第5話「悪魔、ルキ」

 一体何年間彷徨ったのだろうか。


 そういえば記憶にございません、とかつて心の中で繰り返していた異世界転生してきた契約者がいたな。奴は後ろめたいことだらけであった。

 そんな言葉を思い出すのは、本当に記憶にないからである。


 力を失って久しい。どれだけ久しいのかも忘れて久しい。一時期取り戻したこともあったと思うが、結局失っているので久しい。

 どこの誰といつまで契約していたかなんて覚えてない。目的も無く彷徨うのが日課となっていた中、出会ったのだ。


 絶望にまみれた男を。


 悪魔は絶望が大好物である。強い絶望を抱えている人間は、悪魔から好かれる。というより、群がってくる。絶望は一種のフェロモンのようなものである。

 その絶望を本能のままに喰らうもよし、甘言で契約を結び地獄の底へ引きずり込むもよし、悪魔ならではの極上のひとときである。


 しかし、この男を追っている悪魔はたった一匹。何たる幸運か。普通なら数百匹くらいに追われていてもおかしくない。追っている悪魔がモノにする前に、この男との契約を何としてでも勝ち取らねばならない。

 かつての異世界転生者も、デカイ案件は必ずわが社のモノにしないといけない、とか念仏のように唱えていたしな。そういえば、奴は怖くて契約までに至らなかった気がする。


「これはこれは。また哀れな子羊が一匹、この世界に迷い込んだようじゃのう……」


 こういう時には、大人の女の余裕とミステリアスさを醸し出さないといけない。契約できなければまた無力に彷徨う放浪者です、などとバレてはいけない。

 以前の異世界転生してきた契約者が教えてくれたが、口調は古風な方が雰囲気が出るらしい。何の雰囲気かは忘れたが。おかげで心の口調と声が発する口調は別々である。


 ついでに服装も揃えた方がより雰囲気が出るとも言われた。何の服装だったか忘れたな。

 確か日本という国の、何とかという服と聞いた。果たして、今着ている服は揃っているのであろうか。


 改めて、神月伊吹と名乗る男を見てみる。

 特徴を一言で表すならば、アンバランスである。 ここまでの絶望にまみれた男はそういない。

 しかし、そういう人間特有の荒んだ様子がない。普通の長さの黒髪に普通の黒い目。少々目付きは悪いが常識の範囲内。身長もそこまで高いわけではなく、体格は細身ではあるが特筆すべき点でもない。

 服装は、こちらの世界ではあまり見受けない格好ではあるが、それでも個性の獲得までには至らない、


 今の姿だけ切り取れば、穏やかな凡人でありどこに絶望の要素があるのか推し量れない。


 契約前のフリーである私にとって人間は、心の中に入らずとも、物理的な距離が近ければ心の中身は漏れ聞こえてくる。

 私をあまり女として意識しておらず、かといって見ず知らずの人間をいきなり拒否するわけでもなく、多少の興味はありそうであることくらいは分かる。

 つまり、イブキは契約のためのコミュニケーションが取れる、ということだ。


 契約成立はスピードが肝心である。別の悪魔が追ってきていることもあり、本当に時間がない。早めにイブキの心の奥底を読み取り、メリットを提示し、悪魔が辿り着く前に契約を結ぶ。


 そうと決まれば早速心の中にダイブあるのみ。

 意気込んで心の中に入り込んだ瞬間、ひどく後悔した。こんなことしなければ良かった、と。


 終わりのない混沌。


 ドロリとした感情が私の心にまとわりついてくる。

 嫌だ、嫌だ、こんなところ、引きずりこまれる……。実体がないはずなのに、本能的にまとわりつくそんな感情を全力で振り払ってしまう。


 震えが止まらない。冷や汗が止まらない。吐き気がしそうだ。意識も飛びそうになる。心の中だからそんなことは実際に起きないと分かっているのに、揺さぶれる感情が不調を引き起こす。


 人間は誰しも感情経験があり、それは今の自分を形成する大事な要素の一つである。

 例えば、火を見て恐怖心が煽られる人間がいたとする。何故恐怖心が煽られるのかというと、本能的な部分もあるが、火傷をしたからだとか、何か大切な物が燃えてしまったとか、そういった経験から感情が発生し、脳が記憶しているからである。


 何故そういう感情を持っているのか?

 これを紐解いていけば、おのずと心が読める仕組みとなっている。私が人間の心を読めるのは、この感情経験の根底を知る能力があるからといえる。


 さて、何故このように突然長ったらしく講釈を垂れたのか?

 イブキには、全く当てはまらないからである。


 欠片のような映像は見えてくる。しかし全てモザイクがかかっており、詳細が分からない。

 映像からは、叫び声とか泣き声しか聞こえてこないので、暗い内容であることは理解できる。笑い声が聞こえたのは、冒頭のほんの一部分だけであった。一度だけピカッと光った映像があったが、すぐに暗さを取り戻してしまう。

 要所要所でヘドロのような、ドロドロとした映像の歪みが生じている。

 全ての映像に絶望や怒りや喪失感しか込められていないため、感情経験の切り取りそのものが困難である。


 これは生身の人間では耐えられるはずがない。しかしイブキは生身の人間であるため、そこに大きな矛盾が生じている。


 要するにイブキの人生には、良い時間がなかったということである。ただし、今この場でそういった暗さはない。

 しかし明るくもないというのは、不思議でたまらない。


 おかげで私は、イブキの心が全く読めない。表面的にイブキが心の中で発した言葉しか聞き取れない。こんな人間と出会うのは初めてである。


 しかし先程の後悔とは別に、不謹慎な感情もついつい浮かんでしまう。

 神月伊吹をもっと知りたい、その絶望を全て受け止め自分だけのモノにしてしまいたい、自分の目的を果たすためのパートナーにしてしまいたい、永遠にこの世界から逃れられないようにしてしまいたい。


 単なる恋心などとは一線を画すこの想い、狂気である。


 元々人間に興味があったから、契約を繰り返してきた。しかしこの瞬間、神月伊吹にしか興味が沸かない。

 イブキは転生者だから今は何も気付いていないが、いずれ契約の選択肢が無限にあったことに気付き、真っ先に私と契約したことを後悔する時がきてしまう。


 そうなってはいけない。


 イブキは契約を解除しても、恐らくこの世界で生きていける。他の悪魔が放っておかないからだ。この絶望が孤立することは、まずあり得ない。

 私はどうだろうか。かつての過ちで罰を受け、人間と契約しなければ存在できない、哀れな悪魔。


 だから私はイブキを手放してはいけない、決してどこにも。

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