第114話 誰だって寿命があって

 オスカル殿下の肉体から弾き出された幽霊は、少しだけ状況を把握するのに時間が必要だったらしい。それでも、先生の言葉が聞こえたのか困惑したように首を傾げ、ハッとしたように逃げる態勢を取ったのだけれど。

 でもそれは、リカルド先生の攻撃――攻撃にも見えないくらいの、ほんの一薙ぎで終わる。

 神具になった俺にも、その感触は伝わった。さくり、と切り裂く音。柔らかいものが断ち切られる感覚。

 そして先生は、もう終わったと理解したのか俺――神具に人間に戻るようにと促した。その途端、俺は地面に足を付けて立っていて、ケルベロス君が俺に巨大な躰をこすりつけてきていた。


「嘘でしょ?」

 うすぼんやりとした幽霊の輪郭は、今にもその境界線を失いそうなほど弱々しい。

 暗闇の中で、今までで一番頼りなげな姿を見せた彼女は、ちょうどお腹の辺りを一刀両断されて、まるで砂糖か何かが溶けるかのように、下半身は消えていった。

 上半身も、じわじわと形を失う。

「……わたし、消えちゃうの?」

 少女は泣きそうな顔でブルーハワイの方へ目をやった。「これが終わりなの? 何のためにわたしはここに存在していたの?」

『知らんな』

 カフェオレさんの言葉は冷たく、短い。彼女に興味など一片も持ち合わせていないと言いたげな様子で、鼻で嗤う。

「でもわたしは」

 おそらく、消滅する前の僅かな力。幽霊はカフェオレさんに近づこうとしたんだろう。でも、そんな力もなく、その場で僅かに首を振るだけしかできずにいた。

「わたしは、それでも意味があった。生きていることに、死ぬことに意味があった」

『そう思いたいだけなのだろうが、哀れなことだ。だが、ほとんどの人間に生きている意味などない。何の価値もない』

 カフェオレさんの言葉は容赦がない。人間味らしいところを感じさせないのは、最初からずっとそうだ。

「でも、メルキオーレ様は……」

『そうだな、感謝したよ』

 それでも、少しだけ彼の口調が和らいだ気がした。『君の犠牲に感謝した』

「そう、よね」

 少女はそう言って笑ったが、泣いているように見えた。そしてそのまま、消えたのだ。きっとおそらく、永遠に。


 ただ、彼女が消えてから、カフェオレさんは短く言った。

『女は嘘を信じたい生き物だ。本当に哀れだな』

 どことなく感傷的な響きも感じられたのが意外だった。きっと、最後のあの言葉はリップサービスってやつだろう。ほんの少しでも、彼女に同情したんだろうか。カフェオレさん――メルキオーレ・ロレンツィの記憶とやらは。

 俺がじっと彼の横顔を見ていると、その双眸がこちらに向いて、馬鹿にするような顔をする。

 何だ、何が言いたい。

 俺が眉間に皺を寄せていると、カフェオレさんはダミアノじいさんに目をやって苦々しく笑った。

『これでいいか? もう呼び出さないでくれると助かる』

「それは約束できんのう。お主が造った魔道具、呪具がこの世界に存在する限り、何か問題を起こすかもしれんし」

 すると、カフェオレさんはわざとらしくその胸を手で叩き、揶揄するように続けた。

『私が表に出れば出るほど、この身体を操るのも慣れるぞ? そのうち、また乗っ取れるかもしれんしな』

「それは無理じゃろ」

 ふぉふぉ、とじいさんの笑い声が暗闇に響く。「お主は弱ってきておる。いつか完全に消えるじゃろう。先見の杖の力を借りんでも、未来が見えるぞい」

『はっ』

 カフェオレさんは軽くじいさんを睨んだ後、ゆっくりと目を閉じる。そして、その目がまた開いた時、そこに映る輝きは違うものに変わっていた。

「……何があったのか訊いてもいいでしょうか」

 そう言ったのは間違いなくブルーハワイで、明らかに異常な状況にあると理解している人間のそれである。でも、じいさんは面倒なのか説明をラウール殿下に丸投げし、ラウール殿下はガゼボのベンチに座ったまま、お手上げと言った様子で両手を軽く上げたのだった。


 塔へ戻るための帰り道。

 俺とダミアノじいさんで暗闇の中を歩く。お掃除くんは自分の仕事に戻ってしまったし、ケルベロス君も子犬サイズに戻って俺の足元を転がるようにして走る。

 リカルド先生は、オスカル殿下を部屋に送っていくと言ってあの場で別れた。幽霊に身体を乗っ取られたことによって、随分と体力も気力も消費してしまったようだ。歩けるから一人で自室へ帰ると言うオスカル殿下に、過保護モードが発動した先生は、絶対に送ると言って譲らなかった。

 ちょっとだけ、オスカル殿下が困ったような顔をしつつも、嬉しそうなのが微妙だ。そろそろブラコン兄弟と陰で呼んでいいだろうか。バレたら後で先生に鼻をつまみ上げられそうだけれども。


「眠ってもらうつもりだったんじゃがの」

 やがて、ダミアノじいさんがため息交じりに言った。俺が少しだけ、首を傾げて見せると、俺の困惑に気づいたじいさんが苦笑した。

「神具によって魂ごと消してしまった。完全なる消滅は、死とは違うんじゃ。お主みたいに、死んで誰かとして生まれ変わるなんてこともないじゃろうな」

「そう、なんですか」

 ……それは何と言ったらいいのか解らない状況だな、と思う。

「しかし、仕方ないじゃろ。あれはあれでよかったのかもしれん。長く世界を見すぎるというのも、苦痛じゃっただろうし。それに、わしとしても安心じゃ」

「おじいさまとしても?」

「わしも単なる人間で、寿命がある。この学園に害をなすかもしれんものが存在していると、死ぬ直前になって悔やむじゃろ? あの時、消しておけばよかった、と」

「おじいさまが……死ぬ……」

 俺はその時、思い切り変な顔をしただろう。驚いた、というか、何だか予想もしていなかったというか。

 ここはファンタジー世界で、じいさんとかリカルド先生とか、この世界において重要な立ち位置の人間はよほどのことがない限り死なないだろうと思い込んでいた。

 でも、そうなんだよな。

 誰だって寿命があって、ダミアノじいさんは誰より健康に思えるけれど、きっといつか寿命が尽きる時がくるんだろう。

 寂しいけれど、それが現実だ。


 寂しいけれど。


「何で泣きそうなんじゃ?」

 ダミアノじいさんが、足をとめてしまった俺に気づいて戻ってくる。そして、いつもの飄々とした顔で俺を覗き込み、にやりと笑う。

 だから俺は、素直に応えた。

「家族を失うのは厭だな、と思いまして」

「家族か」

 じいさんは俺の頭を撫でる。その節くれだった指が好きだった。損得とか関係なく、じいさんは俺によくしてくれた。俺が転生して、じいさんと一緒に生活できたのは幸運だったと思っている。

 一歩間違えば、変な奴に狙われて、ラウール殿下よりも酷い男が俺の主になっていたかもしれないわけだ。もしそうなっていたら、きっと俺は人間のような生活なんてできず、この世界を恨んでいたのかもしれない。

 リカルド先生が神具の主でよかった。

 先生は何だかんだ言って俺に優しいし、酷い命令はしない。人間扱いしてくれる。それだけでも充分、俺は恵まれている。

「まあ、わしが死んでも、お主は新しい家族を作れる。いつか子供を産んで、未来を託して死んでいける。それは幸せなことじゃぞ?」

「でも、私が……産むのは怖いです。むしろ、結婚しないまま一生を終えてもいいと思っているんですが」

 むう、と唇を尖らせると、かっかっか、という笑い声が辺りに響いて。

「一人で死ぬのは寂しいもんじゃぞ? だからその辺は、リカちゃんに頑張ってもらおうかの」

「えええ……」


 確かに、一人で死ぬのは寂しいし怖い。

 一度経験しているから解る。孤独の意味や苦痛も。そんな経験をしたくないから、人間は伴侶を作るんだろうか? せめて寂しいと感じない死に方をするために?

 でも、だからって適当な相手と結婚するのはどうなんだ。

 随分と外堀が埋められているけれども、俺はリカルド先生に恋愛感情を抱いているわけではない。それにきっと、先生だってそうだ。


「そうだな、それについては一つ提案がある」

 翌日、朝食の場でリカルド先生にさりげなく話をしてみた。婚約破棄の可能性について、完全に消えてしまったのだろうか、と。

 すると、先生は少しだけ考えた後、こう言った。

「私もお前はまだ子供だと思っているし、結婚する時期にしてもまだ先だ、という考えがある。だが、もしもこの先、本当にお前が誰かを好きになったのなら、そして付き合い始めることができたなら、婚約は解消しよう」


 ――えっ、マジで!?


「ただ、期限は決めるべきだろうな。大体、女性の婚期というのは十代後半が多い。だから、様子を見るにしても……長くて三年、といったところか」

「三年」

 俺は低く唸った。

 三年を短いと思うか、長いと思うか。

 それでも、新しい出会いを作るには充分な時間だろう。

「悠長じゃの、リカちゃんは」

 ダミアノじいさんは呆れたように笑うけれども、俺にとってはありがたい申し出である。

 しかし、リカルド先生はその場に爆弾を落とすのを忘れない。

「だが、お前は一つ誤解している。私はお前のことを気に入っていると言っただろう? それは、単に神具としてだとかは関係ないし、下手な相手と結婚したくなくて逃げるための手段でもない。だから、三年待たずして私が『その気』になったら、手を出させてもらうがな」


 ――えっ、マジで!?


 メス堕ちという言葉が浮かんだのは、この際、全力で忘れよう。

 俺はそんなことにはならない。ならないはずだ。そうだよな?

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