第117話? 番外編的な何か ジュリエッタ・ヴェルドーネ

 ※この二人のことも書いておきたかったので、リハビリも兼ねてちょっとだけ。米


※※※※※


「色々と後手に回った気がする」

 そう言った彼の深い緑色の瞳が僅かに揺らぎ、その眉間に皺が寄るのが見えた。

 放課後の静かな時間。僅かに傾きかけた太陽の下で、風に揺れる木の葉の音と生徒たちの笑い声も響いている。

 人気のない場所を探して裏庭へと回ったわたしたち――ヴァレンティーノ・レオーニ殿下とわたし、ジュリエッタ・ヴェルドーネに近づいてこようとする人間はいない。

 ただし、殿下の友人であるダンテ・パルヴィスはは別だ。彼は護衛のようにどこにでも殿下に付き従う。今もわたしたちから少し距離を取って、冷えた視線を辺りに向けつつ歩いている。真面目という文字を絵に置き換えるとしたら、きっと彼の姿を取るのだろう。


「後手ですか?」

 わたしはダンテ・パルヴィスから目をそらし、隣を歩く殿下の横顔を見つめ直した。その時、彼は裏庭の一番奥に設置されている石造りのベンチに視線をやり、制服のポケットからハンカチを取り出した。

「事実、我が国のためになるはずだったヴィヴィアン嬢もファルネーゼの手に落ちただろう? これでも、彼女には随分と甘言を囁いたつもりだったんだがね……」


 ベンチの上に敷かれたハンカチを、わたしは静かに見下ろした。

 軽く会釈をしてからそこに腰を下ろすと、わたしの隣に殿下もゆっくりと座る。ダンテはわたしたちから少し離れた場所でこちらに背を向けて足を止めている。

 彼――ヴァレンティーノ・レオーニ殿下の表情は、このところ随分と内面をさらけ出すようなものになった。他人に本音を見せないように教育されてきている彼にとって、それは好ましい変化ではない。

 それなのに、わたしの心の中に複雑な想いが芽生えてしまうのだ。こんな表情を見せるのは、わたしだけなのではないか。わたしにだけ、本音で話しかけてくれるのではないか。


 そう、わたしにだけ。


 これはわたしにとっても良くない感情だと言える。自分の胸の中に蠢く想いは、どこか暗くて醜いものだ。そう自覚できたのは本当に最近のことで、今まではこの感情を当然のことだと受け入れていた。

 我が儘であったり、利己的な独占欲をそうとも知らずに周りに見せつけていたのだろう。

 だがやっと、王族である彼の婚約者であるならば、あらゆる熱を持った感情から意識を切り離して行動しなくてはいけないと――本当の意味で理解できた。


「……殿下にしては珍しいことですわね。これまでずっと、周りの人間を上手く操ってきたことでしょうに」


 わたしだって今までは彼の手のひらの上で踊ってきた人間だ。そんな彼の手のひらから地面に降りて、やっと彼から一歩離れた場所を歩き始めたばかりだけれど。

 彼もまた、やっと気づいたのかもしれない。

 自分もまた、誰かの手のひらの上で踊らされる可能性があるのだと。


『父上に言われたんだ。僕は王子だから、自分よりも国のことを、そして民のことを優先しろと』


 幼い時にわたしたちの婚約が決まった。それは完全なる政略結婚だ。

 レオーニ王国の青い空の下、美しい王城の中庭を護衛と一緒に散歩しながら、彼は困ったように笑いながらそう話しかけてきた。


『だから、もしかしたら僕も君のことより、何か別のことを優先するのかもしれない。それを許してくれる?』


 ――もちろんですわ。


 わたしは彼の隣に立つことを許された、婚約者という立場。国のため、民のためと言われたら頷くことしかできない。物分かりの良い婚約者であるために、わたしは色々と我慢することにした。言いたい言葉を呑み込み、彼の望むように行動するようにした。

 彼の背の高さはわたしと全く変わらないのに、あまりにも大人に見えたから。

 だからわたしも精一杯背伸びをした。

 大人であろうとした。


 今思い直してみると、それはあまりにも簡単な言葉で片付いてしまう感情の流れだった。


 ――恋は盲目。


 わたしはヴァレンティーノ殿下に恋をして、彼以外何も目に入らなくなっていた。彼の言葉がわたしの心を支配していた。

 それが恐ろしいことだと気づいたのは、怒りに任せて感情を爆発させてしまった時。


 銀色の髪の毛が風に揺れながら、階段の下へ落ちていく。

 わたしが友人と一緒に廊下を歩いていた時、何があったのか知らないけれど、このグラマンティ魔法学園で働いている平民の少女が――まるで噛みつくかのように言葉を投げてきたから。

 後で知ったことだが、その子は貴族というものを憎んでいるらしかった。だから、目につく貴族全てに攻撃的なのだと有名なのだと聞いた。もしかしたら過去、どこかの悪徳貴族に酷い目に遭わせられたのかもしれない。

 それでも。

 わたしやわたしの友人に対する暴言だけではなく、殿下に対する聞くに堪えない言葉を投げられて、冷静でいられるわけはない。思わず激高して、その頬を叩いてやろうかとわたしが足を踏み出す前に、一緒にいた友人の一人が力任せに彼女を突き飛ばした。


 正直なところ、彼女の酷い言葉の羅列をわたしの頭は理解することを否拒否したようで、覚えているのは言葉の断片程度だ。

 ただ、爆発するかのような嫌悪感と共に投げつけられたそれは――グラマンティ魔法学園の中でなければ、そしてレオーニ王国内であるならば処刑されても仕方ないと言えるものだった。


 彼女は階段の上から転げ落ちながら、満足げにわたしを見上げていたと思う。まるで狂人だ。嘲笑うかのような彼女の短い声が響いて、その後で。

 彼女はその表情から敵意を消していた。

 明らかに怪我をしたようで、遅れて痛みに顔を歪めている。


 わたしはそこで、何てことをしてしまったのかと血の気が引いたものの、後に引くわけにもいかず――。


「君の妹……ヴィヴィアン嬢はともかくとして、まさか神具が君の傍にいるなんて気づかなかったのは悪手だった」

 囁くかのような声音。

 ヴァレンティーノ殿下のその言葉に、わたしは我に返って顔を上げた。気づかないうちに制服のスカートを握りしめていて、白くなった拳を見下ろしたまま、物思いに沈んでいたようだ。

 気を取り直して殿下の横顔を見つめていると、彼は僅かな逡巡の後に言葉を続けた。


「私がグラマンティに入学する前に、ライモンド王国に行ったのだけれどね。私はそこで、先見の杖に会った」

「先見の杖。ライモンド王国の未来を見通すという神具ですわね?」

「ああ。そこで忠告は受けていたんだよ」

 殿下は僅かに首を横に振り、疲れたような笑みをこちらに見せる。「私が手に入れられるものは少ないと言われた。分岐点はいくつかあり、そこで選び間違うと二度と手に入らないとも。だから、私は分岐点と思われるところでヴィヴィアン嬢を切り捨て、君を選んだ。これは間違ってはいないと断言できる。君のことだけは失いたくなかった。それでも、その前にどこか……分岐点があったのかもしれない。神具を手に入れられる可能性があった分岐点――」

「殿下」

 わたしはそこで殿下の台詞を遮ろうとしたが、そんなわたしに気づいていないのか、彼の視線は宙を彷徨ったまま彼の独白のような言葉が続いた。

「いや、それとも、君が神具と一緒にいることは僥倖とも言えるのか……」

「それは聞き捨てなりませんわ」

 わたしはベンチから立ち上がりながら、そっと殿下の耳元に屈みこんで強めに発音した。「わたしはあの子を、殿下の道具にさせたくありませんもの。今の台詞は聞かなかったことにしておきますわね?」


「珍しいね?」

 彼の唇はわたしの耳のすぐ横にある。

 だから、彼の困惑が容易く聞き取れた。

「君が神具にそこまで入れ込むとは思わなかった。神具は道具だよ。人間の手に寄って使われるべき、人ならざるものだ」

「それでも、あの子は人間にしか見えませんもの。人格だってありますわ」


 あの子――リヴィアを傷つけてしまった負い目もある。だから自分ができることでお詫びとなれば……と考えたこともあったけれど、でも、それ以前に。


 あんなにもまっすぐわたしのことを見つめてくれる存在はなかなかないと思ったから。損得勘定など抜きにして、ただ単純に好意を向けてくれているのは――やはり、心地よいんだもの。

 リヴィアのことを大切にしてあげたいと考えてしまう。

 彼女は人間ではなくて神具だと解っているのに。


「だったら、気を付けてあげないと」

 やがて、殿下がわたしの肩を軽く押して苦笑の浮かんだ唇を見せた。

「気を付ける?」

 彼もわたしと同じようにベンチから立ち上がり、薄く紅色を帯びた空を見ながら続けた。

「君が入れ込んでいる神具は、リカルド・フォレス先生と婚約した。このまま何も問題なく、いつか彼女が結婚して子供が生まれたら、それはかなりの確率で」

「アンブロシアになりますわね」

「ここだけの話、先見の杖の肉体はそろそろ寿命を迎えると思う」

「え? そうなのですか?」

 わたしはそこで眉根を寄せ、ヴァレンティーノ殿下は小さく頷く。

「私が会った時もかなりの高齢だったからね。彼女が亡くなって神具の核に戻ってしまえば、ライモンド王国としても一日も早く新しいアンブロシアを手に入れるために動くだろうし、もうすでに動いている可能性がある。ただ、君も知っているだろうが、アンブロシアを見つけるのは至難の業だ」


 ――アンブロシアには人権がない。

 人身売買が禁止されている国がほとんどだと思うけれど、その中にアンブロシアは含まれないのだ。ライモンド王国が動かなくても、もしもリヴィアたちの間にアンブロシアが生まれたら――誘拐して高値で売ろうとする人間も出てくるのだろう。

 何しろ、神具となる前のアンブロシアは無力だから。

 リヴィアがもしもアンブロシアを産んだとしたら――。


「でも、彼女の傍にはフォレス先生がいらっしゃいますから」

「先生には授業がある。一日中、傍にいるわけではないよ?」

「リヴィアだって、攻撃型の神具ですわ」


 そう言いながら、どこか抜けている感じがする彼女の笑顔を思い出すと不安が募る。万が一ということを考えると、確かに――。


「殿下。わたし、急用を思い立ちましたので、ここで失礼いたしますわね」

 何か、わたしにできることがあるだろうか。落ち着いてよく考えなくてはいけない。

 自然と自分の表情が強張るのを感じて、何とか殿下に微笑みかけると、最近よく見かけるようになった苦笑が返ってきた。

「本当、君は変わったね」

「あら、女性はたくさんの裏の顔を持つ生き物でしてよ?」


 そう返しながら、間違いなく自分は以前と変わったと自覚していた。

 リヴィアの存在もそうだけれど、最近、よく会話するようになった学園生たちのことも、守ってあげたいと考えるようになった。


「たまには私のことも思い出してくれると嬉しいね」

 ヴァレンティーノ殿下はわたしの肩を軽く叩いた後、そう言ってダンテの方へ歩いて行ってしまう。つい、「いつだってわたしは殿下のことを考えているのに?」と言葉を投げると、「よく言うよ」とこちらを振り向かず返事があった。

 今のわたしたちは奇妙な距離感だと思うけれど、それが心地よい。


 殿下もそう感じてくれていると嬉しいのだけれど。

 どうなのかしらね。


 ――それから。


「ジュリエッタ様より素敵な女性を紹介してくださいぃぃぃ……」

 わたしが寮の部屋に戻ると、まるでそれを狙っていたかのようにリヴィアがやってきた。まだ陽が完全に落ちていない時間帯で、夕食の時間までは余裕がある。

 でも。

「着替えるから離れてちょうだい」

 わたしは制服姿のまま、リヴィアにぎゅうぎゅうと抱き着かれてソファに座り込んでいる状態だ。そして、いつものごとくダフネがお茶を淹れてテーブルの上にカップを並べてくれている。

「お嬢様より素敵な女性とは難しいことをおっしゃいますね」

 ダフネは眉根を寄せてそう言うと、リヴィアがぐりぐりと頭をわたしの胸に押し付けてきて首を振り始めた。ちょっとやめてもらえないかしら。くすぐったいのよ。

「必死なんです。本当に必死なんですよ」

「だから離れてって」

「まずいんです。先生が本気を出してきたというか、この間、わたしの意志に反して……何と言うか、でででで、デートになったというか。先生と街中で、ふ、二人きりでお茶してきたというか、このまま本当に結婚への道に一直線になっている気がして」

「いいじゃないの。結婚してしまいなさいよ」

 わたしはリヴィアの身体を押しやることを諦め、その短い銀色の髪の毛を撫でた。艶やかで猫みたいな感触で心地よいのだけれど――。

「駄目ですよ! わたしは絶対、可愛い女の子と恋愛して幸せになるって決めてるんです!」

 がばりと顔を上げてわたしを見たリヴィアの双眸には、必死そのものの炎が灯っていた。

「でも、わたしより素敵な女性を紹介しろだなんて」

 わたしが低く唸りながら首を傾げると、目に入れたくない存在が勝手に話に割り込んできた。


「ジュリエッタ様より素敵な女性なんてたくさんいるでしょうに。例えば、わたしとか」


 そう言ったのは、頭の中が残念な元・義妹――ヴィヴィアン・カルボネラだ。リヴィアがわたしの部屋を訪ねてきたと同時に、背後から姿を見せた彼女も無理やり押し入ってきた。本当に迷惑で仕方ない。

 彼女だって、自分が招かざる客であることは理解しているだろう。

 だって、彼女の前にダフネはお茶を置いていない。

 それは、早く帰れの意味。


「……」

「……」

 わたしはその客に対して無言だったけれど、リヴィアも無言だった。

 リヴィアだって連れてきたくて連れてきたわけじゃないのだろう。リヴィアも迷惑そうにヴィヴィアンを見やり、深いため息をついてからまたわたしの胸に頭を押し付けてきた。

「ジュリエッタ様より可愛くて、ツンデレ気質な女の子はなかなかいないかもしれませんが、それでももうちょっと頑張ってみたいんです! 恋がしたいんです! 助けてくださいよ!」

「ちょっとリヴィア! 人の話聞いてる!?」

「それはもちろん、紹介できるものならしているけれど」

 わたしもリヴィアもその雑音を聞き流していると、ソファから立ち上がったヴィヴィアンが無理やりリヴィアを引きはがそうとしてきた。リヴィアの腕を掴んで、その眦を吊り上げるけれど――残念ながら、(認めたくはないけれど)男性に好かれそうな可愛らしい顔立ちをしているから迫力はなかった。

「お姉さまよりわたしの方が胸があるのに!」

「いいところは胸しかないじゃないですか!」

「何ですって!? 自分の胸も見て言いなさいよ!」

 もの凄く低俗なことを言い合っているリヴィアとヴィヴィアンを見ながら、わたしは心の中で決めたことがある。


 面倒だから、早いところリヴィアとリカルド・フォレス先生の婚約の外堀を埋めておこう、と。いっそのこと、この学園内に二人の新居を作ってしまえばいいのではないかしら。別々の部屋で暮らしているから、二人の関係も進展しないのよ。

 誰に相談すればいいのか――。


 わたしはそっとダフネに目配せして、後でこの件について相談に乗ってくれるよう、合図を送っておいた。

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