第九話 「不安定な感情」

日が暮れかけた頃、二人は森の中を歩いていた。枯葉が踏みしめられる音が、虚ろな空気を彩っている。湖沿いで最後の休息を終えた事で、残りは目的地まで一気に行く事にした。

ただ、レイはエステルの後ろ姿を見つめながら、先程のことを思い返していた。エステルが涙を流した時のことを。


だが、涙は本物の人間の証しではないと、レイは意識的に否定していた。レイが彼女と共に旅を始めてから三ヶ月が過ぎ。思い返せば二人は共に色々な事を経験してきたのだ。その過程でエステルという〝人形〟に感情が宿ったとしても、何らおかしくはない。

それほど二人は密な時間を過ぎしてきたのだから、とレイはこれまでの旅を思い返していた。


最初の数週間は比較的平和な旅だった。小さな村々を通り過ぎ、エステルは人間社会の慣習に戸惑いながらも、少しずつ適応していった。レイは彼女の素直な質問や観察に、時に困惑し、時に笑い、そして時に深く考えさせられた。


「人間はなぜ嘘をつくのですか?」とエステルが尋ねた時、レイは答えに窮した。

旅の道中、二人は様々な人々と出会った。商人、旅芸人、巡礼者。それぞれが自分の物語を持っており、エステルはそれらを通じて人間の多様性を学んでいった。


最初の大きな挑戦は、イストリア公国の国境で起こった。厳重な検問所で、エステルの正体を隠すのに苦労した。レイの機転と、偶然出会った商人の助けで何とか通過できたが、この経験は二人に旅の難しさを実感させた出来事だ。


アザリアスの学術都市では、アバロンの紹介状のおかげで図書館に立ち入ることができた。そこでレイは物質変容の古い文献を発見。それは直接的な解決策ではなかったが、新たな手がかりとなった。


また旅の半ばで、深い森の中で道に迷った事もあった。その時、エステルの剣術の腕前がレイを危険から救った。獰猛な魔獣との戦いで、剣を手にしたエステルは本当の意味で圧倒的な強さを見せた。

しかし同時に、彼女の力の源が何なのか、レイの疑問は深まった。


「エステル、お前は本当に何者なんだ?」レイが問いかけると、エステルは静かに「私にもわかりません」と答えた。彼女が食事をしなくても、水分を取らなくても生きていける事を旅の中でレイは実感していた。

では何が、どう、彼女(その人形)を動かしているのか、レイは考えさせられた。


旅の後半に入ると、レイとエステルは徐々に東部の山岳地帯に差し掛かっていた。気候は厳しくなり、道のりは険しさを増していたある日。

二人は山岳民族の村に立ち寄った。そこでエステルに譲った剣に刻まれた模様が、古代の守護神の印であることを知った。


村の長老は畏敬の念を込めて「その剣は、かつて儂らの先祖が持っていたものに似ている」と語った。

この言葉に、レイとエステルは新たな謎を抱えることとなる。


そんな山岳地帯を抜けようという頃、二人は予期せぬ雪崩に巻き込まれた。危機一髪のところでエステルがレイを救出したが、その際、彼女の体が一瞬、剣の形に戻りかけるという事があった。

この出来事は二人に衝撃を与え、エステルの存在の不安定さを痛感させた。「もし私が消えてしまったら...」とエステルが不安そうに呟いた時、レイは何となく彼女の手を握っていた。


旅の終盤、彼らは古い遺跡で野営することになった。そこでエステルが夢を見る。若い少女が彼女(剣)を手に取り、優しく微笑む姿だったという。

目覚めた時、エステルの頬が濡れていて、それが何なのかとレイは思っていた。思えばあれがエステルの最初の変化だったのかもしれない。


ザフィリア共和国の砂漠地帯を横断する頃には、二人の絆は目に見えて深まっていた。言葉少ないエステルの僅かな表情の変化を、レイには手に取るようにわかるようになっていた。


そして旅の終わりが近づくにつれ、レイの中に葛藤が生まれ始めた。エステルを元の姿に戻すことが本当に正しいのか?彼女にもし感情があるなら。人の姿でいることを望むならば……などと、要らぬ事をレイは考えたが、その思いを口にすることはできなかった。


ただ、一週間程前。やはりエステルは人形なのだと感じさせる出来事があった。

二人が、海賊たちが支配するという港町に着いた時。そこはまさに今、魔物に襲われ凄惨な戦場と化していた。そこでのエステルの、まさに絶望の元に舞い降りた救世主の如き活躍だった。


エステルの剣が最後の魔物を倒した時、彼女の周りには無数の魔物の死骸が転がり、彼女が一人で街を救ったことを示していた。しかし同時に、街路には魔物に殺された住民たちの遺体が散乱していた。

その中を歩き始めた彼女に「エステル...待ってくれ!まだ生きている人がいるかもしれない!」とレイは声を上げたが、エステルは冷淡な瞳で言った。


「魔物の討伐は達成されました」


彼女の無感情な声音、血に染まった銀髪、そして死体の山を背にした姿に、レイは戦慄を覚えた。

エステルは振り向く事無く歩き出し、血溜まりの中を平然と渡り、死体を踏み越えていった。人間の命の重みなど全く理解していないかのように。


その時レイは震える足で彼女の後を追いながら、胸の奥に込み上げてくる複雑な感情と戦っていた。

エステルは確かに人を守る為に戦ったが、その過程で見せた冷酷さは、彼女が人形である事を痛烈に思い知らせるものだった。


こうした旅を経て、レイはエステルに対して様々な感情を抱いていた。いい加減、精神的な疲れすら感じている。

彼女が人なのか物なのか、その答えはまだ出ていないが。やはり今の所、レンにとって彼女は人間らしい人形なのだろう……という域を出なかった。


しかし、それはエステルとて同じであるはずだ。今でも剣であるとふるまっている。しかし、明らかに何かが変わり始めているのだとレイは感じていた。そして、それは唐突に始まった────


無心で歩いていると足元の枯葉が微かに揺れた。レイは無意識のうちに立ち止まり、視線を上げた。

すると、そこには逆光に包まれたエステルの姿があったのだ。レイの心臓が跳ねた。

エステルが、剣を抜いていたのだ。


「な……」言葉を放つ間もなく、エステルが剣を振るった。レイは身を翻し、それを避ける。が、エステルの勢いは止まらなかった。


「お前、止めろ!冗談じゃ済まないぞ」

レイの叫びも虚しく、再び剣が振り下ろされる。全力ではないのか、レイでもその動きになんとか反応出来た。

エステルは無言のまま、剣を振るい続ける。

レイはあわや斬られるところだった。その一撃があと少し速ければ、レイでは交わせずアッサリと命が無くなっているだろう。


「まさか、やっぱりさっきの事、怒ってるのか!?」


エステルの目には、いつもと違う冷たい光が宿っていた。後ろに退いたレイは、地面を這う枝につまづき、背中から倒れ落ちた。視界が揺れる中、エステルの銀髪が風になびいているのが目に入る。

彼女は無言のまま剣を構え、そして振り上げた。


レイの感情は、とうとう爆発した。「なぜ、お前は俺を殺したがる!」

その途端、レイの胸は異様に熱くなった。轟音と共に、周囲の樹々が次々と折れ曲がっていき、エステルが見えない何かに弾かれるように飛ばされた。

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