第99話 信じてあげるから

 俺は恐る恐る、地面に落ちている腕へと近づいた。先生の千切れた腕だ。

 じっと見つめていると、地面――魔物の胃壁なのだろうか、じわじわと蠢いて触手のように変化し、先生の腕を取り込もうとして俺は慌てて叫ぶ。

「駄目です!」

 それは咄嗟の行動だ。先生の腕を掴み、胸の中に抱き込む。怖かったけど、一度触ってしまえば割り切れる。大丈夫、腕はただの腕であって、怖がる必要なんてない。むしろ、守らなきゃいけない大切なものだ。

 すると、黒い触手が苛立ちのような感情を俺に向けたのが解った。餌を喰いたいと考えているのが丸わかりだった。

「……それ、リカルド先生の、なの?」

 俺の一連の動きを見つめていたヴィヴィアンは、いつもより低い声で訊いてきた。だから、俺は頷いて見せる。

「持ち帰りたい、ですね」

 そう言いながら、この世界では千切れた腕も魔法で元に戻せるんだろうかと考えた。治療魔法は教えてもらったけど、普通は怪我を治すものであって、切断されたものをつなぎ直すものじゃない。

 いや、そんなことを考えていては駄目だ。大丈夫、治ると信じよう。


「浄化魔法はどうですか? もっと放てますか?」

 俺はヴィヴィアンに視線を戻し、彼女の身体を観察した。「あの呪具はどうしました? 魔力を取り戻すための呪具……」

「今はオスカル殿下がつけてるわ」

 そこで、ヴィヴィアンの視線は自分の足に向けられた。「それに、わたしの魔力が戻ったとはいえ、まだ本当に一部だけ。そろそろ限界かな」

 ヴィヴィアンは光属性の魔法を色々と試した後なんだろう、今は俺たちの周りはとても明るくて一時的に安全に思える。しかし、よく見るとじわじわと明るい場所が狭くなってきていた。


 助けを待つなんて、悠長なことはしていられないだろう。

 まずは、やることをやってから次の手を考えろ。頑張れ俺、やればできる。


 俺はそこで、左手の上に魔法書を出現させる。俺だって攻撃魔法は使える。外からの攻撃が無理なら、内側から。これが定石。

「伏せてください」

 俺はヴィヴィアンにそう言ってから、次々に習得している攻撃魔法を打ち出した。炎で焼き尽くす。氷の刃、風の刃で切り裂く。凍らせる。色々な方法を試してみる。

 しかし、それもなかなか効果が見えない。

 俺が放った攻撃魔法を受け、確かに黒い闇がたじろいだのは解ったが、それだけだ。攻撃を受けて、邪魔なものは排除せねば、と思ったのか、黒い触手が俺を捉えようと足元から這い上がる。


「すみません、そういうプレイは大人になってからお願いします」

 そう呟きながら、必死に黒い蛇のようなものを魔法の刃で切り飛ばしていく。ふざけたような口調は、この状況に絶望しないため。

「触手プレイは見ているのが萌えるのであって、自分がやるべきものではないと思うんです」

「何言ってんのよ」

 俺の変な独り言に反応したヴィヴィアンが、顔を上げて噛みつくように言う。とりあえず、素直に「すみません」と謝っておく。ヴィヴィアンも他人事ではないんだから、俺の発言は不用意過ぎた。


 しかし、俺はそこで気が付く。

 抱き込んだままのリカルド先生の腕が、じわりと魔力を放っていること。外の世界から遮断されたこの暗闇の空間で、確かに感じる外へのつながり。

 暗闇の向こうで、おそらく先生が何かやっているんだ、と思われる波動。

 意識をさらに集中させる。すると、先生の腕が少しだけ温かく感じ――俺の視線が自然と上がる。


 ――多分、あっちの方向だ。


 俺はまた、攻撃魔法を放つ。どんな属性でもいい、その方向にリカルド先生がいるだろうと感じたから、適当に意思表示である。俺はここにいるぞ! と必死にアピール。

 それを続けていると、僅かに空間に歪みが生まれた。ひび割れのようなものが、高い位置に感じられる。

「ヴィヴィアン様、抜け出せるかも、です」

 俺は背後を見ずに、思わずそう言った。そうしている間にも、頭上で何かがぶつかり合うような魔力の動きが激しくなっていった。

 地鳴りのようなものが聞こえる。

 ひび割れが大きくなる。閉ざされた空間が無理やり広げられていくせいか、耳鳴りさえした。

 そして、ダミアノじいさんの声が遠くに響いた。

「リヴィア! 聞こえるかの!?」

「おじいさま!」

 空間がつながったからなのだろうか、俺が抱えている先生の腕の魔力がさらに強く感じられた。

「わしは優秀じゃが、長くは保たん! ここまで上がってこられるかの!?」

 その明るい口調の裏には、確かに焦りの色があった。頭上にあるひび割れは、本当に僅かな空間の穴となってそこにある。しかし、今にも閉じてしまいそうなほど、小さな綻びでしかない。

 魔法を使ってジャンプすれば、いけるだろうか。

 こういう時、ケルベロス君が傍にいてくれたらきっと簡単だったのに、今は俺一人だ。


「抜け出せる?」

 そこで、ヴィヴィアンが躊躇ったような声を上げて我に返る。振り返ると、ヴィヴィアンは相変わらず黒い泥濘に足をとられて立ち上がることもできずにいる。いや、もっとその足は地面に埋まっているような気がした。

「いけます。思いっきり引っ張りますね」

 俺はすぐに彼女の傍に跪き、思い切り彼女の足を右手で掴んで引きずり出そうとする。しかし、ヴィヴィアンが苦痛の呻き声を上げて首を横に振った。

「どうやっても抜けないのよ」

「痛くても一瞬です。我慢してください」

「無茶言わないで」

 暗闇に彼女の密やかな笑い声が響いた。余裕だな、と思ったのは一瞬で、ヴィヴィアンがこの状況に諦めているからこの態度なんだと気づいた。

「おじいさまは治療魔法でも優秀だと思います。最悪、覚悟してください」

「だから、無茶言わないで」


「リヴィア!」

 そこで、頭上からダミアノじいさんの声が降ってきたが、さっきより少しだけ遠く感じた。穴が閉じてしまうのか、と内心では慌てたものの、それを押し殺してさらにヴィヴィアンの足を引っ張る。それなのに、またずぶりと床に沈む彼女の足。もう、膝上まで埋まってしまっていた。

 片手で引っ張っているこの状況じゃ無理だ、と思って一時的に先生の腕を床に置くと、また触手が地面から生まれた。

「……しつこいですね」

 その触手を足で踏みつぶすと、ヴィヴィアンがため息をこぼした。

「あのね、リヴィア。わたしね、誰も信用しないことにしてるのよ」

「は?」

 何をいきなり、と眉を顰めると、彼女は声を上げて笑う。

「前世で散々裏切られてきたから。期待して、裏切られるのは厭なの」

「何を言ってるんですか。今は無駄話をしている場合じゃないでしょう」

「でもね」

 そこで、ヴィヴィアンは手を伸ばして俺の肩を軽く叩いた。「あなたのことは、少しだけ信用してもいいわよ。あなた、ヒロイン枠だもの、奇跡を起こしてくれるわよね」

「知りませんよ、そんなこと。それより、手伝ってください。浄化魔法がそろそろ途切れますよね?」

 ヴィヴィアンを捕えている黒い泥濘の力は、どんどん強まっているのが解る。このままだと、あっという間に呑まれてしまうだろう。


「だからね、助けを呼んできてよ」

 ヴィヴィアンは俺の耳元でそう囁いた。俺の胸に手を置き、少しだけ困ったように首を傾げながら。

「このままだと上の穴は閉じちゃうんでしょう? 早く行って、助けを連れてきて」

「ヴィヴィアン様」

 俺は一瞬だけ悩む。確かにそれも一つの選択だ。

「信じてあげるから、行ってきて」

 重ねてそう言われて、俺は心を決めた。勝負は一瞬だろう。急いで戻って、急いでダミアノじいさんと一緒にヴィヴィアンを助けに戻る。


 ヴィヴィアンを助けられる可能性は――そんなことを考えている時間はない、と立ち上がると、ヴィヴィアンが唇を歪めるようにして笑った。


「待っていてください」

 そう言って俺が跳躍の補助として風魔法を使う。人間離れした肉体を持つ俺なら、魔法を連続して使えば何とか頭上の穴まで届くはず。

 そうして必死に、閉じかけた空間の穴まで飛んで、その裂け目に飛び込む前に一度だけ見下ろした。

 随分と小さく見える、ヴィヴィアンの姿。

 俺が何か声をかけようと口を開きかけると、ヴィヴィアンが軽く手を上げて振ったのが見えた。

 彼女は俺に聞こえないと思ったのだろう、もの凄く小さく囁く。

「助けてもらえないことには慣れてるの。だから、失敗してもいいよ。……ばいばい、リヴィア」


 それは俺が言葉を失うほど、自然な笑顔だった。

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