと思っている。

 両親が地上探索者だったためか、リーザは極めて優秀であるにも関わらず、地上遠征隊に任命された。地上遠征は別の都市に歩いていって戦争前の遺産などを探索する仕事だ。遠出しても精々サラトフ郊外に行くくらいの地上探索者よりは知性も体力も必要な仕事だが、重装備を付けて汚染された地上を探索するのは非常に危険で、どちらかと言えば体力だとか勇気が評価される仕事だ。でも、彼女の両親も彼女も、この仕事を誇らしいと言っていた。それでも、彼女の誇りにはどこか影が差していた。


「私がパイロットになる方が良かったかもね」


 彼女は俺に数学を教えてくれていた時、俺をからかってそう言ったものだ。最初は若すぎて分からなかったが、妬みもあったのだろうと後で気づいた。パイロットもそれはそれで過酷な仕事で、リーザに務まるかは分からなかったが、俺も、頭脳に関していえば俺よりもリーザの方が適任だと思っていた。直接は言わないが、彼女の適職は地上遠征とは別にあると思っていた。この頃まだ生きていた祖父に意見を求めると、親の仕事を子供が受け継ぐというのは世襲制という大昔のやり方で、非効率極まりないものらしい。リーザの場合はそれとはちょっと違う気もしたし、俺は父とは全く違う仕事に就くが、俺も上手く事情を説明しきれなかった。彼は世襲制だと断言した。周りの大人たちも、密告を恐れてか表立って意見はしないものの、市長を始めとする統治者達があれこれ仕切るのには不満をもっていたようだった。同年代の集まりで酒を飲んでいた時につい、


「リーザならパイロットになれるよ」と俺が言うと、

「私は地上遠征という仕事に誇りを持っているわ。パイロットほど輝けなくても、冒険とやりがいに満ちた仕事よ」と言って返した。


 彼女の中で何度も繰り返した問いと答えだったという感じがした。それでも、彼女の言葉に偽りはなかったと思う。俺は自分の仕事を誇らしげに語るときの彼女の姿が好きだった。でも、過酷な訓練が始まり、へとへとで帰ってきた彼女と話すと、珍しく弱気で、やっぱり他の選択肢があったのではないか、という気持ちがあるようにしか思えない言動をしたときもあった。


 一度、いつものように俺をからかう彼女が思い悩んでいる目をしていたので「別の仕事に志願してみたら」と真面目に言ってみたことがある。リーザは普段温厚だし、大抵の事は軽口で流すような娘だが、この時ばかりは


「大した活躍もしていない身で別の仕事を探すのは、頑張っている人たちに対して申し訳ない」


 と言った。そして、泣きそうな顔になった。当時の俺は訓練で疲れていたんだろうか、それに祖父の話を聞いていて、価値観が古かった。どうしてこんな事を言うクソ野郎になってしまったんだろう。軽率な発言を後悔した。彼女にとって、彼女の仕事に文句を言う事は、彼女や両親に対しての侮辱に近い。誇り高い彼女は、仮に何を言っても許される場が存在したとしても、決して地上遠征という仕事に文句を言わなかっただろう。それでも、決して口には出さなかったが、職業の決定方法に対しての違和感は彼女も感じていたように思う。その違和感は、エンゲリスの住人にとって致命的になり得る猛毒だ。彼女は賢かったから、俺に対するからかいという形でそれを払拭しようとしていたのだろう。俺は、その事に薄々気づいていながら、彼女が誇りというヴェールで隠していた本音を、彼女が必死に目を背けていた不満を晒けださしてしまったのだ。俺は、泣いている彼女を見たら何かが変わってしまう気がして、慌てて自分の部屋に帰った。そして、自分の部屋にあった、初飛行の記念にもらったチョコレートバーを取ってきて、彼女の部屋に戻った。この時は彼女を慰めようと必死で、嗜好品を差し出す事も階級の差を見せつける行為であると思い至らなかった。俺がそのミスに気づいたのはバーを持って部屋に入り、彼女の顔を見た時だった。部屋に入ると彼女の眼は真っ赤で、涙の痕があった。リーザは俺を睨みながらバーをもぎ取るとバリバリと一気に食べて、一言、「許す」とだけ言った。次に彼女にバーを渡したときは、その時のことを思い出したのか、恥ずかしそうに「肉体労働は、筋骨隆々になっちゃいそうで心配なのよねー」と笑っていた。


 どこか危うい所があった彼女も、今では立派な女性に育った。彼女が心配していた程筋肉はつかなかったが、数度の遠征を経て凛々しい顔立ちになった。と言っても、それは彼女に限った話ではない。この地下で育ち、試練を超えて生き残った大人たちは、皆凛々しい顔立ちになるのだ。そんな中、早々にパイロットとして将来を約束されていた俺はちょっと凛々しさというか、必死さに欠けていたかもしれない。今だってまだ寝ぼけている気がする。配給に遅刻しそうなので、エンゲリスの大動脈である大通路を走って配給所に急ぐ。今日、俺がこの町の将来をかけて空を飛ぶことは皆知っているので、みんなが笑顔で手を振ってくれる。心なしか普段静かな町も活気があるように感じる。なんたって、暫くは水を満足に使えるようになるのだ。酒も飲めるし、食べ物も旨くなる。色々な装置が稼働し始める。走っているので声は出せないが、皆に笑って手を振り返す。配給所は少し不便な場所にある。なんでも、最初は町中央の吹き抜け付近で配給していて、基地の元々の食料保管庫もその近くにあったらしい。一度だけ、食料の開放を求めたデモが起こった。その時に人が集まりすぎて大変なことになったので、配給所も食料保管庫もシェルターの奥の狭い場所に移動して、配給の時間を住人ごとに分けたらしい。確かに、こんな狭い世界で、何でもかんでも人々に自由を与えるというのも考えものだ。なんて、統治者達みたいな意見が頭の中でひょっこり顔を出した。貢献がこの町に認められ、ある程度の深い知識を得る事を許された者は皆、何らかの形で統治者の側に立つことになる。俺は少しずつ、その準備を始めているのだろうか。デモをした人達の気持ちは痛いほど分かるが、その混乱でどれだけの資源が失われたのだろう。配給の不便さに対する苛立ちを、心の中で過去のデモにぶつけながら入り組んだ通路で梯子を上り降りした。やっと配給所に着いたのは決められた時刻より少し遅い時間だった。配給係のおばちゃんに豆で出来たパンを渡される。今日は母が好きだったらしいリンゴ味だ。それに、万が一腹を壊した時のための鎮痛剤と、調子が悪いために意識を失わないようにする明晰薬をくれた。これだけあれば、大抵の問題に対処できるだろう。おばちゃんは初の水輸送任務だからと笑いながら、おまけのチョコレートバーをくれて、「頑張れ!」と喝を入れてくれた。


 最後の別れになるかもしれないと思い、チョコレートバーを持って、今リーザが住んでいる、地下4階層に降りて行った。差し入れてくれたおばちゃんには悪いが、眠くなるので飛行任務の前はパンと水以外のものを口に入れたくないというのもあった。それに、彼女はチョコレートバーが大好物になり、手に入れたら極力渡して欲しいと言われていた。確かに、糖類には中毒性がある。中でもチョコレートは格別だ。配給所の話でも触れたが、エンゲリスの中央には巨大な吹き抜けがあって、窓から日光を鏡で取り入れ、各階層に光を当てている。この地下4階層は、主に地上で探索する者たちが住んでいる。土地勘があるという理由で、元々この辺りに住んでいた人々の子孫が多い。地上で紫外線を浴びる事が多いので、通路は昼間でもあまり日光が届かない作りになっているという話だ。ただ、誰も言わないが、日照条件は明らかに階級の違いを示していた。

 彼女の部屋を訪ねてみたが、リーザは居なかった。もう仕事に行ったのかもしれない。ノックしてからドアを開けると中は暗かった。彼女の部屋は地下4階層の中でも奥の方にあるため、ただでさえ光の少ないこの階層でも、特に光が入ってこない。一部の住人が、功績を求めて無茶な労働をする理由も何となく分かる気がした。俺は父が偉大な技術者だったから優遇されているだけだ。だから、今でもパイロットとしての自分を彼女に見せるのはどこか罪悪感があった。でも、リーザなら嫌みとはとらえないだろう。どちらかというと、ただ一回飛んで帰ってくるくらいで尋ねてくるなんて大げさな、と言って笑われる気がしていた。それでも、もしかしたらこの午前中がリーザと過ごす最後のひと時になるかもしれないのだ。仕方がないので彼女の部屋の机にチョコレートバーと書置きを残していった。


 父を訪ねた。父は睡眠室で眠り続けている。この部屋はリーザの住む地下4階層よりもさらに深く、地下7階層にあって、ある程度の立場が無いと入る事すら許されない。睡眠室の前の廊下は日光がほとんど当たらないので、夜目が利くように遺伝的に改良された桿体細胞を持つ警備員が3人、レーザーガンを持って廊下の入り口に立っていた。彼らはこの町で少しずつ影響力を拡大している、”タレット教”の僧兵たちだ。この暗い廊下の先の部屋に用事があるときは彼らのうちの誰かに連れられて行くことになる。この暗い通路には統治者たちが隠しておきたいエンゲリスの秘密が沢山眠っているらしいと、陰謀論好きな知り合いが言っていた。ただ、俺にとっては睡眠室以外の部屋はどうでもよかった。睡眠室は、真っ暗な廊下とは対照的に、エンゲリスの中では数少ない電気が通っている場所だ。扉を開けると光が入ってきて、闇に慣れた眼には眩しかった。警備員はもっと眩しそうにするかと思ったが、いつの間にか影に隠れていた。部屋の中には何台もベッドが並んでいる。ベッドには生きた人間が手足を固定された状態で寝かせられていて、点滴で栄養を与えられている。その人間たちの1人が父だ。父のベッドに行くと、スヤスヤと寝息を立てている。その呼吸は深く、すこし苦しそうだ。父は優秀な技術者で、航空機の維持に必要な存在だ。なんでも、シーガルを改造した時の設計主任は父らしい。エンゲリスの限られた設備で新設計のVTOLを作った事さえある。凄すぎてパイロットの俺でもよく分からない位だ。しかし、父は優秀すぎた。後継者が生まれないまま肺ガンに罹ってしまった。物資の搬入の大部分を航空機に頼っているこの時代、彼の死はこの小さな世界の終わりを意味していた。

 だから父は、その頃まだ生きていた祖父母や母と相談して人工冬眠の選択肢をとった。人工冬眠はリスクのある手段で、通常の人間に適応するには、脳の視床下部という部位に手術でファイバーを埋め込まなくてはならない。視床下部にあるQRFP産生ニューロンと呼ばれる細胞の発火により、人間の体温と代謝は数日間大きく低下する。当然、人間の代謝を抑制する事は資源の消費を抑えることにつながり、シェルターにとって大きな利益となる。父の場合のように、病の進行を遅らせて延命に使うこともできる。アンドリュー医師という、これまたエンゲリスにとって英雄的な学者がいた。彼は、QRFPニューロンに特異的に入り込むアデノ随伴ウイルスベクター(AAV)を設計した。ベクターというのは遺伝子の運び手の事だ。このAAVを血管に注射すると、AAVは血液脳関門を突破し、QRFPニューロンの細胞膜にたどり着く。その後、AAVは核の中まで侵入し、染色体の遺伝子に改良型チャネルロドプシンが導入される。そうすることで、このQRFPニューロンはチャネルロドプシンのタンパク質を発現するようになり、特定の波長の光に応答して発火するようにする。遺伝子を導入した後は、脳の視床下部の該当領域まで極細のドリルで穴をあけて、光ファイバーを手術で通してやる。ファイバーからその波長の光を当ててやれば、冬眠が誘導される。こうして、ちょっとした固定器具とライトの付いた帽子を被れば冬眠できる人間が生まれるというわけだ。

 この方法は細胞単位で神経の電気的活性化を起こすことが出来るため、単に電極を刺して特定の領域に電気刺激を送るより、遥かに有効である。人工冬眠を始めると人間の体温は摂氏30度ほどになるが、副作用は殆どないと言われている。戦争前は、生まれる前から遺伝子を導入することで、ファイバーを埋め込むような手術をしなくても済む人々が産まれていたらしい。特定の薬剤によって特異的に活性化される神経細胞膜受容体、通称"デザイナーレセプター"(DREADD)をコードする遺伝子を組み込まれたその人間たちは、生まれつき、デザイナードラッグを投与するだけでQRFPニューロンを刺激でき、人工冬眠に移行できる。彼らは注射器と薬剤さえあれば簡単にコールドスリープが出来る事から宇宙開拓に重宝され、今でも地球の外では星々をめぐって、彼らやその子孫が争っているらしい。QRFP以外にも様々な遺伝子改変人間たちがいたようだ。集中力が高かったり、苦労を厭わなかったり、水中で長く活動できるなんて人間も作られていたらしい。

 俺は祖父から聞いた昔話を半分くらい与太話だと思っているが、この部屋で眠っている人の中には実際に冬眠誘導型のデザイナーレセプター遺伝子を持つ人間も混じっている。彼らの多くは戦争前から生きていて、脳にファイバーを埋めこまなくても、単に点滴に薬剤を投与するだけで冬眠を続けている。

 彼ら、睡眠室の英雄たちはエンゲリスにとって無くてはならないが、もう長くは生きられないと判断された人々だ。そのため、彼らが必要になった時には市長の判断で冬眠状態を止め、長い眠りから起こすのだ。初めて父が睡眠室に入った時は悲しさと不安でよく泣いたものだが、今では俺も大人になった。立派になりたいという意味でも、町が長く続いてほしいという意味でも、ここで眠りにつきたい。父のように、シェルターから永遠に必要とされる人間になりたい。寝息を立てる父を見ていると、熱いものがこみあげてくる。とりあえず、父には今日が初飛行である旨、育ててくれた感謝の言葉を込めた手紙を父用のロッカーに入れて、俺は格納庫へ向かった。格納庫に行くと、すっかり顔なじみとなったシーガル隊のみんなが迎えてくれた。

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