第102話 来てくれたの?

 巨大な魔物は背中から裂け、その肉は溶解し黒い水となって地面へと流れ落ちる。

 ダミアノじいさんの警告の声に、即座に反応してその水が届かない場所に逃げた者もいれば、逃げ遅れた者もいた。しかし、迫りくる穢れた水は全て沈黙の盾さんが防いでくれる。触れたらヤバそうな黒い水は、人間を呑み込むことのないまま流れていく。

 リカルド先生も安全な場所にまで下がり、隣に立つダミアノじいさんと『それ』を見上げた。


 一瞬の閃光が空気に溶けて消えると、魔物の背中を割って出てきたものがはっきりと見えた。それは巨大な木。木の幹そのものが発光しているようで、細かい光の粒が明滅しているようにも思えた。

 その光の木はゆっくりと天を目指し、上へ上へと伸びていく。枝を増やし、葉を茂らせる。広がれば広がるほど、辺りの空気が清涼になるようだった。

「……何じゃ、これは」

 じいさんが茫然とそう言ったが、すぐに慌てたように右手を挙げた。「結界が壊れる前に解除するぞい」

 その時、伸びた枝が結界――この体育館のような壁に当たって、魔力と魔力のぶつかり合いがあった。その衝撃が皆の身体に伝わり、また沈黙の盾さんが反応、騎士たちを守る。

 そしてじいさんが結界となるこの建物を消し去ると、先ほどまでの魔物との戦いなど夢だったのではないかと思えるほどの青い空が現れた。


「死んだのか」

 気づけば、先生の傍にラウール殿下が歩み寄り、困惑したようにそう声をかけてきていた。彼の視線の先は、木の根元だ。

 黒い水は地面に吸い込まれたのか、結界が消えた中庭の土を黒く染めている。しかし、巨大な木の根がさらに地面の中にしっかりと張りめぐらされていくと、その黒い穢れはまるで水分が木に吸収されるように、消えていくのだ。

 そして、姿だけではなく魔物の気配も完全に消え去り、残ったのは白く輝く巨大な木だけ。


 先生が剣の柄を握る手を緩めると、自然と俺も人間の姿に戻る。

 誰もが何があったのか理解していなかったし、どうしたらいいのか解らなかっただろう。

 結界の片隅で見守っていた森男、いやクレオ嬢が茫然と木を見上げたままのアデルに駆け寄り、お互いの無事を確認した後にこちらに視線を投げてくる。何があったのか説明を求めるような視線だったが、先生もじいさんも理解などしていなかった。


 でも。


「……ヴィヴィアン様?」

 俺はその巨大な木の根元に駆け寄ると、ざらついた幹に手を置いて声をかける。

 魔物がいなくなった――死んだ?――後に、ヴィヴィアンの姿がない。つまり、これはどういうことなんだ?

 さらに手に力を込め、目を閉じる。覚えのある魔力が残っていないか探すと、心臓がどくりと跳ねた。


 間違いない、奥にある。

 ヴィヴィアンの気配だ。ただ、もの凄く微かにしか感じない。まるで眠っているかのように、うっすらと存在しているだけだ。


「ヴィヴィアン様、聞こえますか」

 木の幹に頭を押し付け、そう繰り返す。意識を伸ばして、木の幹の中がどうなっているのか探る。

 頭の中に浮かび上がるのは黒い闇。しかし、悪い気配はしなかった。少なくとも、この木は敵ではないのだ。我々に敵意など持たず、ただ静かにここに立っているだけ。


 でも、どうして?

 何が起こってるんだ?


「先生」

 俺はそこで振り返り、リカルド先生を呼ぶ。すると、先生とダミアノじいさんが俺の傍に近寄り、俺と同じように木の幹に触れてそれぞれ難しい顔をする。

「これは普通の木ではないようじゃの」

「ヴィヴィアン様は食べられてしまったということですか?」

 心臓がきゅっと縮んだような感覚に、俺は顔を顰める。しかし、リカルド先生が俺の頭を軽く撫で、首を横に振った。

「いや、まだ間に合うはずだ。リヴィア、もう一度神具になれ」

「あっはい」

 素直に従う俺。

 先生はまた剣となった俺を握り、左手でもう一度だけ木の幹を撫でた。そして、酷くゆっくり、神具の俺を木の幹に突き刺したのだった。


 僅かな抵抗感はあったものの、酷く呆気なく剣先が埋まる。木の幹ではなく、もっと柔らかいものを裂いている感覚。


 何故か、俺の意識も冴えていく。

 先生が木の幹の中を探るように魔力を流し込み、ヴィヴィアンの居場所を探っている。その魔力を受け、俺も持てる魔力をそこに合わせる。

 すると、はっきりと周りが見えてくるのが不思議だった。


 ――痛いのは、厭。


 ふと、遠くからそう聞こえた。


 ――身体が痛い。

 そう力なく言った声音は、間違いなくヴィヴィアンのものだと思えた。少しだけトーンが違うような気もしたけれど、魂の色は同じなのだ。

 黒い髪の毛の痩せた少女が、暗闇の中でしゃがみこんでいるのが解る。彼女は俯いて、お腹の辺りを抑えている。震える手は細く、スカートの裾から覗いている足は華奢というより痩せすぎていて見ている方が不安を覚えるほどだ。


 ――痛いよ、お母さん。


 でも、彼女の周りには黒い影が踊っている。楽し気に、くるくると踊って踊って、時々笑い声を上げる。


『死ねよ、ブス』

『あんたが邪魔なんだって解んないの?』

『くっさーい。貧乏だからお風呂入れないの? そんなんで生きてる価値ある?』


 そんな無邪気な悪意が少女に向けられ、必死に耳を両手で塞いで身体を丸め、身を守ろうとしている。学校の制服らしいスカートの裾から見える足は、ところどころ痣が見える。何らかの暴力によるものなのかもしれない。


 そんな彼女に、この空間は優しい手を差し伸べるのだ。


『守る』

『ここは安全』

『眠る』


 男女の区別もつかない、茫洋とした声が響く。直接頭の中に響くようなその声は、魔力の塊のようだ。人間でも魔物でもない存在の声。

 少女はそれを聞いて、薄く微笑む。悪意の声から逃げるため、それに手を伸ばそうとする。守ってくれる何かに縋り、逃げ込もうとする。


「ヴィヴィアン様!」

 俺はそこで思い切り叫んだ、気がする。

 俺は今、神具の姿だ。だから、実際に口を動かして叫んだわけじゃない。魔力を使って意識の声を響かせただけ。

 でも、間違いなく彼女に届いたようだった。

 少女はそこで顔を上げ、見えない何かを見つめようとする。


「リヴィア?」


 やっぱりヴィヴィアンだ。

 日本人としての、平凡な顔立ちの少女。絶望の色に染まった瞳には何の光もなく、顔色は生きているとは思えないくらい酷いものだ。

「迎えにきました! 一緒に帰りましょう!?」

「リヴィア」

 そう震える唇が俺の名前を呼んだ。

 そして、ゆっくりとその髪の毛が黒から薄紅色に変わっていく。日本人の顔じゃなくて、ヴィヴィアン・カルボネラとしての可愛らしい顔立ちへ。服装も、こちらの世界のものへ。

「……来てくれたの?」

 ヴィヴィアンの顔がくしゃりと歪む。大きな瞳からあふれる涙を乱暴に拭う。

 その子供っぽい仕草が妙にアンバランスで、弱々しい存在に思えた。

 彼女に何があったのか解らないが、もしかしたら本当はこの表情の彼女の方が、素の人格なのかもしれない。

「約束しましたよね。だから、助けに来たんです」

 俺はそこで、さらに意識を集中させる。神具から人間の姿に戻ってしまえば、きっと俺もここに取り込まれてしまう。

 だから、必死に願う。

 俺の声がもっと彼女に届くように。

 実体じゃなくてもいいから、ぼんやりとでもいいから、俺の姿が彼女に見えるように。


 すると、リカルド先生がそれに応えてくれたようだった。

 唐突に俺に流れ込む魔力が膨れ上がり、ぼんやりと辺りを照らし出す光がそこに生まれた。俺の視線の先には、まるで幽霊のように透き通った俺の両手があって。プロジェクターか何かで映し出されたかのような、どこか霞んだ姿の俺がそこにはいた。

 多分、それがヴィヴィアンにも見えたのだろう。

「リヴィア」

 そう言いながら、肩を震わせてさらに泣く。幼い子供のように。


「もう大丈夫ですよ。だから、帰りましょう」

 俺の幻影が彼女の傍に立つと、彼女は何度も頷いて立ち上がる。泣き顔のままではあったけれど、やっと笑顔になって――俺に手を伸ばす。

 そして、お互いの手が触れたと思った瞬間に、また辺りに閃光が走った。


 気が付けば、俺はリカルド先生に背後から抱きしめられるような格好で倒れていて、さらにその上にはヴィヴィアンが倒れこんでいるという状況。


 そして頭上には、真夏の青い空が広がっていた。

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