第98話 魔物の中

「えっ」

 ヴィヴィアンが驚いたように頭上を見上げた。影が迫る、と彼女が身を竦める。

 しかしそれは一瞬で、あまりにも呆気なかった。

 魔物はヴィヴィアンを守る盾ごと、ばくり、と一飲みにした。


 ――喰われた!?


 色々な人が驚いて叫んだと思う。リカルド先生もすぐに魔物に襲い掛かり、剣をその太い首に突き立て、そのまま体重をかけて肩の辺りまで引き裂いた。

 しかし、魔物の巨大な口に飲み込まれたヴィヴィアンまでは届かない。

 ダミアノじいさんも無駄な言葉を必要とはしなかった。魔物の動きを封じる魔法を放ち、リカルド先生の攻撃から逃げられないようにする。


「腹を切り裂けば引きずり出せますか?」

 リカルド先生が少し離れた場所に立っているダミアノじいさんに訊く。

「解らんが、やってみるしかあるまいよ」

 いつも飄々としているじいさんの声にも、僅かに焦りが感じられた。短くそう言ったじいさんに頷いて見せた先生は、剣を握り直して囁いた。

「光属性の彼女は優秀な餌かもしれないが、『消化』するまで時間がかかるはずだ。いくぞ」


 それは問答無用の攻撃だった。

 先生の魔力が俺に集められる。ただでさえ、俺は強大な魔力の塊だ。それがあっという間に膨れ上がり、剣の表面をまるで火花のように弾け散る。


 魔物が吠える。

 空気が震える。

 我々を取り囲む結界すら揺らす。


 しかし、リカルド先生はやる時はやる男である。

 先生の前には神具の盾があるから、魔物が威嚇として出した風圧など何の役にも立たない。神具の力、そして魔法、腕力、持てる力全てを使って、魔物の腹に剣を突き立てた。


「硬い」

 神具の剣ですら、途中までしか貫けない。

 いや、違う。

 先生は神具の盾に守られている。そのせいかもしれないが、先生の魔力が盾の内側に留められていた。それに気づいて、先生が一瞬だけ光の盾に触れた。ほんの僅かに『どいてくれ』と頼むだけで、その盾は先生の足元へと『収納』される。

 そして、俺に向かって――神具に向けて最大の魔力を流し込み、柄を握り直して体重をかけた。


 ぐぐぐ、と魔物の体内に潜り込む剣。

 粘土を切るような重い感覚、吹き出す黒い血。先生の服があっという間に魔物の血に汚れていく。


 そして、俺はと言えば。


 剣が魔物の中に潜り込んでいくにつれ、魔物の内部が見えた。

 そこは普通の生物とは違って、確かに筋肉も脂肪もあるのに、その奥は――空洞のようだった。あるのは魔力の渦だけだ。


「リヴィア、何か見えるか」

 遠くから先生の声が聞こえる。気が付けば辺りが暗すぎて何も見えない。俺の周りにあるのは、魔物の――コールタールみたいな魔力の黒い渦。先生は剣をしっかり握っているものの、もうすでに剣の柄どころか自分の腕すら魔物の体内に埋めているようだ。魔物を大きく切り裂くことができず、何とか動かそうとしているのも解る。

 真っ暗でーす、と心の中で呟くだけで、先生には俺の考えていることが解るらしい。忌々しそうに舌打ちしたのが解った。


 とにかく、ヴィヴィアンを見つけねば。

 急がなきゃ、『消化』されてしまう? 喰われて、ヴィヴィアンの血肉どころか魔力ごと魔物のものへと変わってしまう。

 そうして俺が意識を広げていくと、魔物の体内の奥の奥、まるで巨大生物の胃の中のように黒い空洞があるのが解った。


 ここだ!

 と、俺は自分のイメージで『手を伸ばす』。今の俺は剣なんだから、本当にイメージだけ。

 でも、確かに弾力のある壁のようなものを突き破り、その空間に入り込んだのが解る。


 ヴィヴィアン様! と、俺が叫ぼうとすると、探し人が驚いたように声を上げたのが解った。


「リヴィア!? リヴィアなの!?」

 それは間違えようもないヴィヴィアンの声だ。先生にも聞こえたようで、柄を握る手に力がこもる。そして、さらにぐぐぐ、と剣先が奥へと押しやられた。

「ヴィヴィアン・カルボネラ!」

 リカルド先生が叫んだが、その声は彼女には聞こえていないようだ。

「何よ、幻聴なの!? もう、最っ低! どうやったら出られるの!?」

 混乱したヴィヴィアンが焦りの混じった声を上げている。そして彼女がめちゃくちゃに魔法を使おうとしている気配。実際に放たれた光属性の攻撃と、浄化魔法。それが魔物の腹の中でかなりの効果を生み出しているようだった。

 暗いだけの空間に光が弾け、彼女の周りだけがぼんやりと明るい。


 見えた!

 俺は必死にヴィヴィアンの方へ意識を伸ばす。

 すると、彼女は暗闇の中、座り込んでいるのが解った。立てないのだ。


「わたし、こんな死に方は厭だからね」

 ヴィヴィアンは必死に立ち上がろうとしているが、彼女の右足はまるで泥濘にはまり込んだかのようで、暗闇に沈み込んでいる。そこから引き抜こうとしても、じわじわとその暗闇がヴィヴィアンの足を這い上がり、飲み込もうとする。

「わたし、死に場所は選ぶんだから。そのくらいの自由は与えられているはずでしょ」

 ぶつぶつと呟く彼女の顔は、泣き出しそうに見えた。


 ヴィヴィアン様、と俺が呼ぼうとしても、今の俺は剣。まともに声が出せない。

 その時。


「くそ」

 リカルド先生が悪態をついたのが解った。魔物が自分の身体に刺さった剣を抜こうとしてそれが無理だと悟ったのか、リカルド先生ごと引きずり込もうとしているようだ。

 魔力を流すために、一時的に沈黙の盾の力を排除してしまったため、先生の防御力は落ちている。

 どうしよう、どうすれば。


 俺は必死に考え、俺が人間の姿に戻ったらどうなるんだろう、と思いついた瞬間だった。辺りの空間がまるで圧縮されたかのように、暗闇が濃くなった。

「リヴィア、一回、引く」

 慌てたような先生の声。


 でも、それは一瞬だけ遅かった。


 ばつん、という鈍い音が響いた。

 何かが――千切れる音がして。


 俺は、暗闇の中に落ちていた。

 ちょうど、ヴィヴィアンの目の前に落ちて、人間の姿に戻っていた。


「……何?」

 ヴィヴィアンが茫然と俺を見上げた時、ほんの少し遅れて、『それ』が降ってきた。

 とさり、という音と共に、俺とヴィヴィアンの間に落ちたのは、リカルド先生の右腕――肘から先だった。


「何よ、これ。ねえ、何? リヴィア、何」

 怯えたように後ずさろうとしたヴィヴィアンが、顔色を失って『腕』を見つめる。でも、俺がこの場にいることに安堵したのか、その表情が泣き笑いに変わる。

「ね、お願い、手伝って。わたしを立たせて」

 その声に我に返り、俺は慌ててヴィヴィアンに駆け寄った。そして、腕を掴んで彼女を立たせようとするが、彼女の右足に纏わりついた泥濘はさらにヴィヴィアンに強く纏わりついた。

「何だか解らないけど、食べられちゃうみたい。でもね、厭なの」

 ヴィヴィアンは必死の形相で俺を見上げ、俺の腕を掴む手に力を込めた。「このまま食べられたら、きっとわたし、消えちゃう。魂ごと消えちゃう。生まれ変われない。それが解るの」

「落ち着いて下さい。大丈夫です」

 俺は何の確証もないのに、そう言った。彼女が求めているのは『これ』だ。誰かに助かると言って欲しいんだ。たとえ、その可能性がなくても。

 だから、彼女を抱きしめて繰り返した。

「大丈夫です。助かりますよ」


 長くてもほんの数分だったろう。ヴィヴィアンはしばらく、俺の胸にすがりついていた。でも、ゆっくりとその呼吸が落ち着いていく。そして、のろのろと顔が上げられて、気まずそうな苦笑が漏れた。

「……ありがとう。もしかして、助けにきてくれたの?」

「もしかしなくても助けにきました」

「本当、あなたって正統派ヒロインよね。ううん、主人公枠なんだわ」


 そうだろうか。

 俺はとりあえず、何も解らないふりをして首を傾げておく。それから、彼女の右足に手を伸ばした。

 俺は神具であり、武器でもある。この黒いの、払いのけることができないだろうか。

 そう思ってそこに触れても、粘土みたいな感触と――おそらく、魔物の鼓動のようなものが伝わってくるだけだ。とりあえず、掴んで引き剥がそうとする。無理。

「浄化魔法は利きませんか?」

 俺が訊くと、ヴィヴィアンは首を横に振った。

「多分、この中はわたしたちにとって不利な場所なのよ。焼け石に水って感じで、わたしを取り込もうとするのを遅らせることはできても、それだけだわ」

「それは……困りましたね」

「でも、さっきはちょっと違った」

「さっき?」

「あなたがここにいるってことは、魔物の身体に穴を開けたってことよね?」

「ええ、はい。先生が無理やり開けました」

「その時は、少しだけ魔物の力が弱まったわ」

「と、いうことは」

「もう一度、穴を開けてくれれば」


 なるほど、と俺は頷いて見せたものの、かなりそれは難しいのではないかとも思った。だって、穴を開けることのできた神具は、今ここにいる。もう一度といっても、どうすれば?


 それに。


 先生は――怪我をしている。

 どうしよう。

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