第2話「異形の襲撃」

 決意を固め、遠く先に見える建物に向かって足を踏み出した瞬間、どこかで物音がした。


 ザッザッザッザッ……。


 これは間違いなく足音だ。生きている人間の音である。無意識に体が足音のする方向へと向かっていく。

 どうやら人間というのは、寂しさを味わった後に人間の温もりとやらが欲しくなるようだ。よく分からない場所にきて一つ賢くなったな。


 何本か細い道を進んでいくと、ようやく足音の主と巡り会うことができた。


 自分に背を向けているせいで彼なのか彼女なのか分からないが、百七十五センチある自分より小さな背丈である。百六十センチくらいといったところだろうか。髪は緑色か。少し奇抜な色が好きなのだろうか。後ろ髪が短いため、細い首が見えている。


「すいません、色々と聞きたいことがありまして……」


 そう声をかけるが、無視される。何だこいつは、返事の一つもできないのか。これだから最近の若い者は、まあ若いのかもよく分からんが。


 いやいや、よく考えたら失礼なのはこちら側か。会うなりいきなり自分の要求をストレートにぶつけてしまったしな。

 和を貴ぶ日本人としては、まずは相手を思いやることから始めなければならない。


「そちらの事情を伺いもせず、いきなり声をかけてしまって大変申し訳ありませんでした。私の名前は……」


 そう言いかけたところで相手が振り向き、声を発する。


「#&*@%※」


 そういえば看板の文字が読めなかったことを思い出した。

 ドアを叩くことも躊躇ったことを忘れていた。ここは日本語はおろか、世界の共通言語である英語も通用しないようだ。英語らしき音も聞こえない。


 しかし重要なのはそこではない。声をかける前にどういう人物かよく観察し、見極めるべきであった。


 自分より身長が低いことに加え、人恋しさに焦っていたことが思考を鈍らせた。首から下を見れば、誰だって異変に気が付くことができたはずだ。


 まずおかしい点として、服を着ていないので文字通り何も持っていない。まさか自分の所持品よりも少ない奴がいたとはな。ジーパンで良ければ後で贈呈するか。


 いや、そんな冗談はいい。見たところ男性の裸ではあるのだが、胸部には拳一個分程の見たこともないような瘤がリズミカルに脈打っていて、何とも不気味である。

 さらに顔面がおかしい。目はあるが白目を剥きっぱなしにしている上に、唇の両脇からは人差し指大の牙が二本、下向きに生えている。極め付きは、額から角が生えている。ユニコーン的な長い角である。


「∥〇―★#」


 もう一度声を発した瞬間、全身を支配したのは恐怖である。

 異形。相手に対してこの一言以外に思い浮かぶ言葉がない。

 二本の牙から滴る涎を見れば、友好的な態度でないことは明らかである。目の前の人間は食糧か何かに見えているに違いない。徐々にニヤリと上がる口角は、獲物を見つけて喜んでいるソレである。


 逃げろ。


 本能がそう告げるが体はなかなか動いてくれない。足が震えて、心臓が耳の中にあるかのように、自分の鼓動が大きく聞こえてくる。

 一方の相手は余裕の狩りといったところだろうか。異形はゆっくり、ゆっくりと確実に距離を縮めてくる。

 大人しく逃げろ、大人しく逃げろ、大人しく逃げろ。黙って逃げるんだ。


「う……うわああああああああー!」


 本能に従いやっとの思いで背を向けて走り出した体であるが、大人しくは逃げられなかった。



―――――――――――――――――――――――



「ハァ……ハァ……ハァ……」


 どれだけ走ったのだろうか、そもそもここは街のどこら辺なのだろうか、もうそんなことも分からないくらい走った。

 大きな道を通ればすぐにバレると思い、本能的に細い道を走り続けたから、尚更どこにいるのかも分からない。


 建物の壁にもたれかかりながら、満身創痍の体で思わず脱力してしまい、尻餅をつく。尻は痛むが、立ち上がる気力はもうどこにもない。

 喉が渇く。しかし癒やす術がない。肺が痛い。喉も鼻も痛い。足なんか震えてこれ以上動きやしない。汗が止まらない。思わずTシャツを脱ぐが、それでも不快感は拭えない。


 ここまで走れば、もう逃げられたんじゃないか。相手も舐めきっていたみたいだし。夢中で走ってはいたが、それでもすぐ背後で物音はしなかった。


 ――はずなのに。


「◎▽△▲◇!!!」


 一瞬で汗がひく。近くで異形の声がした。

 どうして。こんなに必死に逃げたのに。いや、相手はここのマップを知っていると考えれば当然か。

 というより人間ではないと考えるなら、もしかしたら嗅覚とか第六感的な何かが発達していてもおかしくない。


 つまり、理由はどうあれ最初から結果は見えていた訳だ。

 哀れな獲物が補食されるシナリオに変更などない。これは素晴らしい出来レースだ。


「ハハ……ハハッ……!」


 息が切れているはずなのに、思わず渇いた笑いが滞りなく漏れる。

 そもそも何でここにいるのか、ここはどこなのか、あの言語は何語なのか、なぜ人間がいないのか、アイツは何者なのか、疑問だらけだがそんなことはどうだって良くなった。


 代わりにあの感情が全身を支配する。

 どす黒く、この身を侵食するあの感情。思わず拳に力が入る。

 いきなり知らない光景で、世界には自分ただひとり。頼れるものは何もなく、状況を理解することも許されず、偶然出会った異形に食い散らかされる自分。


 何でだ、何でだ、何でだ。


「何でだぁー!」


 あの映像が頭の中で強烈にフラッシュバックする。

 抗いがたい感情。何の説明もないままに理不尽に殺される。殺されることはどうだっていい。この理不尽さにだけは耐えられない。ひたむきに状況を理解しようとしただけなのに、俺が何をしたっていうんだ。

 何で自分なんだ、俺以外にもっと食べられてもいい奴がいるはずじゃないか。何で俺がいつも哀れな目に遭わなければいけないんだ。


 ん、いつも……?


 自分の心の声に少しだけ違和感を覚えたが、記憶を手繰り寄せる時間も暇も体力もない。ごぼり、と音を立てて溢れ出した感情に身を任せることしかできない。


 声を発することで相手に居場所がバレやすくなるとか、そんな常識的なことはもう考えられなくなっていた。

 気付かぬ内に体のまわりに黒い渦が巻き始める。

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