第93話 研究欲も満たしてもらいたい

「しかし、惜しいのはお主が『普通の』人間ではなく、魂ですらない、ただの記憶だということじゃの」

 ダミアノじいさんはカフェオレさんの顔をじっと見つめ、ぶつぶつと呟く。引き剥がすことは可能じゃろうか、とか、この記憶を魔道具の中に閉じ込めて、自由に呼び出せるようにすれば便利じゃとか、その方がこの青いのも安心じゃろ、とか。

 カフェオレさんの表情も、ゆっくりと警戒したようなものに変わっていったから、目の前の白髪頭のじいさんが『やるかもしれない』と察したようだ。


「少し、見張っていてくれ」

 お茶を飲んでいた俺に、リカルド先生がそう声をかけてくる。見張るってアレをか、とじいさんたちに視線を戻すと、疲れたように先生は頷いた。

「弟を連れてくる」

「え?」

「少しは歩けるようになったんだ。介助は必要だがな」

 先生は驚いている俺の肩を叩いた後、大広間を出て行った。そして、その場に残された俺と淫乱ピンクは思わず見つめ合う。

「大丈夫なのかしら」

 やがてヴィヴィアンは不安げにそう言った後、飲んでいたお茶のカップをテーブルに置いて、落ち着かない様子で両手を膝の上に置いた。


「俺の忠犬、いや、オルフェリオは元に戻るのか、あれ」

 ラウール殿下はしばらくダミアノじいさんの傍で立って様子を見ていたが、埒が明かないとでも考えたのか、俺に近づいてそんなことを訊いてくる。さすがに心配そうな表情に嘘はないようで、ブルーハワイに視線を戻して眉を顰めている。

 そんな彼を安心させるために、ダミアノじいさんが昔、グラマンティ魔法学園の教師だったこと、リカルド先生より強いかもしれないことを説明しておく。

「おじいさまでしたら大丈夫です」

 ――多分。

 と、心の中で呟きつつ、俺も問題の二人を見守る。

 余裕を見せるじいさんと、それに噛みつくかのような敵意を見せつつも笑うカフェオレさん。蛇とマングース、犬と猿みたいな二人だな、と考えているとそこへリカルド先生が戻ってきて、大広間の空気が動いた。


 リカルド先生に支えられて大広間に入ってきたオスカル殿下は、以前見た時より一回り小さく見えた。

 顔色は白かったし、足元はふらついている。部屋着にガウンを羽織っているだけ、といった服装もあって、随分と頼りなさそうだった。

 俺が動くより前に淫乱ピンクが椅子から立ち上がり、彼らに駆け寄る。しかし、リカルド先生が来るな、と言いたげに手を上げた。

「大丈夫だから、兄さん」

 ぎこちない雰囲気のヴィヴィアンとリカルド先生の顔を見て、オスカル殿下が苦笑しながら先生の腕を軽く叩く。そして、一番近くの椅子にまで何とか辿り着き、そのままそこに腰を下ろすと、彼はやつれた顔でありながらもどこか吹っ切れたような表情で、ヴィヴィアンに頭を下げた。

「ごめん。迷惑をかけてしまった」

「いえ、それは」

 ヴィヴィアンは毒気のない彼の顔に何か感じたのか、一度言葉に詰まったようだった。でも、すぐに居住まいを正して深く彼に頭を下げる。

「こちらこそ、どう謝罪していいのか解りませんが、申し訳ございませんでした」


 奇妙な目つきでヴィヴィアンを見つめているリカルド先生に気づき、オスカル殿下は身振りで『二人で話したい』という様子を見せる。

 不満を表情に見せた先生だが、すぐに折れてその場に二人だけを残し、こちらに足を向ける。自然と、彼らの周りにいた召使たちも離れた場所に移動し、遠くから見守る形となった。

「仲直りというか……上手くいったんですか」

 俺が椅子から立ち上がって先生にそう問いかけると、先生は「どうかな」とため息をこぼす。

 そこでリカルド先生も振り返り、椅子に座ったまま微笑んでいる弟の姿と、少しだけ慌てた様子のヴィヴィアンを鋭く見つめた。


 俺はすっかり癖となっていて、自然と意識を集中させて彼らが何を話しているのか盗み聞きする。二人は随分と小声で囁くように話しているから、

「元々、わたしが悪かったんです」

 そう言ったヴィヴィアンの顔は俺の位置からは見えない。しかし、随分と緊張して、そして真剣で、泣きそうだとも思った。それは意外な感じがした。

「殿下を利用しようとしたんです。自分の間違った……欲望のために」

「それはお互い様だよ」

 オスカル殿下の声も酷く静かで、自嘲の笑みが混じっていた。「僕だって欲しいものがあった。そのために、君の存在は都合がよかった。利用して、邪魔になったら簡単に切り捨てられる、いや、消してもいいんだと考えていたよ」


 その途端、淫乱ピンクが正しくその言葉を理解して肩を震わせた。


「お互い、天罰が当たったってことなんだろうね。君は随分と印象が変わった」

「それは殿下もです……」

 困惑しているヴィヴィアンの声は、少しずつ警戒が解かれて柔らかくなる。それでも、以前ほど男性に甘えるような響きはない。

「リカルド先生とは……その?」

 そう水を向ければ、オスカル殿下は困ったように笑う。そこで二人の顔が俺たち――リカルド先生に向いて、先生がじっと彼らを見つめていたことに気づいたのだろう、慌てて顔を見合わせている。

「心配性だからね、兄さんは。随分と甘やかしてくれるよ」

 密やかな笑い声。

 だからこそ、それを遠くから見守る人間の誰も気づかなかっただろう。


「本当は、母を殺して自分も死ぬつもりだったんだけど、少しだけ先延ばしにするつもりだ」

「え」

 さすがに淫乱ピンクが固まっている。

 それに、俺も。

 思わずリカルド先生の服を掴んで、さらに彼らの会話に集中する。

「下手なことをすれば、兄さんに何を言われるか解らないし。それより、君はこれからどうするの? 魔力は戻りそう?」

「えー、あー」

 そこで我に返り、おたおたとする淫乱ピンクだったが、すぐに女の子らしい仕草で両手を胸の前で組んでもじもじとしてみせる。それは可愛らしい女の子の、よくある光景。

 しかし。

「今回のことが大問題になって死刑とかにされるくらいなら、上手いことやって遠くに逃げちゃおうかなー、なんて思ってましたぁ」

 その明るい声は、オスカル殿下も予想外だったのか、肩を震わせて笑う。普通だったら美少年、美少女の微笑ましい絵面なんだろうけど、俺は内心、「うわあ」と思うしかなかった。


「どうした」

 リカルド先生が、服を掴んで離さない俺を見下ろし、目を細めている。しかし、問題の二人の会話はまだ続いている。


「でも何だか、みんな優しいし。どうしたらいいのか解らないってのが正直なところです。逃げる前に、魔力が戻ればいいなあ、って楽観的に考えてますけど、どうなんでしょうね?」

「現実的ではないと思うけどね。兄さんは呪具を使うって言ってたけど、実際にあれを使ってみると解るよ。代償が大きすぎるんだ」

 オスカル殿下がそう囁いた時だった。


「さて、まずは協力してもらおうかの? お主の知識を有効活用してやるぞい?」

 ダミアノじいさんの声が楽し気に弾んで大広間に響く。

 カフェオレさんの厭そうな声がそれに続いた。

『協力して何になる?』

「お主の自己顕示欲が満たされる」

『それだけか?』

「それだけじゃ! むしろ、それ以外に欲しいものがあるのかのう?」

 カフェオレさんは鼻で嗤う。

 しかし、確かに自己顕示欲の強そうな相手だと思う。だから、じいさんの攻め方は間違っていないのだろう。一瞬だけ、カフェオレさんも考えこむそぶりを見せたし。


『では、もう一つ。私の研究欲も満たしてもらいたい』

 やがて、カフェオレさんは歪んだ笑みのまま続けた。冷えた声に陰湿さを含ませた響き。いつものブルーハワイとは違う、生理的な嫌悪感を生むものだ。

「研究欲とな? なるほど、新しい魔道具を造りたいとでもいうつもりか?」

『そうだ。私が今まで、試したことのない素材がある。それを使いたい』

「素材」

 そこで、じいさんの声も冷えた。

『私と同じ魔道具を研究する者なら、一度は考えたこともあるだろう。アンブロシアだよ』


 自然と、俺に視線が集まる。

 ぞわりとした感覚を覚えて、俺は思わず後ずさる。思い浮かんだのは、グラマンティ魔法学園を彷徨う、あの幽霊少女。身体がバラバラにされたという話。

 そして、鳥肌の立ちそうな腕をさすりつつ、首を横に振った。

「わたしを素材にするということですか? お断りです」

「ああ、駄目だな」

 リカルド先生も俺の前に立ち、冷気を発しながら跳ねのける。

 すると、カフェオレさんは拘束された身体を必死に揺らしながら言った。

『生まれた子供でもいい。どうせ、アンブロシアが生まれる』

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