第3話「始まりの契約」

「これはこれは。また哀れな子羊が一匹、この世界に迷い込んだようじゃのう……」


 気付けば黒い渦から突然、女性が現れた。

 立ったまま、丁度良い獲物を見つけたかのような表情で、座り込んでいる自分を見下ろしている。

 舌舐めずりしながら見てくるその様は、さっきの異形と大差はない。唯一の違いは言語が理解できたことだ。


 先程の失敗からか、興味ではなく恐怖に突き動かされ、思わず全身を観察してしまう。


 よく見てみると、顔は美人といって差し支えない分類である。

 目鼻がクッキリとした西洋系の顔立ちで、目と髪の色はどちらも黄色い。セミロングの髪にはウェーブがかかっている。

 黒色のシャツの胸部が押し出されていることから、巨乳であることは明確な事実だ。上半身だけ見たらキャリアウーマンに見えなくもない。


 口調と見た目が合っていないような気もするが、そもそも相手が本当に日本語を話しているかも疑わしいため、気にしないことにした。


 身長に言及したいところであったが、下半身が透けて薄くなっているためよく分からない。この薄いに他意はなく、まるで幽霊のように本当に下半身が薄くなっており、よく見えない。

 無言でその女性をずっと見ていたからか、顔をしかめて怪訝そうな表情になる。


「何を見ておるのじゃ。お主は色恋には興味が無さそうな心をしておったがな……まあよい。時間が無いゆえ手短に話す。妾はルキじゃ。お主、名を何と申す?」

「――神月 伊吹こうづき いぶきだ」

「ほう、イブキか。良い名じゃな」


 具体的にどこが良いのか気になるが、看板の文字や異形の件を踏まえると、会話が成立していることに違和感を覚える。とりあえず会話が理解できるのであれば、ルキと名乗る女から情報を聞き出すことが先決だ。


「ところでここは……」


 要件を言いかけると、ルキが座り込んで両手を伸ばしてくる。


「妾の力を持ってすれば、お主の考えていることなど手に取るように分かる。みなまで言うな」


 そう言うと、ルキは疲労困憊のこの体を優しく抱き締めてきた。顔が近い。もう少し近付くと、お互いの唇が触れ合う距離だ。

 しかし、男性としての感情が全く高ぶってこないのは、ルキの下半身がまるで幽霊のように俺の体をすり抜けていることにより、驚愕の感情が勝っているからに他ならない。


「なっ……!」


 俺の驚きの表情をよそに、柔らかな笑顔を向けてこちらを見てくる。


「ふむ……そうか。やはりお主は転生者じゃの。齢三十歳。日本人。身長は百七十五センチで体重は五十五キロ。痩せすぎじゃ。もっと良い物をたくさん食べんか。そしてお主の根源となる感情経験は……」


 ここまで話したところで、一瞬真顔になる。何か俺の感情経験とやらに不都合でもあったのだろうか。

 しかしすぐに笑顔に切り替わり、言葉を続ける。


「少々脱線したのう。時間が無いので早速本題に移る。ここは人間だけではなく天使と悪魔が住まう世界。そして妾は悪魔。イブキよ、妾と契約するのじゃ。そうすれば妾の全てをお主に授けよう。残念ながらこの提案に拒否権など無い。拒否すればお主に待っているのはただの死じゃ。それはもう分かっておろう?」


 理解出来ない設定がいくつか出てきたが、今大事なことはそこではない。異形が敵意ならぬ食欲を持って迫ってきている以上、最も重要なことはこの女から力をもらうことである。


 残念ながらこの女の言う通り、俺は契約でも何でもして、この場を乗り切らなければ次が存在しない。例え目の前の女がどんなに悪どい女だとしても。


 話を聞いていく内に、徐々に自分を取り戻していく。この世界に迷い混んだ当初の自分が、いかに幼かったかを思い出してしまう。

 それにより、この世界でやらなければならないことが明確になってきた。ここが本当に異世界なら、俺はもう失うわけにはいかない。


 非現実的な出来事が続いたせいで、最初は戸惑いばかりで本来の自分すら思い出せなかった気がする。とはいえ、本来の自分が何なのかは説明に困る部分ではあるが。


「それで……契約の内容は?」

「話が早いのう。さすがは妾の見込んだ男じゃ。契約内容は三つ。一つ、天使を滅ぼし悪魔を頂点に導く以外のことを行わないこと。二つ、妾以外の女性は決して愛さないこと。三つ、二つの契約を守り続ける限り、妾はイブキに力を与えること」


 それは契約条件と呼べる代物なのか分からない。現代人感覚で判断するのであれば、契約内容はもっと事細かでないといけない気がするが、これが異世界流なのだろうか。


 一つ目は理解できる。悪魔と名乗るルキ自身の利益を追求する内容だからだ。

 二つ目は謎だ。まるで結婚をする時の誓いのような内容だ。この契約を結ぶメリットが不明確である。また、ルキのことは特に好きでもなんでもないので、そもそも契約事項が成立するのかすら疑問である。


 ただ大事なのは、二つの契約を守らなければ、三つ目の契約を勝ち取ることができないということだけである。

 それにもう一つ、どうしても聞かなければならないことがある。


「そうか、契約内容は全て理解した。もちろん遵守するから契約させてくれ。ただ一つだけ聞かせてほしい。アンタはこの契約を絶対に破らないという保障はできるか?」

「安心せい、妾はこの契約だけは絶対に裏切ったりなどせぬ。まあ、口ではどうとでも言える以上、行動で証明する所存じゃ」

「安心したよ。それじゃ早速、契約とやらをよろしく頼む」


 そういうと、ルキの体は煙のような姿になり、スゥーッと音を立てて換気扇に吸われる煙の如く、俺の心臓の中に入り込んできた。

 煙の全てが入った瞬間、これまで感じたことのない大きな鼓動がドクン、と脈打った。


 全てが終わった時、目の前からルキは消えていた。


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