第100話 幕間 14 ヴィヴィアン

「……行っちゃったなあ」

 急に静かになってしまった空間で、わたしはぼんやりと上を見上げながら一人で笑う。今なら誰も見ていないから、泣いてもいいはずだ。

 リヴィアはきっと、わたしを助けようとしてくれるだろう。それが無理だと思っても、やっぱり彼女は主人公枠だから。

 でも、これはいくらなんでも無理。多分、わたしに残された時間はもうない。

 わたしの右足は魔物に呑み込まれている。このまま放置すれば確実に吸収されていき、そのうち完全に消化されるんじゃないだろうか。まるで蛇に呑まれたネズミのように、じわじわと身体が溶かされていくんだ。


 一人きりなのは慣れている。

 むしろ、一人きりが心地よかった。

 誰の視線も気にしないで済む。上辺だけの同情も、その場限りの優しい言葉も、何の役にも立たないんだから。

 自分を守るのは自分だけ。

 他人を信用するなんて馬鹿のすることだ。

 だから、これでいいんだ。


 期待するな、期待するな。誰もわたしを助けてはくれない。

 前世で学んだことの一つがそれだったはずだ。


 わたしの左手の上に出した魔法書は、まだかろうじてそこにある。魔法もあと少しくらいなら使えるだろう。

 でも、右足から魔物へと吸われていく魔力は、少しずつ大きくなってきているようだ。右足の感覚は鈍くなり始めていて、今は太腿の辺りまで痺れのような感覚が広がっている。せっかく呪具を使って戻ってきた魔力も、あっという間に残り僅か。

 魔法書を出していられなくなるくらい弱まれば、わたしはここで死ぬんだろう。


 でも、死ぬって本当に何なんだろう。

 新しい世界に転生できるって知ったから、この世界でわたしは自由にやってこられた。死んでも次の世界があるんだもの、何をやったって怖くない。

 でもきっと、このまま魔物に吸収されたら――。

 転生なんてできないって本能が叫んでる。

 多分、魂ごと魔物に喰われて終わるんだ。

 さっきはリヴィアに死にたくないって言ったけど――。


 諦めてしまえば簡単な話でしょ?

 逆に考えてみて? 輪廻転生というものが途切れたら、わたしはもう苦しまずに済むんだ。生きるということは、何らかの軋轢を生むんだよ。だったら、死んで終わりの方がよくない? 転生なんかしなくていいんだ。

 だってそうすれば、幸せや不幸なんてものにも無縁の存在になる。

 誰かを恨んだり、妬んだり、そんな苦痛だらけの生活をしなくて済むんだ。

 きっと、それは永遠に眠っているのと同じこと。布団の中でまどろんでいるような、永遠の時間が続くだけ。

 むしろ、その方が幸せだって思わない?


 ある意味、ここはボーナスステージだったんだ。

 だって、前世では無縁だったイケメンたちと、ちょっとは仲良くなって、物語の主人公として楽しく生きられたでしょ? それがほんの少しの間でも、これは事実。

 本当の恋愛はできなかった。ちょっとだけ憧れていたけど、誰かを好きになるなんてこと、わたしにはできなかった。ゲームや小説の中で語られる恋愛模様は、作り物だ。あんな優しい言葉をかけてくれる男の子なんて、現実には存在しない。無邪気で可愛らしいだけの、健気な主人公だって存在しない。

 全部全部、嘘の上に成り立っている。


 だから、わたしはたくさんの嘘をついた。

 この世界で生きていくために、ゲームを楽しむためにたくさんの嘘をついた。

 もう充分だよね。頑張ったし、失敗したし、もう終わりでいいんだ。


 頭上はずっと暗いままだ。塞がってしまった穴は、もう何の変化もない。星も見えない夜空だと考えればいい。魔物のことは忘れて、ちょっとだけ呼吸を緩めれば全部終わる。

 本当は、もっと格好いい死に方がよかった。せっかくだから、物語の主人公らしく世界を守って死んだら来世はもっと楽しいところに生まれ変われたのかもしれないけど。

 もう来世はない。

 だから大丈夫、怖くない。

 もう苦しい世界に生まれたりなんかしない。


 わたしはそっと魔法書を閉じて、体内に戻した。抵抗するのをやめれば、じわじわと魔物の気配が強くなっていく。右足はすっかり地面――魔物の胃壁?――に沈んで、左足も呑まれ始めている。温かくも冷たくもない空間に沈む。

 痺れていた感覚は、もっと広がっていって、足だけじゃなくてお腹辺りにまで届いている。


 そして、急に思う。


 ――死にたくない。


 え、何で?


 ――喰い尽くせ。


 何を?


 ――恨め。

 ――殺せ。

 ――憎め。


 ――全てを殺せ。


「そんなこと思ってない」

 わたしは思わず声に出して言う。急激に襲ってきた寒気に両腕を抱きかかえるようにして、肌に爪を立てる。


 ――殺せ、喰い尽くせ、恨め、目の前の獲物を引き裂き、その内臓を引きずり出せ。


「違う」


 そう自分に言い聞かせようとしても、『自分の中から』聞こえてくるその黒い声に押し流されてしまいそうだった。


 ――人間の腸は美味いぞ?


「あんた誰よ! 誰がそんなこと」


 そこで、身体を襲ってきている痺れが心臓の辺りまで届き、喉が震えた。わたしの知らない声が喉をついて出る。

「殺す。喰う。殺す。喰う」

 まるで壊れたレコード、という表現がある。そんな感じ。ぎこちない繰り返しの言葉が勝手に吐き出されていく。これはわたしの感情じゃない。わたしは何も喋ってない。

 じゃあ、何なの。これは何?


 魔物がわたしの中に侵食してきている。わたしの血肉を吸収しながら、肌の奥、血管を伝って中に潜り込んでくる。心臓へ、そしてわたしの頭の中へ。

 唐突な破壊衝動は、きっとそれが原因だ。

 殺せ。喰え。虐殺しろ。

 憎め。呪え。絶望しろ。


 ――邪悪に呑まれて、『お前が』魔物になれ。


 そんな、冷たくて恐ろしい声が頭の中に響き渡る。

 憎悪に侵食されてただ苦しむだけの魔物になって、死ぬことも許されない存在になるのだと誰かが叫ぶ。

 前世では周りを憎んで、苦しくてつらくて自分で死ぬことを選んだ。終わりを、リセットを望んだから。

 でもこれからは、周りを憎み続けて狂うだけの地獄に落とされる? 終わることのない、永遠の苦痛の中に?


 違う、これは違う。わたしが望んだ終わり方じゃない。わたしは魔物になんかならない。ただ消えるの、消えるのよ?

 厭よ、こんなの。魔物になって誰かを食べるなんて厭だから。そんなの、完全なる悪役じゃないの。わたしはこの世界に、幸せなゲームの主人公として生まれたんだから!


 絶対に、厭なんだから!


「リヴィア」

 必死にわたしは声を上げる。強がりなんて言ってられない。

「リヴィア、リヴィア、リヴィア」


 お願い。

 期待なんてしてないって言ったけど、あれは嘘だから。ほんのちょっとだけ信用してるって言ったのも、間違いじゃないの。信じてる。信じてるから。

 だから、ねえ。


「助けて」


 暗闇を見上げてそう言っても、返事なんてない。


 返事なんてない。


『待っていてください』

 リヴィアはそう言った。待ってたら助けてくれる? こんな終わり方じゃなくて、別の方法で死なせてくれる?


 どうしよう。


 わたしは唇を噛んだ。リヴィアは戻ってきてくれる、かもしれない。それなら、時間稼ぎをしなきゃ。

 わたしはもう一度、左手の上に魔法書を出そうとした。でも、僅かに魔力の波がそこに揺らめくだけで、魔法書は姿を見せてくれなかった。

「じゃあ、どうしろって言うの」

 わたしは舌打ちし、頭を乱暴に掻く。そしてふと思い出した。

 スカートについている小さなポケットを探ると、そこには小さな箱が入っている。わたしがもらった呪具の一つ。小さな箱の中に、種が入っている。

「どうやって使うの?」

 わたしはそれを手のひらの上に出し、乱暴に箱を開けようとした。気づかなかったけれど、檻のような箱の表面の一部に、違和感を感じる彫刻のようなものがあった。それに触れると、かちりと音がした。

 鍵が開いた音?

 小さな檻はパズルのようで、それが解けたから開く、そんな感じ。スムーズな動きで箱が開き、中から小さな丸い種が転がり落ちた。

 銀杏とか、見た目はそんな感じ。

 でも、触れた瞬間に辺りの暗闇を引き裂くような、小さな光の爆発が起きる。

 わたしの体内に残っていた、魔力の残り香のようなものを吸い取られたような感覚。それは、確かに種が『生きて』いるのだと理解した瞬間だ。


 その種を手の平の上に乗せ、囁いた。


「助けて。わたしを守って。魔物から、敵から、悪いものから」


 そう言い終わった瞬間に、種の表面に細かい文字のようなものが浮かび上がった。綺麗な光景だなあ、なんて考えていると。


「ヴィヴィアン様!」

 そう、微かにリヴィアの声が聞こえたような気がして、視線を頭上へと向ける。暗いのは同じで、どこにも穴なんてない。

 幻聴かな、と苦笑する。

 もう一度、わたしは視線を手のひらに戻すと、いつの間にか種にヒビが入っていることに気づく。その割れ目から薄緑色の芽がゆっくりと立ち上がるように伸びていった。

「聞こえますか、ヴィヴィアン様!」


 え、幻聴じゃないの?

 わたしはそこで思わずリヴィアの名前を呼ぼうとする。


 でも、口を開いた瞬間、目の前にまた光が弾けた。目を開けていられないほどの閃光。それはまるで洪水のようにわたしを飲み込んで――意識が飛んだ。

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