第87話 幕間 13 リカルド

「グラマンティ魔法学園を」

「やめませんよ」


 私は深夜、父の寝室に呼ばれて足を運んだ。もう部屋着に着替えている父の姿は、気を抜いているせいかその辺にいる一般人にしか見えない。健康的な生活をしているのだろう、顔色はいいし体調も良さそうではあるが、表情は気難しいという言葉が似合うほどだ。

 寝室の隣の部屋には、相変わらず沈黙の盾が控えている。父が寝たら彼女も自室に戻るのだろうが、それまでは近くにいると声を荒げることもできない。彼女は父に敵意を持つものに敏感だ。

 私はこの王城に戻ってきてから、いや、正確にはオスカルがあんなことになってから執拗に言ってくるこの話にはうんざりしていた。

 断っても断っても諦めない。

 はっきり言って、面倒くさい。


「オスカルがこんなことになった以上、お前が王位を継ぐことが順当だ」

 父はベッドに腰を下ろし、サイドテーブルの上にあった水差しをグラスに傾け、そのグラスを取って魔力を込める。グラスの周りに白い光が浮遊し、すぐに消えた。

 母が死んでからの習慣になってしまった、毒が入っていないかどうかの鑑定魔法だ。

「私がファルネーゼから出る時に約束しましたよね? オスカルを王位を継ぐべく教育を行う、と。それはどうなりました?」

「失敗した」


 その途端、寝室のドアがノックされる。

 私はすぐに声を上げた。

「すまない、殺意が芽生えたが実行するつもりはない」

 すると、無言のまま沈黙の盾がドアの前を離れる気配がした。


「失敗したのではなく、しなかったのでは?」

 私は父からある程度の距離を取ろうと、椅子を引いてできるだけ遠い位置で腰を下ろす。これで殴ろうと思っても届かない。

「臣下に任せたのは確かに間違いだった。勉強も魔法の訓練も、剣も王族たる考え方も、全て他人任せにした」

「なるほど?」

「だが、理解はできるだろう? あれは……あの女の息子だぞ? 必要以上に関わりたくなかったのだ」

 父の手の平の中でグラスが甲高い音を立てて割れた。苛立った様子のままガラスの破片を魔法で片付けた後、急に何事もなかったかのように私に笑いかけてくる。くそ親父が。


 ――しかし、私も父によく似ているのだろう。


 オスカルに向き合ってこなかった、という点では。


「つまり、その復讐としてオスカルがああなるのを知っていながら放置した、と? そうすれば何も問題なく、後継ぎを私に据え置けると考えたと?」

「放置はしていない」

「だが、何もしていない、と」


 私が発した言葉は、そのまま自分にも突き刺さる刃だ。母を殺されたことによって、無関係であるオスカルに八つ当たりしないように、ただ逃げ出した。王位についている父なら大丈夫だと丸投げしたことも認める。

 どっちもどっち、というわけだ。

 父もまた、複雑そうな目で私を見る。


「だが、お前はグラマンティで神具を手に入れただろう? そうなれば、この国が所有する神具は二つとなる。臣下だって、お前が王位を継ぐことに反対する者はいないはずだ」

「残念な報告をさせていただくと、私の神具は色々と問題がある」

「ああ?」

「父上の持つ神具ほど、優秀ではない」

「そんなことは大した問題ではないだろう」

 父は苦笑して、ふと何か思い出したかのように目を見開く。「それより、婚約は解消してもらう。王位を継ぐなら、それに相応しい相手を探さねばなるまい」

「ああ?」

 私は先ほど父が発したような声を上げる。そして、最初は丁寧な言葉に徹しようと考えていたのに、あっさりと乱暴に変わっていく自分に気づいて舌打ちした。

 馴れ合いは駄目だろう。

 今はファルネーゼの名前を持っていないのだから。


「いいか、リカルド」

 父は小さなため息の後で続ける。「神具と結婚したとしても、生まれてくる子供はアンブロシアになる可能性が高い。もちろん、魔力の高い王家の人間が相手なら、通常の子供が生まれるとも言われているが、そんな危険な賭けは」

 そこで私は手を上げて彼の言葉を遮った。

「もう一つ残念な報告をさせていただくと、これでも私はあの神具を気に入っている」


 こんな話をするために、わざわざ自分はここへ呼び出されたのか、と肩を落とす。

 そして、どうしても私はこの国に帰ってくる理由を見いだせなかった。

 グラマンティでの生活が楽すぎたこともある。権力を持たないただの魔法教師として、好き勝手に何の責任も持たないこと、自由なこと、それを手放すのはとても惜しいと思ってしまうのだ。

 だから、とりあえずはリヴィアを巻き込んでおこう。

 絶対に厭そうな顔をするのが目に浮かぶが、この際、どうでもいい。


「私は結婚相手が彼女でいいと考えている。この夏休み中に、グラマンティで婚約パーティも予定しているし、式もグラマンティで行う」


 父の眉間の皺が深くなった。

「……近隣の王国で、まだ結婚していない姫が多数いてな」

「オスカルにどうでしょうか。心優しく、弟だけを愛してくれる可愛らしい姫を希望します」

「いや、お前が希望しても」

「ああ、そう言えばサクラーティ王国はいかがですか? ちょうどいい、あの王女の名前は確かアデルと言いましたね。魔大陸にある、人間族の大国サクラーティ。しかも、我々が持つよりずっと強大な魔道具を持っているようだ。きっと、オスカルに役に立つものもあるでしょう」

 目に見えて、父の表情が冴えなくなる。

 解っている。父がオスカルを見捨てようとしていることは。

 だが、ここで手を放してしまえば、弟は本当に心を壊してしまうだろう。

「陛下、どうかオスカル殿下から逃げないでください。どうか、救ってあげてください」

 そこで私は口調を改め、礼儀正しく頭を下げた。「今までずっと、オスカル殿下を蔑ろにしてきた分、その心をほんの少しでいい、砕いていただきたいのです」


「助けてくれないか」

 私はあるドアの前でそう懇願した。

 召使たちは全て下がらせたので、今は我々しかいない。だから、本音で話せるだろうと思った。

「お前の力が必要なんだ、オスカル」


 父の部屋を出て、まっすぐに向かったのは弟の部屋だ。ほとんど歩けないとはいえ、彼の部屋の前には見張りの騎士が二人ついている。

 さらに、部屋の中にも召使が二人。

 落ち着いて話がしたいから、と召使だけ廊下に追いやって、私は寝室のドアの前から話しかける。耳をすませば、起きているのだろう弟の気配が感じられた。シーツの擦れる音がゆっくりと響き、やっと返事が返ってきた。

「僕は何もできません」

 とても弱々しく聞こえる声だった。グラマンティで挑むように私を見上げてきた彼と同一人物とは思えないほどに。

「できることがあるから、こうして声をかけている。頼んでいる」

「無理ですよ」

「入っていいか?」

「お断りします」

「ここにいるのは私だけだ」

「……」

 無言であるのに、明らかに感じられる拒否の気配。だが、ここで引いていたらいつもの自分なのだ。相手に嫌がられようと、少しは強引になってもいいだろう。

 私はそこでドアを開けた。


「酷い人ですね」

 力のない声がベッドの上から響いた。必死に身体を起こしたのか、彼の呼吸が乱れている。色の失った頬と、暗い双眸。震える手でシーツを掴んだ手も、完全に白くなっていた。

「すまない。今更、こんなことを言うのもどうかと思うのだが、お前だけが頼りだ」

 私はいつになく必死になっていたと思う。私よりもずっと年下で、体つきもまだ幼さが残る弟。本当ならば私が守らねばならない君主たる相手。

「私は王位を継ぎたくない。どうしても継ぎたくないんだ」

「……え?」

 そこで、虚ろな目が私を見上げる。何の感情もないと思えたその瞳に、少しずつ困惑が浮かんでいく。

「何故ですか? この国の人間は、誰もが兄さんを王位につけたいと考えていますよ?」

「馬鹿馬鹿しい」

 私が吐き捨てるように言うと、さらにオスカルの表情が驚いたように固まる。

「何故? 兄さんは不当に地位を奪われたのでしょう?」

「不当? 喜んで国を出て行ったのは私だ。それについては、お前にも悪かったと思う。全てお前に任せてしまった」

「しかし」

「でもな、オスカル」

 私は乱暴に弟の言葉を遮る。相手の言葉を大人しく聞いていたら何も始まらない。今は少し乱暴でも、こちらの意見を押し通す時だ。

「私はお前なら、この国を任せられると思っていたんだ。あの王妃にどんな問題があろうと、お前は大丈夫だと思っていた。理由なんて解らないが、お前は強い人間だと……いや、こんなことを言いに来たのではない。つまり、何が言いたいのかというと」


 私は弟の骨ばった手を掴み、その小ささに胸に痛みを感じつつも押し隠して笑った。


「私を助けて欲しい。お前が王位を継いで、立派に統治して欲しい。そのための援助は惜しまないし、困ったことがあるならいつでも、何でも協力しよう。だから、私を助けてくれ」


 オスカルは言葉を失ったかのようにずっと私を見つめていた。

 こちらが不安に思うほどに長い沈黙の後、彼は俯いてそっと笑う。

「……兄さんは、本当に酷い人だ」

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